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優曇華 Ⅵ (終)

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「祖師西来、これ拈花来なり。」こう言う内容を本当に体験した人達がおられて、それを伝えてこられた。その中の一つに、達磨大師がインドから中国に来られて、こう言う内容を皆さんに伝えられた。「拈華を弄精魂といふ。」はじめから自分自身の様子だから、教えなくたってよさそうなもんだけども、ねぇ。人から学ぶ用がない筈なのに。

これだけ長い人生を過ごして来たお互いが、殆ど自分自身の真相、本当の在り様って言うものに、目を向けた事がない。学ぼうとするのは、自分を放っといて、他に何か人の言ってる素晴らしい教えらしいものを、こう読んだり聞いたりして、そう言うものをどこから学んで身に着けて、自分を修正して立派なものにしていこう、そう思ってる。そう言う事じゃない、そう言う事じゃないね、精魂をかたむけられた。

その一番卑近な例は、人は一生涯見てご覧なさい。生まれて来て、この身体一つで生涯終るんですよ。もう間違いなくこの身体の活動だけですよ、生涯するのは。何億の人が居ようが、他の人の身体の活動一つもした事がない。思う事、考える事、やる事、言う事、食べる事、味わう事、かむ事、触る事、もう全てこの身体の活動以外にない。

それだのに、時々会社に行ってると言うと、あれは会社の事だから、家へ帰って来ると、これは我が家の事だから。そうやって騙されてるでしょ。見て御覧なさい。全部自分がやってる事ですよ。会社に行こうが自分の家に帰ろうが。これやってくれって奥さんに頼まれた人も、旦那さんに頼まれようが、やってる事は見て御覧なさい。皆自分のこの身心の活動だけですよ。

なんだけども、何か人に頼まれたから人の事をやってる様に思ってるから、つまらないじゃないですか。気に入った人、気に入らない人をそこへつけて、気に入った人から言われたから一生懸命丁寧にやる。気に入らない人に言われたから、まあ何かこれで良いか、そんなつまらない人生を送るから、自分が滅茶苦茶になってるじゃないですか。そう言う滅茶苦茶な人生送ってると、傍の人も、お前は何だ、って言って難癖つけられると、腹立つんですよね。

自分で滅茶苦茶な人生を送っといて、人に文句言われて又腹立てる。本当に何処までいっても愚かって言っていいでしょう。そんな淋しい人生を送って欲しくない。そう言うのがお釈迦様の慈悲心じゃないですか。皆さんに。だからこう言うもの伝えて来たんでしょう。

「弄精魂とは、祇管打坐、脱落身心なり。」本当に自分自身の今の真相に触れる事以外に無い。勝手に自分がつまらないものに、役に立たないものに、愚かだと、皆そうやって自分の見解でこの素晴らしいものを皆傷つけて、しかもその考え方が自分を不自由にして、動かさない様にしてるんじゃないですか。他の人が自分を苦しめてるなんて無いんですよ。

あいつがあんな事を言うもんだから。そう言う捉え方をしたんでしょう。そう言う聞き方に変えたんでしょう。聞いて御覧なさい。あいつがあんな事を言ってるって、そう言う風には聞こえてない。言ってる通りに聞こえるだけであって、あいつがあんな事をって、そんな風にはものは見えないんですよ。それをやってる通りに見えるだけ。

嘘だと思うんなら、今からよーく自分自身に目を向けて下さい。皆そうやって自分の思いをつけて、真実を眩ましてる。それを兎に角やめて欲しい。それをせずに自分の今の在り様にこうやって触れてほしい。そう言う事が祇管打坐と言う坐り方じゃないですか。身心脱落と言う在り方です。

先ほどの生活してる人は誰も居ない程、身心脱落でしょう。身も心も何も、先ほどやった事から抜け落ちてる。縛られて不自由でどうしようも無い人は居ない。皆自由に今の活動をしてるじゃない。どんなに今まで目茶目茶な事していようが、全部そう言う事から離れて、今の生活してるじゃないですか。そうじゃないですか。

「仏となり祖となるを弄精魂といふ、」そうやって、自分自身の真相にふれて、自分自身で自分自身の事を自覚して救われて行くって言う事でしょう。

「著衣喫飯を弄精魂といふなり。」何処でそれを本当にやるかって言ったら、ご飯を食べてる時はご飯を食べる事によって、着替えをしてる時は着替えをしてる事によって。他の事でやろうとしたら無理じゃないですか。虫が鳴いてる時、虫が鳴いてる時でなきゃ、虫の鳴いてる声聞けないじゃないですか。コップはどうなってますか。コップ見てる時でないと、コップの様子は分らないじゃないですか。他の事を持って来るって事はないのです。必ずその事でやるのです。

ところが人間て不思議なもんだね。今やってる事じゃそのものが分らないと思うから、すぐ今やってる事を放っといて、何か比べるものをそこへ持ってきちゃ見る。水一杯だって、比べるものなんか持って来なくたって、飲んだらそのものが間違いなく分るじゃないですか。比べたってこのものの味を味わう事にはならないですよ。良いですか。幾つも並べて飲んだって、皆それに入ってるものの味を学ぶだけであって、このものの味を学ぶにはこれ以外に無いんですよ。ねぇ。

「おほよそ仏祖極則事、かならず弄精魂なり。」仏様や祖師方が一番大事にしてる事はどう言う事かって言ったら、本当にその時その事によってその事を知るって言う事が極則なんです。これ以上無いんだよ。

パン!(扇で机を打つ)音がしてる時に聞かなかったら、この音が生涯聞く事は出来ない。パン!ねぇ、そうじゃないですか。たった是だけの事なのに。これを以って極則と成すんでしょう。この音をパン!本当に聞きたかったら。どっかこの音を、パン!今この音をどっかで聞く事が出来ますか。無理じゃないですか。パン!この時にこの音を聞く以外に無いじゃないですか。そんな誰だって本当はやってるじゃないですか。やってるんだけど、そんな事が大事だと思ってないから、パン!そんな風には聞かないじゃないですか。パン!それで困るんでしょう。

「かならず弄精魂なり。仏殿に相見せられ、僧堂を相見する、」建物だってそうでしょう。仏殿て言うのは、お寺で言えば法堂と仏殿が一緒になってものを本堂といいますね。ここは本堂と言うんだけど、仏殿て言うのはその中で、仏様だけを祀ってる建物を仏殿と言います。

禅寺の基本的な建物は、七堂伽藍って言って七つ位挙げてある。人間が両手を広げて立った様な形で配置が大体されていますから、両足で両手を広げて立っていますと、股の辺に山門がある。で、入ってくる心臓部があって、頭がある。この心臓部は仏殿、頭の部分が法堂と言われる。教えを説く場所はですね、仏殿と法堂合わせて本堂と言います。両手になる場合は、右手の方に、僧堂、皆さん坐られている白雲閣の様な位置です。左手に庫裡がある、ね。足の方にはお手洗いとお風呂がある。大体これで禅寺は成り立っている。七堂伽藍。

そう言う文言ですが、僧堂、僧堂は今申し上げた様に、白雲閣の様なものですけども、内容はもっと充実してると言って良い。所謂基本的な修行僧の居所でして、寝起きがそこで先ずされると言う事と、食事がそこでされると言う事と坐禅がされると言う事です。だから生活の殆どがされるのが、僧堂と言う建物です。

ここは今、坐禅だけが出来る様な坐禅堂と言う、僧堂はもっとそう言う意味では、内容が濃いですね。畳一畳が一人の住処で、その前に函櫃と言う物があって、そこに寝具、そして日常用の最低限必要なものが収められて、これで九十日間位の間、そこを自分の寝起きをする場所として使っている。襖も何も区切りもない。で、夜はそこで寝る。三度の食事はそこで坐禅をしながら取る。その他坐禅をする時はそこで過ごす。あと余所で仕事がある時にはそこから出て行って、それぞれの部署に行って仕事をして、終わると又そこに帰って来るって言うのが僧堂です。まあいずれにしても仏殿に相見、出会って仏殿との活動が始まり、僧堂に出会って僧堂の様子に初めて触れる。そう言う事ですね。

「花にいろいろいよいよそなはり、いろにひかりますますかさなるなり。」もう一々その時その時に触れ合った様な様子が無限にある。建物一つでも。不思議ですね。だから写真を撮られる人なんか、一年かけて一枚の写真を撮りに来る。ここにお稲荷さんがこうあって、夕陽が当たった時のその写真を一年かけてこうやって構図を決めて、どう言う時にどう言う光が来てどうやったらどうなるって言う事を一年位かけて、それでその日に大体撮りにくる。それでも思った様に行かない。そりゃそうでしょう。その時に頭に描いたものと現実は違うからね。

そう言う中で土門拳と言う人が写真を撮りに来た時にちょっと触れ合ったので、そう言うのを如実にこう見ていて、ほう写真この位一流になる人ってこんなに大変なんだって思った。撮り方が、素人はパチパチ撮るんだよね。専門になればなるほどこんなに丁寧にやるんだなって思いましたね。これはこの通りでしょう。「はなにいろいろいよいよそなはり」本当にその時でなければお目にかかれないシャッターチャンスって言うものがあるじゃないですか。

この前カメラマンの方と会ったんだけど、私もシャッターを押すんだけども、撮ろうと思った時に押すと、これを撮ろうと思った時に押すと、皆後見てみるとズレてる。それ位駄目だね。シャッターが遅い。プロは、プロは違うな。逃がさない。私の頭は捉えてから押すから遅いんだ。この時だなって押すと、もう済んじゃった後押してる。面白いなと思った。

「さらに僧堂いま板をとりて雲中に拍し、」って言うのは、僧堂と言うお坊さん達が基本的に修行している場所に木板と言う様鳴らし物が吊るしてある。それを打つとパーン、パーンかな。パーン位の音がするな。「仏殿いま笙をふくんで水底にふく。」雅楽の様な笙、笛ですね。ああ言うものを吹く。儀式の時に吹くのでしょう。そうすると音がそこに響く。何でもない事でしょうけども、そう言う表現を使っています。

本当にその通りいちいちの様子がある。「到恁麼のとき」ずれないと言う事ですよね。「到恁麼のとき」ジージー外で虫が鳴いてる、ズレないじゃないですか、虫の音。「到恁麼のとき」聞きに行くなんて言う事はない。鳴いてる通りにちゃんとある。不思議だね。

「あやまりて梅華引を吹起せり。」まあこの引くと言う事がありますが、梅華を引くって言う事がある。それは次の如浄禅師の、道元禅師のお師匠様のお話を読んでみます。詩が書いてあるから。

「いはゆる先師古仏曰、『瞿曇打失眼睛時、雪裏梅花只一枝。而今到処成荊棘、却笑春風繚乱服』(瞿曇眼睛を打失する時、雪裏の梅花只一枝なり。而今到処に荊棘を成す、却って笑ふ春風の繚乱として吹くことを)」

ま、これを受けてさっきちょっと文章があったんじゃないですかね。道元禅師の色んな話をしたのは、大体こう言う事を挙げておられるでしょう。第一句目の「瞿曇打失眼睛時」って言うのも有ったでしょう。ねぇ。本当にお釈迦様が明けの明星をご覧になった時、今までの様に自分をこちらに立てといて、そして金星を向こうの方に置いといてそれを眺めて、金星が光ってるとか見えるとかって言う様な、そう言う触れ方でない時ですね。本当に物を見てるって時は必ずそう言う風になるものでしょう。


向こうの物を見るんだから、こっちは忘れるに決まってるじゃないですか。エー、こっち離れるに決まってますよ。向こうの物を見ようと思ったら、こっちの事は一切忘れる。嘘だと思ったらやってご覧。皆そうなるから。こっちの事一切忘れて、その事だけにこうなってる必ず。そうなると日常も問題なくなるじゃないですか。自分を立てて相手を見るから、気に入るとか上手く行くとか行かないとか、いつもそうやってる。そんなことは無いですよ。

「雪裏の梅花只一枝」まあこれは如浄禅師の表現だけども、お釈迦様がこうやって花を持ち上げて皆さんに見せてる。その通りの様子があるだけだよね。而今て言うのは今ですね。到処って言うのはここでしょう。ここでこうやった時、その所に「成荊棘」とある。この様な事がさっと出て来るじゃないですか。こうやって。茨の様にって言うでしょう。棘や茨の様に、これは前の句が梅花だから、梅の枝を見るとよくわかる。梅の木って言うのは古木になってもそうだけど、新しい木もそうだけども、荊棘を生ずるね。棘があったり色々してるじゃないですか。梅採りに上ってみるとよくわかる。痛いなってふとこう尖った針が枝について刺さる。ああ言う様な事があるから、そう言うものを歌の中に引いていますけども。

「却って笑ふ春風の繚乱として吹くことを」どういう境地でしょうかね。梅が咲く頃、梅が咲いている所に風が、春風がこう吹いてくる。繚乱。ねぇ何だかあでやかな感じがするのかな。花が咲き乱れる。いい香りがするのかな。「却って笑ふ」もうここら辺まで行くと、普段自分の描いてる頭の中や胸の中で色んな事、やってる事、本当に何処に行ったか分らない様な位、すっきりした状況の中で、春風が梅の咲いている処に、さーっと吹いて来ると、それによって何だろう、おのずと我を忘れると言う位の状況があるんじゃないですか、エー。

「今の如来の眼睛あやまりて梅花となれり。」て言う、こう言う道元禅師は表現をするのねぇ。お釈迦さんの目が間違って梅の花になっちゃったって。エー、どう言う事かって言えば、梅の花を見てる時、梅の花だけが見えると言う事でしょう。目らしいものは一つも無くなっちゃったって言う事でしょう。

「梅花いま弥綸せる荊棘をなせり。」その様子が全面にこうやってその通り、そこに梅の木があって梅の木に花が咲いてる通りの様子が、パァーァーァーとこう出て来るんでしょう、ね。弥綸せり。一杯。「如来は眼睛を蔵身し」仏様は何時の間にか仏様らしい姿を全部失ってしまって、ただ眼の様子だけになってる。じゃ眼の様子はどうなるのかって言えば、梅の花の咲いて様子だけで、梅の花の様子はどうかったら、その通り今の前に展開している様子そのものだって、そういう風にずっと追ってますね。

こう本当に親しい様子でしょう。皆さん別々に生きてる人なんか居ないじゃないですか、今と。何時も今と一緒の、全部今の様子ですよ。だからこの今、ここに有る全部今の様子と別々に生きてる人は一人も居ないじゃないですか。そう言う内容をこうやってこんなに丁寧に見せてる。

別々じゃないのにこれをちゃんと一人一人、ああ、あの人も来てるこの人も居る、あの人初めてだとかって、こうやって皆別な様にこうやって思って見てる。それは表面だけの話でしょ。本当の様子を見ると別な事じゃなくて、本当に自分の様子そのものでしょ、全部。今、今、今の様子ですよ、全部。何もかも。今の様子。他の時間帯の様子ではない。面白いね。こんなに道元禅師と言う人、よくものを観察しておられる。知ってるねぇ。

「いまかへりて『春風』をふく。」我を忘れて生きてる時に、風が吹くとはっと我に返るのかも知れない、ねぇ。そうすると今迄の自分を忘れて、こうやって物とこんなに親しく生きてた時の様子に気づくのかも知れないね。「しかもかくのごとくなりといへども、桃花楽を慶快す。」それは次の句でいいますかね。

「先師天童古仏曰、『霊雲見処桃花開、天童見処桃花落』(霊雲の見処は桃花開、天童の見処は桃花落なり)」これには霊雲の志勤禅師と言う方の故事があります。中国で花って言うと桃の花を指します。日本で花って言うと桜の花をさします。桃の夭々たるって言う様な句があるけど、史経か何かですかね。桃の方が桜よりあでやかでしょうね。桃の咲いてるのをその霊雲の志勤と言う方が、桃の花が咲いてる時期に、そこを通られた時に桃の花が風に触れて散った時にですね、それによってお悟りを開かれたって言う事がある。

それに対して道元禅師は道歌と言って歌を詠んでおられる。所謂和歌ですね。短歌。「春風にほころびにけり桃の花 枝葉にのこる疑いもなし」詠んでおられる。春風にほころびにけり桃の花 枝葉にのこる疑いもなしって言う事は、本当に花びらがこう散った時に、否応なしにもう無条件でその通り一点の疑う余地もない。それは見る人と見られる人って言う様なもののある様な触れ方でないと言う事でいいでしょうか。そう言う事によって自覚をされた。そう言う事をここに歌っておられる。

だけども私、如浄禅師は、天童、私は桃花見し処「天童の見処は桃花落なり」一方は開くって言ってるんだけど、一方は落ちるって言う風に言ってる。別にその文字によって変わる事はないけども、自分の表現の仕方です。ねぇ。脱落って言う落ち方もあるでしょう。何にもくっつかないって言う事でしょう。落ちるって。ねぇ。落花する。花が落ちる、落花。花が落ちて実がなると落花生。アッ、またすべってしまいました。

「しるべし、桃花開は霊雲の見処なり」と道元禅師もおっしゃって、それは霊雲の志勤禅師の境涯、ご自身の様子をご自身の言葉で、内容をはっきりしてるものを、自分の言葉で表している。「直至如今更不疑なり。」疑わず。今道元禅師の和歌を紹介した様に、「枝葉にのこる疑いもなし」それで今までのどうあったらい、何が本当だ、どうしたら修行が完成する、悟りはどうだ、一切そう言うのが疑うことなく、それで全部氷解して、桃の花の落ちるの処に触れて、そう言う力を得たのでしょう。

桃下落の方は私の見処だと如浄禅師がおっしゃる。「桃花のひらくるは春のかぜにもよほされ」それはそうでしょうが。桃の花が開く、ここは良寛様のご縁のあるお寺でございまして、次の様な一首があります。味わってみて下さい。

「花無心招蝶 蝶無心尋花 花開時蝶来 蝶来時花開 吾亦不知人 人亦不知吾 不知従帝即」良寛様の歌。春ってそう言うものでしょう。見える訳じゃない、春が来たって言うのは。春が来た来た何処から来たと、見える訳じゃないけど、花が咲く時を春と言う、言うでしょうね。

「春のかぜにもよほされ、桃花のおつるは春のかぜににくまる。」にくまると言うのは悪いと言う字を漢字で書きますね。にくまれり。りっしん偏の憎悪の憎じゃなくて。昔からやっぱり落ちるより咲く方がいいんだろうね。人間の感情として。そう言う事があるんだろうね。善し悪し、だから椿なんかは生けないとかって言うじゃないですか。茶花生けない。ポトンと落ちるの嫌がるとか言って。落ちたって風情があるじゃない。いいじゃないですか。ねぇ。

「たとひ春かぜふかく桃花をにくむとも、」折角こんなに綺麗に桃の花が咲いてるのに、春風がこんなに吹いて来るもんだから、一気に花が皆散っちゃうって、とかってがっかりする様な言われ方なんでしょうね。「桃花落ちて身心脱落せり。」でも霊雲はその春風に桃の花が散る事によって、本当の境涯を得た。自覚をなされた。何でそれを憎む必要があるか、嫌う必要があるかと、こう言ってるでしょう。まあその位でいいですか。

正法眼蔵 優曇華 第六十四

爾時寛元二年甲辰二月十二日在越宇吉峰精藍示衆

道元禅師四十四歳の頃のお示しです。越前、福井県のこの吉峰寺と言うお寺は、永平寺の近くなんですけども、冬は、最近までもそうだったと思いますが、お寺を閉めて下で生活する位、雪が深い所だった。この時代は正しくその当時は大変なとこで、二月十二日。それでこう言う雪裏の梅花と言う話も取り上げているのかも知れません。こんな時に花が咲いてるかなと思うんだけど。それはまあいいとして。

そこでもう一つ申し上げておきますと、この優曇華というのは、本当に私達がこうやって、お互い何気なく、毎日、日々時々刻々生きてますけども、この今の在り様ってのは、たった一度しか出会う事の出来ない様子ばかり。これは無常を感ずるという上においては、本当に無常をよく知る人でしょう。もう取り返しがつかない、疎かに生きてなんか絶対に居れない、そう言う素晴らしい有難い日々を送っていると言う事を、一言やっぱり優曇華では大事にして貰いたいなと思います。うすると自分達の生き方がどっか変わるのじゃないかしら。

何か他の事、他の処へ向かって何か素晴らしいものをやるんじゃなくて。だってしょうがないじゃない、生涯こうやって今生きてるだけなんだから、何処行ったって。その時そこで本当に生きてる様子があるだけじゃないですか、生涯。その内容を本当に触れて自覚をしてほしいと、こう思いますね。丁度いい位の時間になりました。

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優曇華 Ⅴ

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「『皆愛楽』とは、」皆愛でて楽しむと言う事ですね。それはどう言うことか、「面々の皮肉骨髄、いまし活鱍鱍なり。」人間で言えば、先ず人間の外側を覆っている皮や、それから皮に包まれている肉や、骨や骨の中にある髄ですね。まあ全部と言う事でしょう。それが現に、今しここで、今ここで活き活きとしてる様子、活動してる様子、活鱍鱍。

皆さんが知ってか知らないかは別としてですね、病気で何年も横になって、床に臥せっている人でもですね、全身心の細胞を見てごらんなさい。この通りですよ。活鱍鱍ですよ。お医者さんに何か聞いた事があるけど、どの位の時間かけると大体細胞が全部入れ替わるとかって言う話聞きますよね。入れ替わっちゃうか、と思うんだけど、入れ替わるんだって。言うじゃないですか。聞いた事あるでしょ。細胞全部入れ替わる。一ヶ月も経つ、そんなに経たない内に入れ替わるんじゃないですか。全部。又調べてみて。正確な時間忘れたので言いませんが。それでこんなに風に保っているんですね。

身近な例を挙げれば、爪が伸びたり、髪の毛が伸びたりする事で、皆さんがよく分る事でしょう。あるいはお風呂に入って垢が出る。或いはお手洗いに行って小水が出る。あれは血液の滓ですからね。皆死骸みたいもんです。そう言う具体的な話をすると、仏法ってあまり面白くないから、あまりやらないんだけども、皆さんに少し理解の為にそう言えば、よく分るでしょう。

「しかあれば」さっき読んだように、「しかあればすなはち、一切はみな優曇華なり。」一日の様子見たってそうでしょう。どれひとつ取ったって、その時限りでしょうが。だって大体時間がですね、重なるって言う事は無いんだものしょうがないじゃない。時間て。本来そう言うものでしょ、時間て。重ならないでしょう。一度も重なった事がない動きするでしょう。前にも戻らない。人間の考え方は前にも後ろにも上にも下にも中にも外にも、何処へ向かって行くか分らない。滅茶苦茶に動くから、それでものが分らなくんるでしょう。考え方で。

実物に触れて御覧なさい。絶対今の様子しかない、人が生きてる時。無条件でそうですよ。今生きてる様子だけですよ、人はどの人も。その時に人間の知能の中にものを思う力があるから、思い始めると現実から目が逸れて、自分の思ってる事でものを解決しよう思うから、思いの中でものが解決した事が無いじゃないですか。違いますか。どんな事だって。思っただけでものが解決した試しが無いじゃないですか。必ず実行して初めて、その事が解決の方向になって行きますよ。

じゃ何処で実践するか。ここでやるしかないじゃないですか。この自分の身体が此処にある処で今。他の時間帯なんか人間は持たないんですよ。思うと、ずーっと過去から未来まで長い時間を、ずーっとあるって思う。その長い時間があるって思う、思ってる事は、今皆さんの此処での活動ですよ。一人一人自分自身の今、自分自身の中の今此処でやってる活動がこうやって、昔からこれから先、ああも思いこうも思って、もの凄く沢山あるって、あんな事もあったこんな事もある、これからもこうなるああなる、一杯やってるけど、全部今此処でやってるだけですよ。他の人の何処かにそう言う事があるって言う事ではないんですよ。

取り挙げるって言う事自体が、必ず自分自身の中に今取り挙げて、自分自身の中でそれを味わってる以外に無いんですよね。それだのに何処かから間違えて、向こうの方にそう言う事があるって事を思うじゃないですか。だから、思いの上で勉強したら、ものの真実は絶対に分らない。真実は思いの上の事じゃないから。

「かるがゆゑに、すなはちこれをまれなりといふ。」 電車に乗ってたら週刊誌の字幕が出てた。あそこに希と言う字があった。希望の希です。まれです。「『瞬目』とは」瞬目って瞬きするって言う様な事ですね。字の意味はね。「『瞬目』とは、樹下に打坐して明星に眼睛を換却せしときなり。」いきなりこれが出て来るので、皆さん戸惑うかも知れませんが、この話を引き合いに出すのにはですね、かってお釈迦様が優曇華と言う、コンパラゲと言っている花を手に持ってお出ましになった。

その時にですね、どの位の方がそこに居られたかは知りませんけども、その中の一人迦葉尊者と言う方がですね、お釈迦様がこうやってお花を手に持って出て来られて、瞬目、目をこうやって瞬いたんでしょうね。そしたら迦葉尊者と言う方がそれを見て、相好を崩された。破顔ですね。相好を崩されて、ニコッと微笑まれた。何とかの微笑みと言うおがある。何だっけ、モナリザか。あれも良いかも知れないけど、破顔微笑。言う様な話があるので、これが最初に瞬目と言う事を引いてくる処の題材にはなってる。

ここにちょっと挙げてありませんけども、そう言う事を、見ていくと大体そう言う事が理解頂けるかと。目をこうやって瞬くと言う事ですね。それはどう言う事か、木の下に坐っておられて、その時に明けの金星、明星です。明星に、眼睛は目です。

「換却せしときなり。」って言う事はですね、皆さんが普通物を見る、見るって言うんだけど、いいですか。いいですか。いいですか。やって見ますよ。(周囲を見る)こう言うのを見ると言うのですね。分りますか。こう言うのを見ると言う。この動いた通りに、動いた通りにあるだけです。それだけです。ああ、あんな事になってると後で思うのでしょうけども、思う事と本当に見るって事は、これ程違う。

その通りここにも「眼睛を換却せしときなり。」こうやってやってみますから、もう一回見て下さい。自分の目で見たって言う気配が何処にありますか。エー。こう言う風な事がそこに展開されるだけでしょう。違いますか。パン!(扇で机を打つ)こう言う事言っておられる。

だけど私達は常識として、自分の目があって物に触れると見えるって言う風に理解してる。こうやってる時に目なんか何処にも出て来ない、蛍光灯の様子があるだけ。目なんかそこへ出て来たら大変。蛍光灯見たって、自分の目が出て来たら、蛍光灯が見えなくなっちゃう。障子見た時、ガラス戸見た時、自分の目が出て来たら、こう言う風にはならない。

不思議ですね、物を見るって言う事。物が見えるって言う事は、本当に自分が居なくなるんですね。そのものだけがあるんです。そのものだけがある。それを皆さん見てるって言ってるんでしょう。そうでしょう。その通りの事がそこにあるだけの事を、見てると。此処に有る物を、こうやってこれから見るんじゃないですよ。あすこに木魚って言った時には、もう見た後ですよ、皆。エー、不思議ですね。見るなんて事は一つもやらないよ。

こう言う事が道元禅師が書いておられる。これはお釈迦様がお悟りを開いた時、どう言う風になったのかって言う事を、道元禅師がご自分でも体験してよく知ってるから、こう言うな事書いてる。誰しもの様子ですよ。それだのに、どうしても自分て言うものがなくならないと思ってる。自分が居て物を見てると思ってる。日常そこら中歩いてる時に、周りの景色があるだけじゃないですか。自分の歩いている事さえも知らないじゃない。そこに居る事さえも。周りの景色だけがそこに展開する。ねぇ。

「このとき摩訶迦葉、破顔微笑するなり。」それはどう言う事かったら、お釈迦様のそう言う在り様を、摩訶迦葉と言う方も本当に自分でよーく知っておられる。お互いの内容を十分知り尽くしていて、目を合わせて、パチッとやった時に、一方は目を瞬かせ、一方はニコッと笑った。そう言う間柄です。

「顔容はやく破して、拈華顔に換却せり。」見てる方もですね、お釈迦様が花をこうやって触れてる様に、知らずになるんじゃない、触れると。皆さんだってそうでしょう。おばあちゃんと触れたり、おじいちゃんに触れたり、孫に触れたり、色んな人にこうやって触れるとですね、不思議に自分で何も構えていないのに、その触れた人によって全部こっちが替わって行く、コロコロ、コロコロ。人間の顔だけじゃない。色んな物に触れたら、必ず触れた物に変わって行きますよ。同じように居る人は一人も居ませんよ。

極端な事を言えば、笑っている顔に触れたら、怒っている顔に触れた様には決して変わりませんよ。ね。顔容って、私達、今容顔と言う熟語で使ってるでしょう。ねぇ。きちっと決まった今の顔の形が素早く変化して行くって言う事です。そして物に触れた時に、触れた様に変化して行く。それだからニコッと笑われると、今までブスッとした人が何故か変わるじゃないですか。エー、ねぇ。いいじゃないですか。

孫なんか特にそうでしょう。ねぇ。家の中が不穏な状況になってても、孫が一人居てニコッと笑うと、皆それで救われてちゃう。凄い力ですね。仏様の様だと言うんじゃないですか。何も教えた訳じゃない。何もこうなってくれって頼んだ訳じゃないけど、皆自分の拘ってた持ち物がですね、そのニコッとした子供の顔に触れると、コロッと知らない内に皆変わる。皆さんだってそうだから、使えばいいじゃないですか。何で勿体ぶって使わないんですか。何時までもブスッとした顔で。一回怒ったら、二、三年そのままで居る様な、つまらないじゃないですか。

「如来瞬目のときに、われらが眼睛はやく打失しきたれり。」そこに重ねて書いてある。お釈迦様が瞬きをした時に、私達の眼はどう言う風になるかって。こう言う風になるんでしょう。向こうでお釈迦様だけがこうやったって言う様な事はない。エー見てる方の人が、向こうだけがこうやってると言う事はない。必ずその様に一緒にお釈迦様が瞬きした様になるから、あ、瞬きしてるってのが、皆さんが分る。

向こうで虫が鳴いてるだけで、こっちも同じ様に虫の音が聞こえてなかったら、虫の音が聞こえるとは言わないんだよ。虫の音が聞こえてるって言う事は、向こうもこっちも別々じゃないんです。必ず一つなんです。そうでないと虫の音は聞こえない。そういうものじゃないですか。

それだのに人間は、向こうで虫が鳴いてこっちで私が聞いてると思ってるから、そう言う聞き方しかしてない。本当に虫が鳴いてる時の様子見てると、確かに向こうで虫が鳴いてるには違いないんだけども、こちらも虫の鳴いてる通りでしょうが。何故か。ねぇ。こう言う風になる。

「この如来瞬目、すなはち拈華なり。」これがお釈迦様が八万四千の大勢の人が居る所で、コンパラゲと言う華を持って来て見せた内容だと言うんです。お釈迦様何を本当に皆さんに伝えたのか。お釈迦さんの何かを皆さんが勉強するんじゃないんですよ。自分自身の本当の在り様を、お釈迦様はこうやって見せたんですよ。

だけど人間て勉強する時に、向こうの人が何かやると、向こうの人を見てると思ってるじゃないですか。そうじゃないですよ。向こうの人がやってるのを見てるのはあなた方ですからね。その自分がみてる様子に目を向けなきゃ、向こうの人のやってる様子に目を向けるんじゃないですよ。向こうの人がやってるのを見てる自分の様子に目を向けないと勉強にならない。勉強ってそうやってやるんですよ。修行って。全てそうですよ。皆さんが毎日生活してる中でものを学ぶってのは、必ずそうやってる筈です。そうでないと学べない。

「優曇華のこゝろづからひらくるなり。」下にはおのずからって言う風に書いてあるんですかね。それ自身と書いてある。おのずからと言う事ですよ。その事が、本当にその事を教えるんでしょう。その事によらなければ、その事は分らないのでしょう。他の事を持って来たのじゃ。ここにおいて修行の在り方がはっきりするでしょう。修行するっていう事は、どっかに向かって行く事じゃない。何かを求めて変えて行く事じゃない。自分自身の、本当にこうやって生きてる生き様そのものに触れてみる必要がある。それが修行すると言われている。仏様達が伝えている修行の在り方なんでしょう。

一般の修行は、道元禅師も指摘されている様に、自分の今生きてる事の他に本当のものが有る様に教える。今ここでこうやって生活している事の他、極楽浄土がどっかに有る様に教える。そう言う事がずーっと、道元禅師がお出ましになるまで日本の宗教界の教えって、そう言う風にとんでもない処に人を導いていた。人を迷わす、騙す、心を乱す。そう言う教えしかしてなかったんじゃないですか。初めて道元禅師と言う方が出られて、そう言う事が、お釈迦様の真意が、日本に正しく伝えられたといっていいでしょう。で、そう言う事が、ここに一応挙げてある。

ちょっと休憩しますか。手足伸ばして、顔もゆるめて下さい。次へ行きますか。

「『拈花』の正当恁麼時は、」だから今話してた様に、お釈迦様がコンパラゲと言う華をこう持って来て、皆さんの前で見せられたって言う事、その時ですね、正当恁麼時。こうやった時(花を見せる仕草)、皆さんが居る所へ、こう華でこうやった時ですね。「一切の瞿曇、」瞿曇は本来はお釈迦様の事を指すのでしょうけども、「一切の瞿曇、一切の迦葉、一切の衆生、一切のわれら、」色々分けてありますが、もう一切で済むのでしょう。ね。誰も彼もと言う事でいいでしょう。

「ともに一隻の手をのべて、おなじく拈華すること、只今までもいまだやまざるなり。」本当に今だってそうでしょう。ここに居るこれだけの人の前で、こうやったらですね、皆さんと私が別々に生きてる訳じゃないから、必ずこうやったら、皆さんもこう言う風な事に、否応なしになるんでしょう。他の時間帯があれば別ですよ、こうやった時に。無いんですよ。ここに居る時に。今こうやったら、必ず、柱も畳も電気も、皆こうやったらこう言う風に必ずなる。今に至るまで、これからもそうでしょう。それがものの真相でしょう。何時もずれない様になってる。

今の在り様にこれから成るなんて言う事がもしあったら、大変な事ですよ。今の在り様って言うのは、これからどうかしてなるって言う様な事は一切ない。どうもしないのに、皆今の様子でしょうが。今の様子以外の人は無い、ここに。

どうしてそれだのに、争いごとが起きるんでしょう。それは、こう言う幸せな生活をしてる事を、皆さんが案外知らないからでしょう。それで自分勝手な事を思った処の上から生活をする人が多いから、問題があるんでしょう。必ず、一緒ですよ。どんな時も見てご覧。

「さらに手裡蔵身三昧あるがゆゑに、四大五陰といふなり。」四大五蘊はこの身体の事です。何時でもそう言う風になってるからって言うんです、この身体が。だからこれを四大五蘊とも言うんだけども、法身とも言うのでしょう。素晴らしい事って言うのでしょう。一生涯生きててもですよ、今からずれた生活をする人は誰一人居ません。エー、いいじゃないですか。

何処で問題が起きるんですか、今からずれないのに。今からずれないと言う事は、もう一つ言い方を変えれば、もう一つの生き方が無いのですよ、人は。もう一つの生き方が無いと言う事はどう言う事かといったら、争いが起きないと言う事ですよ。迷惑をしないって言う事ですよ。どっちが本当だって言う様な必要が無いと言う事ですよ。もうこれで修行が完成されるんじゃないですか。あ、本当にこの儘で大丈夫だ。分らないから自分の思いを中心にして、まだ何か、どうかしなきゃ本当にならないと思ってたけど、そう言う事とは全く違うって気づくんじゃないですか。

「『我有』は『附嘱』なり。」我有、ガウ、何か吼えたみたいな、くっついたみたいな響きがあるんです。ガウ。自分の様子以外に無いという事でしょう。我有。丁寧に説明をすれば、物が色々ここに有る、こうやってあすこにこう言う物がある、ああなってる、こうなってるって言う事、見て御覧なさい。皆それは我有でしょうが。自分の様子でしょうが。他の人の見てる様子はないじゃないですか。こうやって。

色んな事が有っても、それは全部各自、自分自身の今の様子でしょう。もっと言い方を変えれば、他の人が見てる事じゃないでしょう。自分の見てる様子しかないのでしょう。それ位ちゃんと全部自分のものになってるじゃないですか。我有。

それだのに頭はあっちにあるって。それあっちにあるって言ってるんですよ。あっちに有る、あれ私の事じゃないって。これさえも、今各自の様子そのものでしょう。変じゃないですか。真実と比べてみたら、皆さん頭の方が狂ってるんじゃない。と言ってることと、思っていることと、そして事実と三つある様にしか思えない。しかし、そんな風になってないじゃないですか。

こう音が聞こえるんだってそうでしょ。誰の様子ですか。皆各自、自分自身で聞いてるのでしょう。他の人が聞いてる虫の声じゃないじゃないですか。聞こえるって言う事は、みんな自分の上で既に戴いてるって事でしょうが。我有でしょう。我有は附嘱って、本当にこのものの様子でしょう。

「『附嘱』は『我有』なり。」って逆に今度は言ってます。このものの上にくっついてる様に、或いは見える様に聞こえる様に思ってる事は、それは皆自分自身の上の在り様じゃないかって、言ってるのでしょう。「『附嘱』をかならず『我有』に罣礙せらるゝなり。」今見てる様子、今聞こえてる様子しか無いじゃないですか。罣礙せらるるって言うけど。他の人の見てる様子、他の人の聞いてる様子なんて、一切入って来ないですよ。エー、不思議だね。

そんな見え方しない。そんな聞こえ方しない。お水一杯飲んだって、他の人が今飲んでる味わいなんか絶対にそこに入って来る事はない。コン!(机を打つ)まあそう言う様な事が書いてあるんですね。書いてあるだけじゃつまらないから、自分の事だからよく自分の事で勉強してみると、触れてみると本当にそうだって事は胸落ちがするでしょう。そこまで少なくともやってほしい。

「『我有』は『頂寧』なり。」下にも説明があるけど、頂寧て元々はこの辺(頭に触れる)の事を言うんですね。ちょうねいと読みますから。意味合いとしては一体って言ってます。別々でないと言う事です。ジージージー(発音される)いまこうやったってそうでしょう。知らないうちに一体になるのでしょう。向こうで和尚が何かジージー言ってるって。そう言う風に捉えることじゃなくて、ジーって言うとすぐ一体になるんでしょう。えー。それを皆さん方聞いたと思ってる。向こうでやってるやつを聞いたって。そんな暇はないじゃないですか。ジって言ったら、いきなりもう聞くって言う時間なんかないじゃないですか。ね。ありますか。

パン!(机を打つ)こうやったら聞くって、音がしたやつを聞くなんて言う前に、パンて言っちゃううんだ。エー、パン!こう言う様子を一体と言うのでしょう。一つになるんじゃないですよ。向こうとこっちが一つになるって言う事じゃないですよ、一体と言うことは。間違えないで下さいよ。

一般に勉強してるのは、一体って言うのは、向こうとこっちがあるやつを一つにする、合体する様な事を一体って言うんです。本当は一体って言うのは、パン!こうやって、一緒になるなんて気配はない。そう言うものでしょう。

「その参学は」その学び方です。勉強の仕方、修行の仕方は、「頂寧量を把鼻して参学するなり。」今の本当に皆さんが生活してる、実体そのものを取り上げて学ぶ以外にない。考え方じゃない。考えてから、パン!こう言う風になるんじゃないからね。分ったからパン!こう言う風になる訳じゃないからね。分っても分らなくても、考えても考えなくてもパン!こうやってやると、こう言う風になってる状況がある。これに学ぶんです。

仏道ってだから知る事ではない。理解する事ではないんです。仏道って言うのは。初めっから自分自身の本当の在り様がある。その自分自身の本当の在り様に、本当に自分自身が目覚めると言う事じゃないですか。

「『我有』拈じて附嘱』に換却するとき、保任正法眼蔵なり。」そうやって勉強して、心底なるほどなあって自分自身で納得がいった時に、教えられる総ての物が自分の上にちゃんとその通り間違いなく伝わっていると言うか、保たれているって言うか。お釈迦様の事じゃなくて、ああ本当にお釈迦様が悟った内容って言うのはこう言う事だったのかって言う事が、自分自身の上でよーく頂けるって言う事です。

優曇華 Ⅳ

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160923_優曇華Ⅳ_01
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2017.9.23

中間の辺に段落がありますが、少し読みます。

「おほよそこの山かは天地、日月風雨、人畜草木のいろいろ、角々拈来せる、すなはちこれ拈優曇華なり。生死去来も、はなのいろいろなり、はなの光明なり。いまわれらが、かくのごとく参学する、拈華来なり。仏言、『譬如優曇華、一切皆愛楽(譬へば優曇華の如し、一切皆愛楽す)』。いはくの『一切』は、現身蔵身の仏祖なり、草木昆虫の自有光明在なり。『皆愛楽』とは、面々の皮肉骨髄、いまし活鱍鱍なり。

しかあればすなはち、一切はみな優曇華なり。かるがゆゑに、すなはちこれをまれなりといふ。『瞬目』とは、樹下に打坐して明星に眼睛を換却せしときなり。このとき摩訶迦葉、破顔微笑するなり。顔容はやく破して、拈華顔に換却せり。如来瞬目のときに、われらが眼睛はやく打失しきたれり。この如来瞬目、すなはち拈華なり。優曇華のこゝろづからひらくるなり。

『拈花』の正当恁麼時は、一切の瞿曇、一切の迦葉、一切の衆生、一切のわれら、ともに一隻の手をのべて、おなじく拈華すること、只今までもいまだやまざるなり。さらに手裡蔵身三昧あるがゆゑに、四大五陰といふなり。」


続きますが。初めてご参加を頂いてる、道元禅師のこうした残された正法眼蔵の文章に触れると言う事で、戸惑いがあるかも知れませんが、聞いて下さい。

今読んでおります所は、優曇華と言う巻です。聞いた事の無い人も居るかも知れません。変わった花と言うんですね。三千年に一度位花を咲かすと、まあ誰が言ってるのか知りません。学者でしょう。一応そう言う風に私達も習って来た。学んで来た。

で、道元禅師は、その優曇華についてどの様にお示しになってるかと言う事でございます。元々は、その時その場所でこの正法眼蔵九十五巻が残されたものとして、集められて今出て来てますけど、一巻ずつがその時その場所で説かれた教えでございましてですね、一度にこんなに並べて聞く様な事は無いものですよね。その事をま先ず、知っといて下さい。

今の方々はこうやって手に取って九十五巻がこう読めるもんだから、何か一杯色んな事が話されている様に勉強してしまいますが、実際、実際は絶対にですね、一巻ずつです。したがって内容を見ると、その一巻で皆完結しているのです。ほかのものを読まなくても良いようになってる。もっと言えば、その時出会った時に、その事を聞いて全てそれで満足行く様に、修行のあり方、そう言うものが説かれている。そう言う風に先ず心得て頂いた方が良いとおもいますね。

今日の処、はいりますが、「おほよそこの山かは」面白いですね。川はひらがなになっている。漢字で書いても良さそうなんだけども。天地、そこは分りますよね。山や川や、上の方は天、下の方は地です。それから、太陽とかお月様とか風とか雨とか、人間とか畜類とか草だとか木だとか、一杯ずーっと挙げてあります。「のいろいろ、角々拈来せる、」角々は角(つの)と読むんでしょうけど、一つ一つって言う事で良いでしょうか、ね。下の方へ「尽十方界の角々千々」と言うのが引いてありますが、要するに一つって言う事で良いでしょう。

拈来はそこに取り上げると言う事ですね。「すなはちこれ拈優曇華なり。」それが優曇華を取り上げると言う事だと。三千年に一度くらいしか花が咲かないって言う事は、めったに花の咲いてるものに会う事の出来る人はいないと言う事でしょう。ま、そう言う意味になるのでしょう。

もう少し先を読んで見るとですね、次の頁の所、ちょっと読んでみますとですね、「しかあればすなはち、一切はみな優曇華なり。」皆さんの知っている言葉では、有難うとか有難いって言う言葉があります。非常に難しいと言う事でしょう。それからもう少し変わったのでは一期一会と言う様なものが使われてますが、その時限りと言う事でしょう。ここに道元禅師がおっしゃる様にですね、「一切はみな優曇華なり。かるがゆゑに、すなはちこれをまれなりといふ。」

本当にそうです。生きている事の皆さんの様子をご覧になると分りますが、(扇を見せる)一生に一度しか出会わない。分りますか。下向いてる人は無理ですよ。こっち向いてないと。一生に一度、一生に一度って言うとちょっと長すぎる。二度と再び無いと言った方が良いでしょう。これそう言う事ですよ。二度と再び無い。トン!トン!(机を扇で軽く打つ)分りますかね。今日はそう言う勉強をするの。こうやって何回見せてもですよ、(扇を見せるのを何度か繰り返す)内容をよく見ると、初めて皆さん方が触れるんですね、今やってる事は。

後にも先にも、もうこれは出て来ない。その時限り。そう言う風な事が一日二十四時間、全てそう言う風な内容なんですね。分りますか。トントン(扇で軽く机を叩く)頭で理解するんじゃなくて、実物、自分の実物にこう触れてみると、理解するよりももっとよく分る。こうやって虫が鳴いているんだって、そうでしょ。あの虫の鳴き声はその鳴いている時だけですよ。

後にも先にもあの声は無いですよ。毎日鳴いてるかもしれません。この間ずーっと鳴くかもしれません。あの虫の鳴いている声は、今鳴いている時だけしかありません。後にも先にもありません。そう言う皆さんは触れ方をしている筈。命と言う事はそう言う風になってる。もう少し敷衍して言えば、本当のもの、真実の様子と言うものは、誰も生活でこうやって真実の様子に触れているんだけども、何処にも残さない。残らない。残せない。取って置けない。そう言うものですね。

皆さんが取って置けるって言うのは、残像であったり、或いは記憶であったりする。それは実物ではないですよ。録音をするにしても、皆実物ではない。実物は本当にその時限り。後にも先にも無い。だから、その時出会ってる時を疎かにすると一生生きておっても触れる事が出来ない。それでも人間は生活をしていて、淋しいとかつまらないとか満足がいかないとか不平不満が起きる所以でしょう。この大事な在り方を本当に皆さん方自分の事だから、やって欲しい。そう言う事がこの優曇華と言われる所以です。

で、それをもうちょっと何だろうね、理解が行くように補足をすればですね、余所に目を向けてる暇が無い。余所見をする事が出来ない。余所見をしたら、この自分の本当に生きてる様子が有りながら、生涯それに触れる事はない。だから修行をする時に、必ず、今そのものにこう用がある。それをつついたり、理解しようとしたり、知ろうとしたりする、一切そう言う事が要らない。実物そのまま、それを只官打坐と言ってます。坐る時に何もしないで坐る。本当に自分の本物そのままで居てみる。それが一番自分の真実の様子に近い、と言うよりも、それ以外に触れ方が無い。そう言うものを仏道と言っております。

仏様の教えと言っております。仏様の修行された内容でしょう。又、悟られた内容はそう言うものでしょう。後にも先にもその時限り一度しか無かったら、どう言う事が現実に起こって来るのでしょう。取って置いて、あれを今度の時に役立てようとしいても、役に立たない。取って置くことが要らない。今度の時にこの前のものを付けたら、今の事が目茶苦茶になる。今の様子にはこの前の事は付いてない。

皆さん、物を見たってそうでしょう。今見てる物は、この前見たものの見方が付いてたら可笑しいでしょう。今虫の声を聞くにしても、さっき聞いた虫の声が付いてたら、可笑しいでしょう。必ず今の様子だけですよ。前の事はひとつも借りない。借りる用が無い。こんな、こんな生活に変わるんですよ。これは底抜け楽になるんじゃないですか。忘れちゃったとか、思い出せないとか、どうのこうのって一切要らないじゃないですか。こんな不思議な事が起こるんですよ。今生活してるそのものにこうやって居てみると。

一般の方々って言っては失礼かも知れませんが、人間て言うものは、大体ざっと挙げてみると、人は自分の今こうやって生きてる事はあんまり問題にしてない。どう言う風に生きてるかって言うと、今生きてる時に、自分の頭の中で、もっと幸せになったら良いなとか、もっとこうなりたい、ああなりたいって言う思いが沢山あるから、そう言うもの一杯頭に思い浮かべて、それを追い求めていく。それに対する十分な答えが有る様なものを餌の様にして、釣り上げられて、そこへ向かって行くのを修行だと思っている。それ変でしょう。違ってませんか。

何で自分の真実の様子って言うものに目を向けて、自分がどうなってるかって言う事を確かめないんでしょうかね。健康診断をする時には、自分の身体が健康であるかないかを確かめるじゃないですか。健康だとそのままで安心するじゃないですか。心の様子だってそうじゃないですか。健康だったら良いんじゃないですか。何処に不健康な事が有るか。或いは何処に不満足な状況が、自分の中に有るんですか。思いを離れてみると、そんな生活してる人は誰も居ない事がはっきりするでしょう。

だけど、あの虫が鳴いてる時に虫が鳴いてる通りに聞こえる位の事は、人が幸せだと思ってないんですね。不思議ですね。本当にその位にしか思ってない。だけどもよくよく考えてみて欲しい。虫が鳴いてる時に、虫が鳴いてる通りに聞こえない様だったら、皆さんどうなるんだろう。こう言う掛け軸に向かったら、(後ろの掛け軸を見る)掛け軸に向かった通りに見えなかったら、皆さんどうなるんだろう。触った時、(湯呑みに触れる)触った通りに成らなかったら、どうなるんだろう。食べた時に、食べた通りの味がしない様な人生だったら、どうなるんだろう。

一々やって御覧なさい。本当に必ず、その時その通りに皆なってる。それを知らないで、その通りなってる事をあまり喜ばない。もっと他に素晴らしい事が有る様に思ってる。そうじゃないでしょう。本当に、今、もうお米が取れるので新米も食べる人がいるでしょうけど、ご飯を食べるとご飯を食べてる通りの味がする。これは至極ですよ。この上ない幸せな事ですよ。それをご存知無くて、自分の思いを中心にしてみるから、何でこんな物って、そう言う味い方に変えてしまう。それは本当にもったいない事ですね。

そう言うな事が優曇華と言われる、本当に不思議な花の様子です。花って言うと、そこら辺に樹木で咲いているものしか取り上げないけども、お寺には法華経と言う、法華と言う、のりの華、法の華、教えの華です。

「生死去来」これは生まれるとか死ぬるとか言う、行ったり来たりと言う活動がある。「生死去来も、はなのいろいろなり、」来る時に、手紙が来たので開封して読んでみた。いいおばちゃんらしい。どうしても死ぬると言う事が思いの中に出てきて、怖くて居られないって、何かどうしたら良いんでしょうと言って、言う内容の手紙が来て、まだ返事を書いてませんけど。不思議ですねぇ。「はなのいろいろ」って言う事を見ると、花が咲いたり、花が散ったりしてる。あれと人間の生まれて来る事とさよならする事とどれ位違うんだろうね。

或いは、こっちを右を見た時に右が見えて、左を見た時に左が見える位変化をするんだけど、これと人間が生きてると言う事と死ぬると言う事が、どれ位違うんだろうね。パン!(扇で机を打つ)音がすると聞こえる、音がやむと聞こえない。さっきまで有ったのに今は無いと言ってるんだけど、どの位生きてるって事と死んでるって事がちがうんだろうねぇ。皆さん音だったら、パン!音が聞こえる、聞こえなくてもそのまま平気でいるじゃないですか。

ああなくなっちゃった、聞こえたものがなくなっちゃったと騒ぐ、そんな風な人が殆ど居ない。何とも無く生きてる。物だって、さっきまで見えてたのがこうやって全然違う物が見える様にコロッと変わっても、それでも何ともなく気付かずに生活してる。だのにどうして自分の生き死にって言う事になると、こんなに騒ぐのでしょう。何ら変わらないじゃないですか。

もうちょっと身近な事言うと、ちょっと岡山の円通寺まで行って来ますって、今日出て来た。そのまま帰らなきゃどう言う事ですか。終わったと言う事でしょう、人生。家の者は、中々帰って来ないなぁって、きっと待ってる。大体この位、一泊し帰って来る時間がこの位だと思って待ってる。そのうち自分も仕事があるから、一日仕事をして、すっかり帰って来た事も気にならずに自分の仕事をしてる。夜になっても帰って来ない。随分遅いって、電話をする。いや出た筈ですよって言われて、家に帰って来ない、どうなってるんだろう。探しても中々、一日二日三日四日位たったら、来て下さいって言われた。そこに骸が転がってたと言う事になると、死んだと言う事になるのでしょう。

だけどその間、人間て自分の思いで生きてますから、死んでるとは思ってませんからね。ちょっと遅いなぁって思ってるだけです。それ位の事が毎日行われてるんだよね。それなのに頭の中で、死んでしまったって言う風な決め方をしてものの見方をすると、たまらなくなる。たまらなくなってる人だけども、実際の生活は、今申し上げた様な事が日々行われていて、何と言う事なく生きてる。どっちが本当なんですか。どっちが頼り甲斐のある事なんですか。考えてる事と。

聞いた事が、全部生涯生きてる間ずーっと聞こえなくならずに、ずーっと音がしてる様だったら、あなた方どうかなっちゃいますよ。エー、うるさくて。ねぇ。一日中見た物が全部ずーっと、今も見えてるんだったら、本読めませんよ、邪魔で。何にも無いんだよ。本に向かうと本に書いてある字が見えるだけ。

その間、色々変化して行く時に、何かが無くなって淋しくなるって言う様な事は何故無いかって言うと、今の様子ってものがひとつも無くなった時が無いからですよ。空白の時間て無いですよね、変化して行くんだけど。途切れちゃったって言う様な事は無いんですよ。こう見てご覧。ずーっと見て、途切れちゃうって言う様な事は無い。全部変わって行くんだけど。これ生命の様子ですよ。死にもしないよ。そう言う事なんだよ、勉強して貰いたいのは。

何処から出て来るか分らない位、こうやって。何処へ消えていくか分らない活動してる、ずーっと。不思議です。一度も途切れた事がないでしょ。線があって、ここからここかから、そんなものは一切ない。頭の中でそうやって一杯線を引いて、不自由な見方をして、そう言う様な事があるんじゃないですか。

これが「はなの光明なり。」と言われる由縁でしょう。一本の草木、種から芽が出てきて、花が咲いて、散って実がなってって言う様な、ずっと働きがあるけど、光明と言われるじゃん。一大活動ですよ。光明。光とかって言う様な事じゃないですよ。灯明の様な、ああ言う事を言うんじゃないですよ。本当に一々、その時その通りの事が、全身心を挙げてそう言う活動してる。どんな些細なことでも。

「いまわれらが、かくのごとく参学する、拈華来なり。」華を拈じ来たるなり、真実を相手にしていると言う事ですよ。片時も生きてるって言う事は、真実を抜きで生きてる人はいません。誰も自分の本当に生きてる様子が無い人はいません。これは世界人類の共通した財産です。どんな人にも平等に与えられている。自分の生きてる様子ってのは絶対に一人も欠けてる人はない。それ位ちゃんと生きてる。その真実を本当に取り上げて、それを自分でこの身心を借りてはっきりさせるって事が、自分を救う唯一の道じゃないですか。

人が悩んだり苦しんだりする原因は何かって言うと、ものがはっきりしないと言う事でしょう。今の手紙の事だってそうでしょう。生き死にで苦しむって事は、どう言う風になってるか自分で分らないから、考え方が自分を苦しめるんでしょう。ああなるんじゃないか、こうなるんじゃないか、ああなっちゃうんじゃないか、こうなっちゃうんじゃないって、そう言う思いが自分を苦しめてるんでしょう。はっきりしたら、何だすっきりするじゃないですか。

日常生活だってそうじゃないですか。何か問題が起こるって言う事は、自分の中ではっきりしない時にぐずぐずしてるんでしょう。割り切れないでしょう、自分で。ものがはっきりしないから。

騙されたって言うけど、はっきりしたら、騙されたんだからそれで終わって行くのでしょう。しょうがないじゃないですか。エー、くよくよしたってしょうがないじゃないですか。騙されるまで良いことをしたと思って、人に施して、何かその内にニュースであれは詐欺だとか何か言うのが分ると、自分も詐欺にかかったって、騙されちゃったって、、そう思って一変に顔が青ざめたり、さっきまで良い事した心算でいた気持ち、黒幕が掛かった様な淋しい人生に変わる。不思議ですね。さっきまで楽しませて貰ったのに、自分でも僅かに人の為に施しが出来るって事やって楽しんでたのに。そうやっちゃものが分らないと、人は苦しむ悩む。面白いと思うね。

「譬ば」その次行きます。「仏言、」お釈迦様がおっしゃられるのにと言う事でいいですかね。「『譬如優曇華、一切皆愛楽(譬へば優曇華の如し、一切皆愛楽す)』。」優曇華の如しはいいですよね。ずーっと今話した様に、絶対にその時限りです。もう二度と再び会う事はない。出会う事はない。そう言うものでしょう。全て。何回も話してるかも知れませんが、人が生きていくって事は、見てみると良くわかる。一度も兎に角やった事のない事やるんだもんね。生きるって言うのは。そうでしょう。

手、今ひとつ動かすんだって、(右手を動かす)未だかってこれは動かした事ない。今初めてこう動かしてる。頁を一枚めくるんだって、今初めて、この今の様子は今初めてやった。未だかってやってなかった。皆そうでしょ。首をちょっと動かすんだって、こうやって(首を動かす)、今動かすのは未だかってやった事がない。今初めてやってる。

それ位優曇華の如しですよ。稀なんです。有難いなって言う事は、そう言う事です。会う事が難しい。もう二度と会えない。そう言う貴重な、取っておきの触れ合い。新鮮かつ、何だろう、高貴、希少価値の有るものですよ。ダイヤモンドが幾ら高価で有ってもこれにはかなわない。そう言う生き様を人はしてるじゃないですか。

それで、「『一切皆愛楽す(一切皆愛楽す)』。」これを本当に皆愛でて楽しむ。これで人生は謳歌出来るんじゃないですか。楽しい人生が。

で、道元禅師はそのお言葉を引いて、「いはくの『一切』は、」そこで言う一切って言うのはどう言う事か。「現身蔵身の仏祖なり、」こんな難しい言い方をするのか知らん。現身は、今皆さん方の身体に現れてる様子、蔵身は外から見ては見えない活動と言って良いでしょう。外から見えるものと、外から見えない活動があるんです。要するに全身心の活動を現身蔵身と言ってる訳です。「の仏祖なり」と言うのは仏様や祖師方と言う悟りを開いた人って言うのは、そう言う内容を本当に自分ではっきりされた、そしてそれを本当に自分の生き様として生涯生きていった人たちです。

どこが私達と違うって言ったら、まぁ一言で言ったら、気づいているかいないかでしょう。内容は同じ様に生きてるんだけども、自分で自分の事が気づかなかったら、まあ無いに等しいのですね。

自分の家に色んな物があるけども、自分の家に有る物何が有るか知らなければ、殆ど使い物にならない。押入れの中にしまって有る物何が入ってるか知らないと、また買って来るでしょう。である時、押入れを開けたら、え、こんな物がある。何だ買わなくても有ったって言う様な話です。それ位自分の事でも気が付かなければ、無いに等しいんです。使えないんです。

だから生きている間に早く修行をして、自分自身の本物がどう言う風なものかって事を自分ではっきりさせて、これは生きてる間中思う存分使って、で時が来たらさよならしたら、それで十分。思い切って使っても、無くなっちゃうと言う事は無いから良いじゃない。そう言う宝物です。

「草木昆虫の自ら光明あるありなり。」と読むんですよね。「自有光明在」自はおのずからですね。光明のあるありと読むでしょう。在はある、有もある。あるあり。人間だけではないと言う事を、道元禅師はおっしゃっておられる、一切と言うのは。洩れるものは無いと言う事です。諸行無常とか諸法無我とかって言う、諸々と言う意味と一切は同じです。漏れるものが無い。漏れるものが無いって言う事は、全部救われると言う事です。一切ってそう言う意味です。

優曇華 Ⅲ

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そこで、二、三人の人の、四人位の人の歴史上の話がずーっと並べられている。最初には霊雲の話が出て来る。「桃花をみて眼睛を打失し、」とある。どういう事が言いたいかって、桃畑に行って、桃の花に触れている時ですね、此処にも有る様に、眼睛、眼ですよね、眼を失うってどういう事でしょう。眼を失うって言う事は、桃の花の様子だけがあると言う事じゃないですか。

それまでは人間は眼で物を見ると思ってますから、こうやって桃の花を見てる時に、眼がちゃんとあると思ってる。そうやって見てる。だけど本当に桃の花に触れてみると、皆さん方、眼のある事を知りませんよ。桃の花の様子だけ。それを本当に見てる時と言うのでしょう。それまでは対象物として向こうの方を眺めてる程度でしょう。

お釈迦様だって、お悟りを開くまでは、恐らく毎日金星を見たかも知れないけど、殆どの時は、一応向こうに金星があるのをこちらに坐って、釈迦自体が星を眺めてたでしょう。だけど、お悟りを開いた時の金星を眺めてる様子は、本当に眼を打失したのでしょう。失ったのでしょう。見てる事知らないのでしょう。見てる人が居なくなったのでしょう。

次の香厳と言う人の話だって、そうでしょう。「翠竹をきくに耳処を不現なりしむる、」と言ってます。お掃除をしてる時に、箒で掃いてたら、石が竹薮に飛んでいって、カチーンと音がした。そうやってお悟りを開いた人だ。その時に、竹に当たった音を聞く時に、「翠竹をきくに耳処を不現なりしむる、」耳らしいものが何処にも出て来ない。カチーンとそれだけ。

今だってこうやって、コン!(机を打つ)何処にも耳が出て来ないじゃない。音がするばかり。聞いたって言う気配が何処にもない、何回も話すけど。聞こえたって言うより、カチッっだよ。その方が正確でしょう。カチッって。自分の中に入って来たとか、そんな言い方を時々するかも知れない。そんな気配もない。

そう言うのを、ここで耳処を不現ならしむると言うんです。「聞く働きと聞く内容とは別のものでない事をさとる」(脚注)って、そうやってまあ書いてあるけども、それよりも、こうやってやったら、パン!(扇で机を打つ)「聞く働きと聞く内容とは別のものでない事をさとる」って説明するよりも確かじゃないですか。

パン!こうやってやったら。向こうで音がして、こっちで聞く、そんな風にならないって事じゃないですか。それでいじゃないですか。従来はそうやって理解してる。殆どの人がそう言う理解をしてる。理解と事実とは、これ位ちがう、実物に学ばないと本当の事は分らないと言う事を言いたい。常識って言うのは、これ位紛い物が多い。

まだ出てきますよ。これは二祖慧可の話でしょう。「腰雪断臂、」雪が降り積もって、達磨様の所に参禅に行った時に、雪の降る中で立っておったら、積雪が自分の腰まで位雪が積もったって言う事ですね。腰雪。言葉で言えばそれだけだけど、雪がですね、立ってて腰まで埋まる位の時間、よっほど雪が降ったにしても、十分やそこらじゃ無理でしょう。何がそんなにそこにじっとさせるのでしょうか。慧可が何を本当に知りたくて、そこから離れずに、そうやって頑張ってるんでしょうか。この切実な願いがあるからでしょう。それ切実な願いの無い人はこんな馬鹿な事しませんよ。雪が止んでからもう一回来ますよ。今日は帰ろうって。そうじゃないですか。で、只雪が降り積もるだけじゃないですよ。かなり寒いですよ、雪が降るって事は。

その中にそれだけの長い時間立ってると、身も心も凍てつく様な中に居るのでしょう。道元禅師が何処かで、「落つる涙滴々凍る」と書いてある。この道を求めて、慧可がそこで雪の中にこう立ってる時、自分の求める心から湧き出して来る涙が、そうするとそれが真珠の様に落ちる時に、皆雪の玉になって落ちるって、零下四十度位って言われる。寒い中に居るから偉い訳じゃないけど、寒さを厭わずにそうやって本当にその時に求めている姿って言うのを、髣髴とさせるところがある。

それでも相手にされないので、更に持っていた小刀で自らの肱を切って。ヤクザの世界ではありません、と言う事ですかね。そう言う事じゃないけど、それに近い様な事でもあるでしょ。自分の意思の固さを、そこでそう言う姿で、肱を切って見せる。まあ、今勉強してる方々の話を聞くと、盗賊に襲われて肱を切られた話が他所に有るって言う。そう言うものと混同して、慧可の道を求める姿を描写するのに、そう言うものを使ったんじゃないかって言う説も出てます。まあそれはどっちでも良いと私は思う。要はどれ位真剣に道を求めたかって言う事で言ったら良いんじゃないかと思いますが。

その結果、最後に達磨様の処にですね、後を継ぐ人になって行きます。その後を付継ぐ時に、どれ位自分の今の心境と言うか、お経と言うか、お悟りの内容、それを示すのにですね、達磨様の前に行って、言葉も何も発せずに只礼拝をして下がられた。それを見て、達磨様が、汝髄を得たり、と言って証明をされた。

次のは、その前に「拈花の而今なり。」とあるね。さっきちょっと其処抜かしましたけども、霊雲とか香厳とかって言う話の事を上げた後に、「拈花の而今なり。」とある。本当に誰しも、今そう言う風にって言う事でしょう。而今。

物を見る時に、眼を失う。物を聞く時に、耳が出て来ない。それは誰しもの様子ですよ。見る時に、眼が有ったら邪魔でしょうが。桃の花を見たら、其処に目がくっついてたなんて。竹薮で音がした時に、竹の所に耳がこうくっついてる、そんな事はない。音がするばかり、桃の花がするばかり。そう言う事を「拈花の而今」と言うんです。

次に、今慧可の話をしましたが、「花自開なり」花自ら開くと言うんでしょう。「花自開なり」自分の事が自分ではっきりすれば、疑いが無くなるのは当たり前の事じゃないですか。はっきりしないから、自分で疑いを抱いただけですから、自分で。有りもしないのに。はっきりしないと、自分で疑いを抱く動物なんですね。はっきりしないと。不思議ですね。

だって一日中真実の中に生きてるんでしょう、自分の生きてる。一点の疑いは無いはずなんですよ。はっきりしない事なんか無い筈じゃないですか。それだけど、ものが分らないと、その事に対して疑いを起こす。で、疑いを止めて、本当に事実がどうなってるかって勉強し始めると、ああ何だ、ちゃんとしてるじゃないかって言う事が、自ら分る様になってます。花自ら開く。

「石碓米白、夜半伝衣する、」これは五祖弘忍禅師の所に六祖慧能禅師が参禅した時の内容でしょう。最初に出会いがあった時に、二、三のやり取りがあって、それを聞いた後、五祖は、まあ暫くはあちらの方にお米を搗く小屋があるから、あそこであなたは毎日お米を、精米して下さいと言って。其処で八ヶ月お米を搗く。それが「石碓米白、」ですね。

それで、八ヶ月経った頃に、五祖が、五百人位の人が其処で修行してたのでしょうけども、全山にですね、触れを出して、修行している皆さん誰でもいいから、自分の修行した上の、見解ですね、どう言う風に本当にものが会得が出来たか、理解が出きたか、納得が行ってるか、そう言うものがあったら発表してほしい。そしてその発表したものを私が見て、内容が私が見て十分それで耐えうるものであれば、その人に後を任せたい、って言う様な事が成されてですね。その時にこの慧能禅師と言う方が、五祖の目にかなって、夜中にですね、自分の所へ呼んで、そして衣を授けた。それはお悟りを証明したものとして授けた当時のやり方です。

そう言う事が、そこにある。華すでに拈じ終わりぬって読むんですね。「華已拈なり」自分自身の本当の様子に自らが気づいてはっきりしてるって事でいいでしょうね。だから五祖が許すんですよね。はっきりしないのに五祖が許して、六祖がそれで納得する訳がない。自分が本当に納得する事は、人が許したから納得するんじゃなくて、自分自身がちゃんとしてるから納得した、納得してるから許すのでしょう。

だけど現況の中で色々話しを聞いて行くと、何か許されたって人沢山居ます。許されたって言ってる割にはですよ、何かしどろもどろでね。何ででしょうね。それは千七百位の過去に体験した方々の体験談が本になっていて、それをひとつずつ取り上げて、それはどう言う事ですか、その内容はどう言う事だって言って勉強をして、自分のそれに対する答えを出して、そうするとこの答えを指導者がそれを聞いて、それで良いって言って○をくれて、ひとつずつ済んで行く。千七百位問題集が終わって、○とか言って、良しとか言って、一応終わったって言うんでしょう。

だけど問題集が終わったんであって、自分自身が本当に終わったと言う事とは雲泥のさがあるじゃないですか。だからあれらは、殆どここで(頭)やるでしょう。学解ですよ。理解ですよ。実物って言うのは理解じゃないですよ。理解の範囲で納まらない。

この水一杯飲んだってそうですよ。お水を飲めばお水を飲んだ味がするって言う位は理解です。だけど、お水を飲んだだけですね、自分の今まで理解していることと違うんですよ。やってみるとわかる。今どんなにお水を飲んだらお水の味がするって理解しててもですね、そんな味は何処にも出て来ない、飲んでも。そんな味じゃない。不思議ですね。これ(お茶飲む)今初めて飲んだんです。だからですよ。自分の理解の中には無いんですよ、これ、この事実。

だって今の飲んでいるのは、今だ一度も飲んだ事無いんだもん、今飲むの。一度も飲んだ事の無い物を飲むんですよ。だからどんなに頭の良い人が理解していてもですね、そう言う事とは違うんですよね、飲んで。コン!(飲んだ茶碗置く)これが人の生きてる真実です。こっちは勉強しなくてもちゃんと分かるんだから。不思議ですね。

「利人鈍者を選ぶ事なかれ。専一に工夫せば、正にこれ弁道なり」普勧坐禅儀と言う坐禅の手引きにそう書いてある。上智下愚を持って、頭の良いとか悪いとか、勉強が出来るとか出来ないとか、それ一切関係ないよって。本当に修行すれば、誰でも救われる様になる。それはそうでしょう。

もうちょっと行きますよ。「これら世尊手裡の命根なり。」ここは世尊ってありますけども、皆さん自分自身の手もとの様子でしょう。一人一人の自分自身の、今生活してる真っ只中の様子でしょう。手裡って手の内って言うんでしょう。離れていないって言う事でしょう。命の根源、命根。長い間生きてるったって、何時も何時も話す様に、この身体のある所で、今この身体の活動してる様子以外に、人は無いんだものしょうがないじゃない。それさえあれば、何時でも豊かに過ごせる様になってますよ。

これは無くならないよ、生涯、生きてる間。この身体がある以上。他の物は分かりません。災害で無くなったりするかもしれない。失うかも知れない。この財産は、この身体がある以上は大丈夫ですよ。

人間に与えられた三つの平等の宝って、「今」、「ここに」、「私が」。これを持って無い人は誰もいないんだよ。だから時間は確保してある。やる場所はここって、必ず住む場所もある。で、この身体が無い人は居ない。無い人は初めから問題外ですからね。この三つがちゃんと揃ってるから、この三つがあると、殆どの事は出来るのじゃないですか。生活してる時に、この三つを上手に使って生きてるだけじゃないですか。それ一歩も出ませんよ。本当に。こう言うの、よーく見て欲しいね。命根です。

「おほよそ拈華は世尊成道よりも已前にあり、世尊成道と同時なり、世尊成道よりのちにあり。」ってこうやって、何でそうやって、過去現在未来の事がこう挙げられるかって言うと、ものの真相って言うのは、悟る悟らない、そう言う事を全部跳び越えて、厳然としているって言う事でしょう、何時でも。言葉に騙されるから、華を拈ずるって言うと、何か特別な事の様に思うけど、今の皆さんの在り様です。

悟ったから出て、悟らないと無い、そんな事は無いでしょう。悟ったと同時に始めて出て、そんな事でも無いでしょう。基本的にそうなってる。ただ気づかない時には気づかないのでしょう。で、気づかない時には、使い勝手が悪いと言う事でしょう。でもどうしたら気づく事が出来るかって言うと、何時でもちゃんとこうなってる事が根底にあるからでしょう。いいじゃないですか。

「これによりて、華成道となり。」こう言う事が、誰にでも日常茶飯行われてる中で生きてるから、パン!(扇で机を打つ) 自分の事でその事に気づけばはっきりするに決まってます。どの位邪魔にならない生活をしてるかって。何時もこうやってパン!音がした時に聞こえるだけで、これでもう終わっちゃうんだからねぇ。とことん聞こえたものが残らない。

こんな簡単な事だけど、この事が自分で実証出来ないんでしょう。愚図愚図言ってる人見てごらんなさい。色んな事愚図愚図言ってる人。あの時あいつがあんな事言っ、て、愚図愚図言ってる人、パン!こう言う風になってる事知らないんじゃないですか。何処かに引っかかるものがある。執着して残るものがある様に自分で思ってるから、気になってしょうがないとか、忘れられないとか言ってますよ。

パン!今だって、こうやって御覧なさい。音がしてどうしたんですか。皆さん何もしないのに、聞いただけで、音が聞こえただけで、心底すっからかんじゃないですか。すっきりして、何をどうするって事なしに居れる様に成ってるじゃないですか。物を見たってそうじゃないですか。こんなにちゃんと見えてるのに、いつも持ち物なんか何処にも無いですよ、見た物。持ち歩いてる時に。それだのに、どっかで忌わしい映像に、こうやって現象に触れたのがあると、それが離れられなくて、自分を悩ましてるでしょうが。そう思ってるでしょう。

それどう言うことかったら、今の自分自身の真相を本当に自分でこう触れて確かめる力な無いって言う事だけじゃないですか。誰だってそうなってますよ。「これによりて、華成道なり。拈華はるかにこれらの時節を超越せり。」時間がかかるとか、かからないとかって、皆心配してるけど、そんな事は一切パン!無いじゃないですか。皆が考えてる全て跳び越えている位素晴らしい働きが、今厳然としてここで展開されているんじゃないですか。

「諸仏諸祖の発心発足、修証保任、ともに拈華の春風を蝶舞するなり。」こういう事だけで、皆やって来たんでしょう。春風に蝶々が舞うって、いいね。後にも先にも無いでしょ。今舞ってる様子だけですよ。皆さんだってそうですよ。生活してるけど、今こうやってるだけですよ。丁度、春風に蝶々が孵化してですね、それをちょうちょ、ちょうちょ、とやってるのと同じですよ。

「しかあれば、今瞿曇世尊、はなのなかに身をいれ、空のなかに身をかくせるによりて、」ってある。これだって普通の表現をすれば、本当に分け隔てなく生活してる事じゃないですか。花の中に身を入れるって、菜の花の咲いてる畑の中に身体を運ぶって言う意味じゃないですよね。空の中に身を隠せるって、空の方に身を投げ出してその中に一緒に居るって、そう言う事じゃないですよね。何時でもそのものと別々な動きが無い様子を、それ言ってるだけじゃないですか。

「鼻孔をとるべし、虚空をとれり、拈華と称ず。」花の方で言えば、花の中に身を入れるって言う事になれば、薔薇の花の香りがしたり、百合の花の香りがしたりって言う事じゃないですか。それが、鼻孔をとるべしと言う事でしょう。空の中に身を隠せるって言う事は、虚空を見ている時、空の様子があるばかりって言う事でしょう。皆さんが空を眺めてる時、そう言うのをここに最初から挙げてある拈華と言うのだと、道元禅師がちゃんと結論づけて皆さんに示されている。

華を拈ずるとはどう言う事を指すのか、一言で言えば、何時でもその事と別でない生き方をしてる、(ゴロゴロ音がする)ゴロって言うの、いきなりそうじゃないですか花火か何かしらないけど、雷か知りませんが、ゴロっと。でその後に更に出てきますよ。

「拈花は眼睛にて拈ず、心識にて拈ず、鼻孔にて拈ず、華拈にて拈ずるなり。」この身体全部の様子じゃないですか。一々。この自分自身の身心を借りなければ、何一つですね、何一つ出て来ないですよ。皆さんが物が有る有るって言うのは、ここにある様にですね、眼睛にて拈じてる様子じゃない。

それだから、あそこに木魚があるとか、扇風機があるとかって言ってる訳でしょう。もっと不思議な事を言えば、実相は無相って言う。本当にあそこに物がある様に皆さん理解してるけど、本当は物なんか無いよって言うんですよね。理解できますか。

それはテレビの画面を見るとよく分かる。ね。あそこに、九州は大雨で洪水になってって、そう言う映像を見ると、川の様子が有ったり、木材の流れてくる様子があったり、様々な物がリアルに本当にそこに有る様に、私達はちゃっと掴むけども、その内容は何かと言ったら、眼に触れてる時の在り様だけですからね。しかもですよ、テレビの中に映像らしいものが有る筈なのに、何にも掴めない。不思議ですね。それでも人はちゃーんとそう言う物を有るって言う風に認識してるんですよね。

音だってそうでしょう。パン!(扇で机を打つ)聞こえたから、有ると思うじゃないですか。だけど、掴もうと思っても何処にも無い。音がした、あるじゃん。で、現代の科学者達は、それを記録する方法をね、勉強して、人間の身体を通してそう言うシステムを開発して、ああやって何か、CDに録音したり、色んな事をする力があるもんだから、それを録音する。

録音したんだけど、あれをそのままドーナツでおいた場合にですね、録音した音がでてくるかって言ったら、そんな事はない。入ってると思ってるじゃないですか、音が。思う事は良いですよ。で、出してみると、音が出るもんだから、やっぱり音が入ってるじゃないかって言うんだけども、音は出した時だけしか無いよね。そう言うのも皆さん知ってるんでしょう。

人間の考え方は、あの中に音が入ってるって、絶対に間違いなく入ってるって言って、じゃ証明してみようって言う時には、鳴らしてみる訳ですよ、回して。音が出て来ると、ホラ、音が入ってるじゃないかって。だけど人間て音がした時に聞くだけですよ。それでどこにもないね。そうやって昔から有無の二見、有るとか無いとかって言うものの見方で、人は騒いで来たじゃん。実際の活動ってこんな風になってますよ。

信じられないと思う。こうやってやれば、(湯呑茶碗を持つ)人間てちゃんと硬さも分かって重さも分かるんで、物がちゃんと有るじゃないかって言うんだけど、ふだんじゃあ、あれが有るってのも思ってるだけですからね。で此処に、行ってまた戻って来た時に、ホラやっぱり思ってた通り有るじゃないって言って。触れた時に初めて、そう言う事が出るだけであって、その間何処にも、こんなものは無いですからね。思ってるだけですからね。その思ってる間に、自分の思ってる事と違う事が起これば、戻って来た時に、無いですからね。

こんな風になってるんですよ、真実ってね。実相は無相。空と言う様な事を言うのはそう言う事でしょう。皆有ると思ってるんだけど、有る有ると思ってる事自体がそう言う働きをしてるだけですね。もうそこの処でいいかな。丁度良い。二時間ですね。終わります。

優曇華 Ⅱ

音声はこちら↓

160729 優曇華 Ⅱ_01
160729 優曇華 Ⅱ_02
160729 優曇華 Ⅱ_03
160729 優曇華 Ⅱ_04


「拈花時すなはち尽時のゆゑに同参世尊なり、同拈華なり。」まあ何回も同じ様な事が書かれていますね。「拈花時すなはち尽時」って言う事は、その時にこうやったら(花を持ち挙げる仕草)他には無いと言う事です。何もかも花をこうやって持ち挙げてる時の様子に変わるんですよ。此処だけじゃなくて、花を持挙げた事だけがあるんじゃなくて、花を持ち挙げた時の円通寺の様子、花を持ち挙げた時の蝉の鳴き声が聞こえる様子、花を持ち挙げて坐ってる時の様子。

本当にこうやってやると、(花を持ち挙げる仕草)何もかもが花を拈じない時の様子とは変わるんですよ。考え方も花を拈じてる時の考え方、そう言うのを尽時と言う、時を尽す。他の様子が全く出て来ない。他の様子が出て来ないって事は愚図愚図言わないって言う事でしょう。お化けが出て来ないと言う事でしょう。だからお釈迦様と同参なり、とある。その時はお釈迦様と寸分違わない学び方をしている。

お釈迦様の事を見てるのではないね。自分自身がそう言う風な生活をしてる。「同拈華なり。」何かお釈迦様がこうやってると、向こうのお釈迦様はこうやってるけど、私はそんな事はしてませんって言いたくなるじゃないですか。私はそんな事しない。お釈迦様がこうやってるの、見てるんだって。そう言いたくなるでしょう。でもお釈迦様がこうやってる事を皆さんが知る事は、どう言う事ですか。

こうやったら、(手で華を拈じる仕草)お釈迦様がこうやったら、お釈迦様がこうやってる事を知るって事は、分るって事はどういう事ですか。お釈迦様の事じゃないでしょう。エー。皆さんの事でしょう。違いますか。あなた方が一人一人、こう言う風な事を自分で今やってるからでしょう。この通りの事を。

「仏道をなろうと言うは自己をなろうなり、自己をなろうと言うは自己を忘るるなり。」どうしてそう言う文章になって行くかっていう事ですよ、お釈迦さんがこうやって華を拈じた時に、皆さんがこうやってる。自分らしいものをすっかり忘れて、この様に成ってませんか。従来は、今まではお釈迦様が出て来たって見て、お釈迦様が華を持ち挙げたって、皆そうやってずーっと見てるんですね。向こうの人の事を私と全く別なものとして。

だけど、こうやった途端に(手を挙げる)何故こうなるんでしょう。見たとも思わないのに、その様にしようとも全然思わないのに、こうやったら、こうなる。こうやられたら、こうなって行くでしょう、今。成らないですか。そういう風に。向こうの人の事だから、私はそんな事はね、って幾ら言っていても、あなた方がこうやってると、必ずそう言う風に変わって行きます。何ででしょうね。

自分の事だからでしょう。お釈迦様のことじゃないからでしょう。そう言う時に、自己を忘るると言う事、初めて自分らしいものを立てて物を見て来た人達がですね、本当にそう言うものが無しになって生活してる事に触れないと、仏道って言うものは、ものの本当の在り様って言うものは学べないんだね。本当に仲良く成る時は、自分を忘れる事でしょう。まあその位にしときましょう。

「いはゆる拈花といふは、花拈華なり。」一つには花を拈ずると言う事でしょう。向こうの事なんかでも、色んなとこに坐禅坐禅坐禅て出て来ます。エー。本当に面白いね。ずーっと坐禅て出て来る。坐禅から坐禅させられる。十一番目括弧して、自己の正体から坐禅させられる。こう言うの、花拈華を訳してる。これを花拈華と訳してる。花拈華をこう言う風に訳してる。

その前の十番目、拈華裏というは坐禅の時が直ちに全時間、全存在が真実をなるのであるからって訳してある。その前、九番目、拈華世尊来坐禅が世尊を拈じる。「釈迦如来、迦葉尊者ともに証上の修に受用せられ」をそう訳してある。まあ実に不思議なものが沢山ありますね。それだけまあ言って、進みます。

「梅花春花、雪花蓮華等なり。」もう一々と言う事で良いでしょう。話に花が咲くって言う事もありますね。花は色んな所に咲くのですね。そこで説明が付いてあります。「いわくの梅花の五葉は」ちゃんと説明、道元禅師書いてある。凄い親切な方ですね。丁寧に。どこかで聞いた様な言葉でしょ、丁寧に説明をするとか。テレビで聞く事、新聞を見ると出て来る。これ位丁寧にはしてない。凄い丁寧ですよ。実物を持って来て証明をしておられる。誰しもが納得できる様に説明してある。それを丁寧と言う。

「いわくの梅花の五葉は三百六十餘会なり、」三百六十餘会って言う事は、お釈迦様が悟りを開いてからずーっと生涯説かれた内容です。「五千四十八巻なり、」経巻にすれば、お経に残されたものにすれば、その位の巻数になるんでしょう。 「三乗十二分教」これは残されたお経をどういう風に区分けをして、図書館の中に配置してあるかって言う様な事、思えば良いでしょう。

それから同じく「三賢十聖」これは修行の階梯を五十に十ずつ分けて、五十に分けてある。十信、十行、十住、十回向、その上に十地と言うのがある。十信は三賢十聖から外れてます。三賢て言うのは、その次の十住十行十回向、この三十の間を三賢って言うんです。それから最後の十地って言うのが十聖て言われる人達の修行の内容でしょうかね。五十に段階を分けてる。

後、その上に等覚、妙覚って言う風にして、五十二位、五十二の階段を修行の階梯をつけて、そう言う分け方をした人が後に出て来るんですよね。どうでも良いなと思うけど、本当に。でも学者が作って、そう言うものを立ててですね、何でこんな事を立てるかって言うとですね、なんとなく進んで行く様子が無いとですね、修行して張りがないんでしょうね。だから少し何かやると、こう言う事があったと、あ、それはここら辺まで来た、とかって、段々進んでる様に思えて、頑張れるんです。

一般の社会だって皆修行する行をつめば、九級から八級七級って言う風に二級一級、上がって行くじゃないですか。あれはやるたんびに下がって行ったら、大概止めちゃう。そんなものでしょう。そう言うのがひとつありますね。

「これによりて三賢十聖およばざるなり。」と付けてあります。こう言う事が分けて示されているけれども、実際の内容はそんな内容に収まらないって言うことでしょう。

それで、「大蔵あり、」どの位蔵の中にしまってあるか。或いはどの位大きな蔵なのかね、大蔵。大蔵経って言うんですね。金剛経のしまってある大蔵経。皆さんのこの五尺足らずの身体だって、どれ位大きいかわからない。正法眼蔵って言う位ですね。エー、何でも出てくるよ。是だけなのに。


午前中、おばちゃんと話してた。私はあまり知恵がないからって、そう言う方がおられた。そうかしらね。私も知恵は無い。だけど、こうやって一々向かうとそれが分る。音がすると、それが聞こえて、どんな音がしてるのか、皆分る。飲んでみると味がして、それがどんな味か、皆分かる。自分の身体の中にしまってあるものはひとつも無いですよ、知恵です。何処から出て来る? そう言うもんじゃないですか。

別にこの中にしまってあるものが出て来るんじゃないでしょう。耳の中にパン!(扇子で机を打つ)しまってあった音が出て来るって訳じゃないでしょう。聞こえる時に。扇子広げてこれが見える時に、自分の目の中にしまってあったとこから出て来るんじゃないでしょう。エー。知恵が無いって言うけど。こんなに人間て本質的に知恵があるじゃない。誰からも学ばない。教えられた訳じゃない。

それで、そう言う体験をしたものが、自分の言葉でちゃんと語れる様になってる。自分が体験した事だから、人に聞かなくても、自分の言葉で語れる様になってる。上手く語れるかどうか少し時間が必要かも知れない。それだって、自分で喋って見た時に、言いたいことが十分言えてるか言えてないかは、自分でよく分かるから、言えてなかったら言える様にやりゃ良いじゃないですか。

とことん自分で納得する事が言える様にやるのが、それが文学でもあるんでしょう。表現するのに。推敲するって言うのはそう言う事でしょう。何回でも、自分で。皆人から借りなくても済む様に出来ているって言う話を少しその方に致しました。どっかで勝手に自分の事をつまらないものだと思う込む癖がある。

それともうひとつ付け加えておいた。ものをありとあらゆる勉強をする時に、どんな職種の人であっても、基本は今どの様になってるかと言う事が明確でないと、絶対ここに凄い知力があっても、役に立たない。基本はあくまで、パン!(机を打つ)今どの様になってるかって言う事をパン!明確にする事でしょう。そうじゃないですか。何をやるにしたって。そう思いませんか。

お仕事するの見て御覧なさい。今どうなってるかちゃんと分からなければ、自分の中で勝手に考えた事をそこに行って手を付けてごらん、どんな事になる。好き勝手なことをする。無理でしょう。

これを命を扱ってる医療の方なんかはですよ、私が病院へ行った時に、私の事はひとつも診ずに、多分ここら辺が悪いんじゃないか、これが使いものにならないんじゃないかって言ったら、吃驚しますよ。そうなったら。人と相談する、話をする、現状がどうなってるかはっきりした上で、話をするのでしょう。

何で討論会をするか、何で時間を取って、ああやって疑義をただすか。疑義をただす時に、ものの真相をただすのに一番必要なのは、実際どうなってるかから始めるんじゃない。エー。実際にどうなってるかって事が明確になって、始めるんじゃないですか。それ抜きで何を話しするんでしょう。何処手を付けるんでしょうか。

今週の木曜日に静岡で話をした時に、名古屋から中学二年生の男の子が坐禅に来た。余分な事かも知れないけども、あなたニュースなんか見る?って言ったら、はいって言う。ああ言う事聞いててどう思いますかって。あれ、もし、学校でああ言う風な事で済むんだったら、いつも百点満点だよねって言ったら、笑ってましたよ。トンチンカンなんだよね。質問した人と答えるのが全く。それが国を動かす様なトップの人である。日本の国民に対してあからさまに、そう言う無様な事を子供達に教えてる。こんな事で良いのか、あんなことで教育になるかしら、これからの日本の子供達を育てるのに。

学校の先生が、子供達にああ言う事質問したら困るよね。明日天気になりますかって聞いてるのに、昔はねぇーとかって、そんな話をしてそれで良しにしますか。それでは一つも私の質問した事に答えてないじゃないですかって言われるよね。別に世の中を批判する訳じゃない。仏道を学ぶって言う事は、それ位真摯な事をやるのじゃないですか。誰が見ても当たり前だけど、そうなければならない。特殊な人だけ学ぶんじゃない。本当に万人が一様になるほど間違いないなって言う、それが普遍性の在る事なんでしょう。

「奇特あり」奇特の中の奇特と。誰しもがそういう素晴らしい生き方をしてるって事は、奇特の中の最たるものじゃない。特別な事じゃなく、奇特。「優曇華の様に世に又と無い不可思議を現成する」ってある。そんな、何処にあるかわからん様なそんな話じゃないでしょう。悪いけど言って。

パン!(扇子で机を打つ)こうやってやったら、この様になるって、これは奇特の事ですよ。何回も触れますけど。一切皆さんが手を付けないのに、パン!こうやったら、この通りなるんですよ。ここにいると全部。無条件で。そんな事、聞こえないって、そんな事どうでもいい、色んな事思っている人が居ても、一切そう言う事飛び越えて、パン!そう言う風になる力を持ってるんでしょう。奇特でしょう。世にまたとない不思議な事が現成してるんですよ。違いますか。

だけど、それ皆、見過ごして行くんでしょう。それ位自分自身の事に目を向けない。仏様の教えって言うのは、自分が今生活してる事の中にあるとは思わない。別なものだと思ってる。それを学び取って、自分に身に付けて太って行くとか、豊かになるとか、幸せになる、そう言う風に思っておられる。そうじゃないですよ。仏道は。そう言う教えじゃないですよ。

「これを華開世界起といふ。」花が開くと世界が起こる、出て来る。どう言うふうに花が開くとなるか。パン!静かな所へこうやって、パン!音がすると必ず、ふっとそう言う風になって行くじゃん。今見ている物の所、こうやって見せると(扇を開く)こういうことが展開される。一々の世界ですよ。現れる様になってるでしょう。それ、皆さんの毎日の様子ですよ。こうやってやった時(扇を開いたり閉じたり)、その他の事が展開はしないですよ。

だけど、自分の中で色んな事考えてる人は、こう言う事が自分の上で展開されておる時、それには用が無い。何か、やっぱり自分の考え方の中で気になっている事を探すって言う態度があるから、だから修行する時に先ず、人間の思量分別を外れるって言う事が大前提でしょう。今生活してる実物に目を向ける時に、思慮分別に渡ったら、必ず今の事実から目が逸れて行くんですよ。思慮分別するって事は、今の事実の外の事を考えるんだからね。考えるって事は、今の事実を相手にして他の事をやる事を考えるって言うんですよね。パン!あ、音が聞こえたとか。

「一華開五葉、結果自然成」って、達磨大師の遺された言葉を出されて言われておりますが、内容は別に問題ないでしょう。普通に岡山で言えば、桃がどの様にして出来るかって言えば、花が開いて、花が開いただけじゃ無理ですから、木にはですね、葉っぱが繁っていないと桃が甘くならない。私より専門の人が沢山居るから、これ以上とやかく言う事はないでしょう。葉っぱの上で色んな化学反応が起こって、そしてその養分や色んなものを、実の方に運んで、あれが甘くなるって、膨らんで熟していくのでしょう。ほら葉っぱが無いとだめですね。

で、その花と葉っぱの比率が、ここではひとつの花に五枚位の葉っぱって言うけども、もうちょっと有った方がいいんじゃないか。柿でもそうだけども、多すぎても駄目ですね。多すぎると日当たりが悪い。葉を摘んでます、見てると。で、適当な量でやっておりますが、その最終的には美味しい実が成ると言う事が、まあ背景にある。そう言うものを使って、仏道の修行もそのようだと言う事でしょう。

「渾身是己掛渾身なり。」そりゃ、自分自身の生活してる様子を見たら、何時も話をする様に、もうひとつ自分自身の生活してる様子が有るなんて、絶対にそんな事は一生涯無い。本当に何時でも自分自身の今生活してる様子以外に、自分には無い。徹底してそうです。考え方は違いますよ。考え方はこれじゃ不十分だと思ったりするんですよ。で、もっと良い生活が出来ないかとか、幸せなあり方があるんじゃないかって常にそうやって思うから、そこに人間の眼がですね、見落として行くものがある。それが本当に生活している時に、在り様に目が向かないと言う事でしょう。

生きて行けるかどうか分らないけど、って質問する人が居ます。エー。生きて行けるかどうか私もよくわかんないですけど、って。その人の質問してる時の様子を見てみると、お前生きてないのかって、言いたくなりませんか。今どうしてる?ちゃんと生きてるじゃない。これから何かしなくたって、今生きてるじゃない。この位の質問平気でするんですよ。

この前坐った時、こんな風に坐ったんだけど、こんな状況にも成ったんだけど、それでいいですか?って。まあそれに対して答えて上げてもいいんだけど、それ答えてどうするんだろう。この前の事を。今、修行する時に何の役に立つんだろう。全く次元の違う話でしょう。本当に問うべきは、今坐ってる所のものを問わなければ、話にならないじゃないですか。

この前こうやって料理作ったら、皆に美味しくないって言われたけど、どうやったら美味しく出来るだろう。そりゃ一応聞いたら、何か今度旨いものが出来るって思うじゃないですか。思うから聞くんでしょう。だけど本当は何をするかと言ったら、今どういう風にするかが大事なんじゃないですか。エー、それだけじゃないですか。そう言う風な事がこうやって、「渾身是己掛渾身なり。」渾身に掛かるって言う様な事じゃないですか。何時でも誰でも、今生活してる様子以外にない。