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龍吟  Ⅴ

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「『乾不尽』は海枯不尽底(海枯れて底を尽さず)」海の水がすっかり無くなってしまうとですね、底を見るって言う様な事はない。ずっと地続きになっちゃう。水がある間は海の底って言って、こうやって見てるんだけども、水が一切無くなると、いきなりずーっと底じゃなくなっちゃうんですね。不思議ですね。頭は昔水が有ったんだから底が見えたって言う風に言うんでしょうけども、実際に水が無くなってみると、海の底って言うものがなくなっちゃうんですね。こう言う不思議な現象が起きるんですね。

「不尽是乾なるゆゑに乾上又乾なり。」下の方には厄介な事が書いてある。修行の上に更に修行するって言う様な事が書いてある。頭で理解してものが分かると言う事とですね、本当にそのものに触れて、そのものを理解するって言うことの違いがあるじゃないですか。そう言い分かりますかね。人間同士だってそうでしょ。しょっちゅう会ってる人の事は、大体わかってるから、ああ、あの人はああ言う、こう言う人だって、一応そう言うんだけども、本当の様子って言うものは、会った時に初めて出て来るのでしょう。それ迄は、全部推測の範囲なんでしょう。過去に体験した事を基にして、そう言う風に、あの人はこう言う人だって思ってる程度の事でしょう。だけど実際に会ってみると、やっぱり思ってる事とは遥かに違うでしょう。ねえ。

「乾上又乾」て修行の、此処には修行の上に更に修行するって言うんだけども、本当に考えでなくて実物で触れて行くって事が、私達が修行する上で大事な事でしょう。ものを知るもんだから、実物を離れても分かった様な気になるんですよ。本当に。そんなもの持っていたら、ずれるに決まってますからね。そう言う処に私達の日頃の生活の在り方を問われるでしょう。

それから次行きますが、「聞者ありや」って言いますが、もんじゃ焼きじゃないですよ。「『聞者ありや』と道著せるは、不得者ありやといふがごとし。」こう言う表現なんでしょうね。聞く人が居ますかって言う事は、聞かない人が居るかって言うのと同じだって言うんですね。そりゃよくわかる言葉でしょう。煎餅食べた事があるかって言うのと、味はどうだったって言う様な事でいいじゃないですか。どうですか。煎餅食べた事がありますかって言うのと、味はどんな味がしましたかって聞くのと、同じ様な事じゃないですか。違いますか。食ベなきゃ味しないしね。味がしてるって事は食べた人でしょう。ものってそうやって、いろんな表現があるって言う事でしょうね、これ。

「『尽大地未有一箇不聞』は、さらに問著すべし。」本当にそうかな、間違いないかなあって、皆さん方自分でこの言い分に対して尋ねてご覧って。道元禅師って凄い親切な人だから、必ず皆さん方に、実践するように勧めてます。他人がやったやつでは分からないんですよ。ね。私がお茶飲だのでは、皆さんどんな味がするか分からないでしょう。だけど自分が飲んだら分かるんだよね。だから必ず、皆さん方に自分で実践して欲しいんです。正法眼蔵の中には必ずそうやって示しておられる。説くだけじゃないんですね。それをやらないと、正法眼蔵を読む意味がないです。

「未有一箇不聞はしばらくおく」まあ一応聞いたんだけど、まあ、それはちょっと置こうっていって、言ってくれてるから、ちょっと置きましょうね。「未有尽大地時、龍吟在甚麼処、速道々々。(未だ尽大地あらざる時、龍吟甚麼の処にか在る、速やかに道へ、速やかに道へ)なり。」尽大地ってここで言えば、地球でいいでしょうか。皆さん方が居る場所。あらざる時、尽大地にあらざる時、龍吟いずれのところにかある。でそうやって、さあ答えてご覧、って言っております。今すぐに答えろって言ってます。「速道々々。(速やかに道へ、速やかに道へ)」

下には父母未生以前に同じって書いてある。「未だ尽大地あらざる時」父母未生以前て言うのは、これでもよくわからない表現でしょう。お父さんやお母さんが居ない時のあなたはって言うんですけども、そんなの無理だよねえ。探したって。自分のお父さんやお母さんが居ない時、自分が生まれてる訳がない。無理だ。言いたい事は如何いう事かと言ったら、意が尽きると言う事でしょう。分別が、ああじゃないこうじゃないって思いがすっかり止まっている時、こうやっているとどうなってるかって言うんでしょう。本当に今の在り様と寸部分け隔てが無いようにして、こうやって、今存在してるでしょう。どうですか。

意が少しでも、思いが少しでも起きると、これは私、それは他所のものって、そう言う風な見方にすぐ変わるんだけど、それが無い時には、これ全部一丸となってるのでしょう。何処から何処までが自分の様子かって言って区切る事が出来ない位、一枚岩でこう動いてるのでしょう。そうじゃないですか。誰しもの今の在り様って見て御覧なさい。自分の生きてる今の在り様って。これは全部自分の内容でしょ。何処までも、何もかも。これと離れて自分が生きてる所は何処にも無いほど、これが全部自分の今の生きてる様子でしょうねえ。

そこまで自分の内容こう触れてみたら、何を寂しがったり、何か不足があったりするのでしょう。こんなに豊かに生活出来てる。凄い生き方をしてるんじゃないですか。これ、だからちょっとでも自分の分別が入ると、すぐに自分で、自由にこれが動かなくなる。日常だってそうじゃないですか。勝手に自分の首を絞めるのでしょう。勝手に自分を不自由にさせるのでしょう。自分の考え方がチラッと動いて。違いますか。こっちに条件が無い時は皆さん、どんなにでも動くでしょうが、素直に。知らずに動かされているんじゃないですか、この様に条件が無い時。その時の活動してる様子に触れると実に素晴しいね。まあそこらも皆さん方に出してる問いですから、速やかに言え。だから皆さんがそれぞれ自分の体験を通して、その内容を提起してくれたらいいじゃんね。

「『未審、龍吟是何章句』は為問すべし。龍吟はおのれづから泥裡の作声挙拈なり」って言うんですかね。泥の中からって、自分自身の泥の中からの声って言うんだけども、「未審、龍吟是何章句」尋ねてごらんて言うんでしょう、為問だから。如何いうことか。そうすると、龍吟は、本当に一生涯貫いてみてもですね、人って言うものは他人の様子は一切無いもんだって言う事を、私も何回も此処に来て話してます。どうでしょう。皆さんはどんな風に感じるのでしょう。一度も他人の事をやった事がない、これ。このものの活動だけですよ、何時でも。どうでしょう。

ちょっと茶碗、これ取ってくれって頼まれて、私がこうやってやる。見て御覧なさい。全部私の様子でしょう。いかにもあの人に頼まれて茶碗をこう動かした様に思うけども、聞いたのも私の様子、それ言ってる事が、その通り理解出来るのも私の様子、動かすのも私の様子、勿論。だけど一般的には、言われた事を、あの人に言われた事を私がやるから、他人の事をやったって思ってるんです。じゃないですか。でもよーく見ると、他人の事なんかやってないよ、これ。

あすこのストーブ火を止めてくれって言われたら、あすこまで歩いて行く。で、言われた人の事をやった様に思うじゃないですか。だけど聞いて立って歩いて消す、全部このものの動きばかりじゃないですか。どこで人の事をやってる様な風に変わるのでしょうかね。どっかで騙されたんだろうね、知らないうちに、何か人のことをやってる様に。

人の事をやってる様に思う人を挙げてみると、気に入った人の言う事はちゃんとやるし、気に入らない人の事はいい加減にやる様な事が起きるけども、もし本当に自分自身の様子だったら、これを粗末に生きる人なんか居ないんじゃないですか。そう言う風に変わるんじゃないですか。自分の命ですから。それによって、自分の評価される訳だから、全部を。いい加減にやればすぐいい加減な人になりますよ。

自分で自分を見て、自分がつまらないなあと思う様になるのでしょう。だから一人でほっといても、これ自分自身の動きだけだから、生涯。このものを本当に相手に大事に生きるってのが人の生き様でしょう。人からとやかく言われる事じゃないでしょう。見て頂きたいんですよ。

鼻の孔から出気ってあるから、息、呼吸してるのでしょう。当たり前の話でしょうね。「鼻孔裏の出気なり。」「『也不知、是何章句』は、章句裏有龍なり。」本当の活動がその中でされてるじゃないか、如何にも分からないとかはっきりしないとか、如何いうことだって、何か聞いてる様だけども。

もうちょっと違った例を挙げると、これもしょっちゅう使うのですけども。山登りをして日が暮れてしまって、位置がよく分からない、どうしていいか、迷ってしまったって言う様な事を言いますが、人は絶対に迷わない在り様がある。その、一番はっきりしているのは、今何所に居るかと言う事でしょう。それが分からない人は無いでしょう。此処に間違いなく居るって事でしょう。それが何処の山であろうが、何処の場所であろうが、自分が居る場所が不明な人なんか居る訳がないじゃないですか。

だけども力のない人は、そうやって自分が居る、何処にいるか分からないって言わせちゃうんだろうね。そんな事は絶対にないですよ。そして自分がここに居るって事がはっきりして、静かにこうやって眺めてみると、周りの景色がちゃんとその通りみえるんだから。昔の人は夜空を仰いで、星の位置で大海に行って舟を浮かべてもそうでしょう。砂漠を歩いてても。天文学に長けてた。自分の在り方がよくわかる、そう言うものに拠って。

一番大事な事を忘れちゃうのね、はっきりしてる事を。はっきりしてる事があるのに、それをはっきりしてないって言うんですね。これは、今この通り話してる事が、そこで話してる通りの事があるでしょう、お互い。それだのに、何か自分で話してる事を話していながら、分からないと思ってるんだよね。

勉強して力のある人は、書いてある事を読んで、書いてある通りだけども、書いてある通りの事が如何いう事か分からないって言う事が分かると、力が付くじゃないですか。だからああいう人達は書いてある通りの事が分からないって言うことはないですよ。先ず書いてある通りの事を読んで、書いてある通りの事が分かった上で、分からない事を問うんじゃないですね。それが力のある人でしょう。文字ひとつ見たってそうでしょう。分からない訳じゃないでしょう。実際にやって御覧なさい。知らない文字見せられたって、分からない訳じゃないでしょう。

だけど知らない文字を見せられると、もう分からないって言っちゃうんだよね。そんな事はないですよ。知らない文字でもその通り見えるんだよ。その通り分かるんだよ、見て、どうなってるか。ただ自分の知識の中に、それを読むだけのものが無いから、読めないって一応言ってる訳です。はっきりしてる事があるから探せるのです。誰にも頼らなくても。力のある人はそうするんだけけど、力の無い人はわかないって言ったら、それで終わりなの。そう言う力の有る事が「章句裏有龍」と言う様な事です。

さっきも挙げた様に「聞者皆喪」聞いてながら、皆その事をちゃんと聞いていながら、その事が、その事によってその事がちゃんと分からないなんて、本当に可哀想だなあと思いませんか。初めて見たから分からないって言いますか。初めてこういうのを見せた時に、初めてだからそれが分からない。そんな事はない。初めての物を見せたって、その通りこう見える。それだのに力が無いと、この様に、「聞者皆喪」です。聞くもの皆喪しぬ。喪は葬儀の葬とか、喪くなると言う意味でしょう。分からなくなるって言う事でいいでしょう。折角その事実に触れているにも拘らず、それでも分からないって言う様な事、もし起きるんだったら、変じゃないですか。まあそんな様な事がずーっと説かれている。ちょっと時間過ぎちゃったかもしれませんが、もうちょっとだから此処まで読んじゃいますね。

今挙げてきた様に、香厳・石霜・曹山等の話しておられる内容、「くもをなし、水をなす」と言う事は、私達にこんな大きな影響を与えていると言う事でいいですかね。教材として、修行の上の教材として、たった枯木龍吟とか髑髏裏の眼睛とか言う様な短い句だけども、それが語られる事によって、大勢の人が、お坊さん達も、如何言う事、どんな意味、何を言わんとしてるの、聞くとそれによって、又会話が為されてお示しが為されて、そう言う事がずーっとこうやって、今も続いて来てるのでしょう。

「不道道、不道眼睛髑髏(道とも道はず、眼睛髑髏とも道はず)。只是龍吟の千曲万曲なり。」日常の生活を見てください。特別な事とも何とも言わない事が、ずーっとこう行われている。要するに、見てるとも聞いてるとも何とも、そう言う事なしに、このもの全部使い切って生きてるでしょう。そう言う事が「只是龍吟の千曲万曲」でしょう。曲は曲がると言うよりも、何だろう、音曲とか有りますから、活動の様子を言うのでしょうね。千曲万曲。歌は一曲二曲って数えるんでしょう。ねえ、皆さん。「九十九曲細山路を直に1通らにゃ一分が立たぬ」と言う公案もあります。千曲川の舟の運行ですか。

それから、「猶帯喜在也蝦蟇啼」蝦蟇が鳴くって書いてある。「猶帯識在」と言う事は蚯蚓が鳴くと書いてある。「これによりて『血脈不断』なり」葫蘆って言うのはウリとか蔦とかって言う様な、こう巻きつく様なもと。蘆はヨシともアシとも読みます。「ヨシ・アシの中を流れて清水かな」なんて句もあります。蘆ですね。今、そのものがそのものによって証明されて行く。そう言う事が、継ぐ受け継ぐと言う、嗣と言う言葉になるでしょう。血脈不断はずーっと途切れずに、お灯明が途切れない様に、教えが途切れない様にして繋がっている。

何時の時代でも、この真実が無くなると言う事はないでしょう。悟ってる人が居なくても、真実が無くなると言う事はないでしょう。だから有り難いのでしょう。ああとは皆さん方が自分でその真実に直面して、真実の様子がなるほどって、理解が本当にいく時に自分の血肉になるのでしょう。力になるのでしょう。

「『乾不尽』のゆゑに、露柱懐胎生なり、燈籠対燈籠なり。」こんな言葉を持ってくるんですねえ。本当に其処に、こうある柱に、こうやって向かうとそういう物が出て来ると言っていいのでしょう。生まれると言っていいのでしょう。普通に言えば見えると言う事でしょうけど、そこに有る物にこうやって触れると、その通りの事がいきなり其処から出て来る、ねえ、露柱懐胎。自分の目の中に何も物がないのに、こうやって触れると、いきなり其処からものがこうやって生まれてくる。耳の中に何も音声がしまってないのに、コン!こうやってやると、ちゃっと生まれてくる。不思議なものですね。

最後の吊り灯篭でもいいんだけど、燈籠対燈籠とある。それはそうでしょう。そのものによってそのものを知る以外にないじゃないですか。他のものを持って来て、そのものを知るって事はないじゃないですか。だから皆さんそうやって生活するんでしょ。そのもの知りたかったら、そのものに用があるんでしょ。それだのに、此処のヘボな頭は色んな考えを起こして、どうやったら分かるんだろうって言って、色んなものを持って来るって言う事は、そのものからポン!とずれると言う事でしょう。

これをポン!(両手で打つ)本当に知りたかったら、ポン!これだけで足りるのでしょう。他にポン!もの一切持って来なくても良い様になってるでしょう。持ってきたら駄目になるんでしょう。ポン!正確に言ったら。これを聞くのにポン!他のものを持って来たら。修行ってそう言う事じゃないですか。皆さんどう思っておられるんですかね。修行するって。本当にその事を知りたかったら、どうなってるかを知りたかったら、他のもの一切持ち込まないで、その事だけで触れてみるって言う事じゃないですか。

だから人の会話でもそうでしょう。善し悪しをつけて聞いたら、それはそのものを本当に聞くと言う事に絶対ならないじゃないですか。日常の事だから、そう言う処で親しく触れてみてください、自分自身で。余分な事一切つけず、その通りにこうやって居てみる。稽古してもらっていいでしょう。そうすると変わるんですよね。余分なものつけないと、静かに居れるんですよね。穏やかになるとものは穏やかに処理が出来るし、分かる。相手の事が穏やかに受け入れられる様になると、仲良くなれる様に出来てるから良いじゃないですか。

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龍吟  Ⅳ

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もうひとつ今度は曹山と言う方に或るお坊さんが尋ねている、似た様な質問をしておられる。「如何是枯木裡龍吟(いかならんか是れ枯木裡の龍吟)」曹山と言う人はこれに対して、「血脈不断」こう言っておられる。

血脈って言うのは知ってる人は知ってる、知らない人は知らないですけど。禅宗などでは、お受戒とかお葬儀なんかの時に、血脈を授けます。それは仏弟子になった証として、所謂俗っぽい事言えば、血統書ですよね。血統書を授ける。それが血脈です。お釈迦様からずーっと。実際には昔は血判として、血書ですね。血脈を書くのは血書です。お師匠さんの血と弟子の血を取って、そして混ぜて、それで文字をずっとお釈迦様からずっと書いていく。

そう言う、だから血という字が其処にありますが、血書です。間違いなく師匠と弟子がここで触れ合ったと言う事の証になる訳でしょう。今風に言えば、それを科学的に検索すれば、遺伝子がはっきりしている、間違いなく師匠と弟子がそこで触れ合って文字が書かれているって言う事が立証できるって言う事ですよね。内容としてはその様にずーっとして、伝わってきて正しいものが間違いなく伝わっていると言う内容です。

「血脈不断」人の命ってそう言うものでしょう。親子関係を見てもそうです。一度途切れたら、命は生まれない。ねえ。だから、人がオギャーと生まれた処から自分の年齢を考えて、一般的には使ってますけども、人の命ってそんな処から発生した訳じゃない。皆さんもご承知の通りです。誰もそうです。何処から自分の命が発生したか尋ねる事が出来ない位ですね、命の根源て。

最近は、何かアフリカの方で人間の一番最初のDNAが何とかって話を、私も人づてに聞いた事があるけども、そう言う研究になってるのかなあと思うんだけども、それが世界中に広がったとか言う様な。DNAを追求していくとそうなるらしい。まあそれは他におまかせしましょう。「血脈不断」

もうひとつ、「如何是髑髏裡眼睛(如何ならんか是れ髑髏裡の眼睛)」「乾不尽」まあ乾坤でいいですかね。尽きない、どちらもそう言う意味でしょう。このお坊さんは未審、いぶかしって言うのありますから、よく分からないと言うのでしょうね。不会と言うのと、未審と言うのは、同じ分からないでも少し意味合いが違うかも知れませんね。つまびらかでない、未だ。それで、「還有得聞者麼(還た得聞者有りや)」聞く人が居ますかって言ってるんですね。それに対して曹山が「尽大地未有一箇不聞(尽大地に未だ一箇の不聞あらず)」

オーイって言ったら、この世の中のあらゆるものが、この一声を全部聞くと言うのでしょう。オイ!此処にある机もマイクも茶碗も、お茶もストーブも、もちろん皆さん方、壁も天井も皆、オイ!って言ったら、それを全部きくのでしょうね。

僧曰、「未審、龍吟是何章句(未審、龍吟是れ何の章句ぞ)」龍はどの様な言葉をそこで発するのかって聞いております。それに対して曹山は、「也不知是何章句(也た是れ何の章句なるかを知らず)」その後に、聞者皆喪(聞く者皆喪しぬ)と書いてあります。ねえ。聞くもの皆喪しぬって言う事は、聞くって事は、どんな事がそこで喋られたか分からない人は、本来は居ないんじゃないですか。聞いたんだから。こうやって、パン!(机を打つ)聞かしといて、分かりますかって言うと、分からないっていうんですね。何です。こういう事でしょう。

。パン!こうやって、分かりますかって言うと、分からない。言いませんか。パン!(両手で)これ、如何いう事?分かりますか。音がしたけど、音がしたけど如何いう事って言われたって分からない、って言うのじゃないですか、多くの場合。そう言うのをここで、ここに挙げてある、聞くもの皆喪しぬ。折角聞いてるのに詰まらんなあって言っているのですね。

だから道元禅師、それにつけて、「可惜許」ってつけてるね。惜しい事をした。聞いたのに聞き漏らしたって言うんでしょう。折角聞かしてあげたのに、今ちゃーんと聞かしてあげたのに、聞こえた筈なのに、それをちゃんと頂けない。取りこぼしてしまう。勿体無いなあって言ってつけておりますかね。まあそれは後で読んでくと出て来る。

そこで今の、三人の立派な師匠さんに、それぞれお坊さんが質問したやり取りが3つ続けてありますね。「いま擬道する聞者吟者」聞く人唱える人でいいですかね。擬道するはいいですね。何を言おうとしてるかって事でしょう。問う人聞く人唱える者「吟龍吟者に等しからず」と言うんですよね。「不斉なり」。どこで等しくなくなるのでしょうかね。こうやって、パン!(両手で打つ)やってみると良く分かる。何処でずれるんでしょうかね。本当はずれないのでしょう。こうやって、パン!「この曲調は龍吟なり」とある様に、本当にその時にパン!パン!寸部ずれが無くて、向こうの事じゃなくて、自分の様子としてパン!こうやって活動してる、って言う事が言いたいのですね。

だけど向こうで手を叩いたのを、こっちで聞いてるって言う風な事になると、等しくなくなるのでしょうね。ずずれて来るんでしょうね。だけどそんな人は本当は居ないんですよ。パン!こうやって、向うで鳴った音をこっちで聞くなんて言う様な事は出来ない。出来ませんよね。パン!向うで鳴った音をこっちで聞くなんて。だって、いきなりパンて鳴るんだもん、しょうがないじゃないですか。そうなってませんか。

やってみますよ。パン!自分は何にも、そこに居て何にもしないんだけど、パン!この通りパンとなるんでしょう。曲調が高いでしょう。どうですか。飛び抜けて凄い働きでしょう。寸部違わない事を、どうもしないのに丸ごと全部頂いちゃうんですよ。千人居ても誰一人欠ける事がなくパン!、皆にこの通りの事が行き渡る。こんな在り方って凄いと思いませんか。

次のところへ、「枯木裏髑髏裏龍吟、これ内外にあらず自他にあらず」今、ずーっと話して来たでしょう。向うとこっちとかって言う様な事ですね。私と相手とかって言う様な境目が一つも無いでしょ。枯れ切っている自分達の様子、自分の見解が付かない時の活動です、このものの。パン!聞くとか聞かないとかって言う事の起きる前にパンて、なるんだもんねえ。そう言った事確認できますか。

今から音を出しますから、聞いてからやって下さいよ。良いですか。聞いてから手を挙げてくださいよ。パン!て言った時に、聞いてからなんて事無いじゃないですか。どうですか。これだけ用意して、聞いてくれって言って用意させといても、パン!こうやった時に、皆さん方の聞くって言う事が追いつかないよ、一つも。追いつかないでしょう。追いつきますか。パン!ほら聞くんですよ、ちゃんと。パン!用意させといてやっても、絶対自分で聞こうって言う様な事をやる前に音がパンとしてる。だから正しく伝わるのでしょう。変形せずに。

そう言うのを見ると、内外にあらずって良く分かるでしょう。向こうで鳴った音、こっちで聞いた音とかって言う様な音じゃないでしょう。物を見たってそうでしょう。向こうにある物をこっちに見てるってそんな風な見え方はしないのね。自他を越えた働きですね。

更に道元禅師が残しておられる様に、「而今而古」古も今も、本当にその時にその通りの事がずーっとこう行われている、ねえ。あの、読み方は「ニコン」とか言う読み方もしますけど、ここでは仮名がふってあるから、「シキン」と読む。何時でもそうじゃないですか。万古不昧と言われる。或る時はそう、或る時はそうでないって言う様な不確かな事ではない。

次の処にさっきに挙げたね、「『猶帯喜在』はさらに頭角生なり、」頭に角が生えるって言ってます。問題が起きるって言う事じゃないですか。問題がもし起きる様だったら、枯木裏の龍吟ではないね。そう言う事が指摘されてるでしょう。

それから、「『猶帯識在』は皮膚脱落尽なり。」本当に何もかも自分らしいものを認めるものがすっかりなくなった様子でないと、そういうものが何処かにこうやって引っ掛かってるんでしょう。だけども、現実、皆さん方のこの機能の働きって言うのは、私達が理解してるのとは違いますよね。

どの位違うかって言うと、眼ひとつでもそうでしょう。見たものを一つも残さないんですよね。だけど皆さんが理解しているのは、見た事が残るじゃないですか。だから問題になってるでしょう。眼は見た物は残しませんよ。誰の眼でもそうですよ。見てごらんなさい。何が見えてるかって、今、向かってるものが見えてるだけであって、今まで見てきた物が一切、今見えてる人は無いですよ、眼に。

耳だったそうですよ。どれだけの声を聞いて来たかもしれないけれども、一切耳には音は残ってませんよ。だけど、常識として、皆さん方は聞いたものがどっかに残ってる様な事を、殆どの人が言うじゃないですか。あれは耳に残ってる音じゃないですよ。耳はそんなつまらない事しませんよ。カチ!音がしたら聞こえるだけですよ。聞こえても、どこにも音が残らない様になってるじゃん。どっちが信憑性があるんですか。残る方が本当なんですか。残ってない方が本当なんですか。自分の身体で立証して御覧なさいよ。皮膚脱落し尽くしぬと、そう言う事でしょう。本当に。そう言う風な事を少し触れてみたらいいかねえ。

曹山の所謂血脈不断は「道不諱なり。」言う事を忌まずって読んでいますね。嫌わないって言う様な事でしょうね。諱、ごんべんの言う事なんですかね。「語脈裏転身なり」尋ねてる、あるいは答えてるその通りも事が、今此処で実際に行われてる。これからじゃないですよ。ここではそうですよ。「龍吟是何章句」こう言う言葉がそこで既に語られている。そしてそれに対して、「也不知是何章句(也た是れ何の章句なるかを知らず)」そう言う風にして、龍吟としての内容がそこで展開されてる。

だのに聞いてる人は、それはただあなたと私の会話だと思ってるから、もっと龍吟て言うのは他の事だと思ってるのですね。生活してる様子を見てみるとよーく分かるじゃないですか、人の、自分自身の生活。自分自身の生活をしてみるとですね、今こうやって生活してる他に、もう一つの生活場所を同時に持ってる人は誰も居ないよ。それ凄い大事な事じゃないですか、ものを見るのに。どうですか。

もし、今こうやって生活してる他にもう一つの生活してる様子があるんだったら、それと比べて、どっちが素晴しいとか、どっちが本当だとか、どっちが正しいとか言う様な事が詮索されて、選ばれなきゃならないけども、底抜け誰も今の様子だけじゃないですか。今の様子だけだったら、どこで問題が起きるんですか。どこでごちゃごちゃするんですか、お互い。それを勉強してほしい。本当に今こうやっている様子だけが誰しもあるんだったら、ごちゃごちゃしないじゃないですか。だからこうやって見た時、その通り見えてる事しかないから、ごちゃごちゃしないでしょう。

もう一つの見え方が、こうやって出て来るんだったら、大変だけど、パン!この音を聞いて、もう一つの聞こえ方がこの音に対して出てきたら。そんな事無いから、いつも、パン!こうやって、それで終われるじゃないですか。そうやって皆さん本当に生活してるんじゃないですか。

この事がはっきりしないのでしょう。頭の中で描いてるものを出して来るのでしょう。それが現実にあると思うのでしょう、頭の中に描いたものこう出てくると。もう一つのものがあると思うのでしょう。で、修行を本当にする時には、頭の中で描いてるもの相手に修行するって言う事は、誰も教えた人はないな。目を向けるのは、今皆さん方が本当に、こう今の在り様だけで生きてるその事に目を向け、どうなってるか学んで下さいと、こう言ってる訳でしょう。の事実に触れて、事実がどうなってるかを明確にするだけじゃないですか。

こうやって、音だってそう、カチ!音がした時にカチってなるのに、何もしないのに音がなくなってる、この確かさがあるのでしょう。だからやりっぱなしで、このままで大丈夫でしょう、整理しなくても。残ってないから。残ってると、消したり、包んだり、しまったり、片付けたりしないと邪魔になる。この耳はそういう事がないから、いつでもまっさらでいて、音がしたら、その時は必ずその通り聞こえる様になってて、間違いを起こさない様になってる。

だけどさっきっから話すように聞いた途端に、自分の聞き方に変える人が殆どなんです。それやったら駄目なんでしょう。帳簿に書いてある数字を自分で改竄したら、不正になるのでしょう。違いますか。そんな事されたら困るでしょう。一兆円って言う数字に、0一つ付けて御覧なさい。どの位の事が起こるんですか。滅茶苦茶酷いですよ。あなた方収拾できない位の額ですよ、0一つ付けると。それが皆さん方聞いてる時に、自分の見解を付けて聞いてるって言う事の証拠じゃないですか。それ位人生を滅茶苦茶にして生きてるんじゃないですか。そんな事しない方が楽に決まってるじゃん。改竄しない方が、その通りあるんだもの、それでいいじゃない。え、まあ、そう言うな。「語脈裏転身」て言う様な事があるのでしょう。


龍吟  Ⅲ

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そう言う事があるのにと言うことですかね。「しかあるに、」このお坊さんです、「遮僧道の」この僧曰くって読むんでしょうね。この僧の言うのに、『枯木裏還有龍吟也無』って、そう言う質問をされたんですよね。投子山慈済大師ちなみに僧問うって言うね、投子山の慈済大師にあるお坊さんが尋ねた。その問いですね、これがね。『枯木裏還有龍吟也無』。聞いてみたい問いじゃないですか。木が本当に枯れてしまったら、どうなるんだろうって、自分の見解、そういうものがすっかり無くなってしまったら、皆さんはどうなるんでしょう。

赤い物にこう目を向けた時に、白く見える様になっちゃうのかしら。コン!(机を打つ)音がした時に、聞こえなくなっちゃうのかしら。人間の考えや思い方やそう言うものがすっかりなくなったら。そう言うものがすっかりいなくなったら。どうでしょうか。何を言ってるか分からなくなっちゃうのかしら、考え方が止んだら、自分の思い方が止んだら。評価する事を一切しないでいたら。コン!コン! こうやって聞こえなくなっちゃうのかしら。 コン!どんな音がしてるか、全く分からなくなっちゃうのかしら。と、言う様な事でしょう。

ひょっとしたら、そう思ってる人いるんでしょうね。考えないとわからないって思ってる人沢山居ます。振返って自分が赤ちゃんの頃の事は、自分では分かりませんから、身近に赤ちゃんなんかの様子を見てみるとわかる。はたから見ると、なんとなく分かっている様に動いてるでしょう。ねえ。こうやってコンコンコンコン(机を打つ)こうやってやると、こっち向いたりあっち向いたりするんだよね。大人はそれを見て、あ、聞こえてるんだって、こうやって言ってるんだけども、赤ちゃんが、コンコンこうやって、コンコンこれやった時に、聞こえてるかって、こっちから声かけてもですね、聞こえてるかって言う事が如何言う事か知らないんだよね。不思議ですね。だって言葉知らないから、理解なんか出来ないじゃないですか。自分が聞いているとも知らない。コンコン、コンコン知らないんですよ。自分が聞いてるなんて。コンコン只、コンコンこうやるとこうなるんです。コンコンこうわかる。理解する分かり方ではありません。

だからそう音がした方に、こうやって反応する。こうやって物を出すと、手を出したりするじゃないですか。握ってるものパッと取ったりすると泣いたりするじゃないですか。色んな事をやってますけど、赤ちゃんは、自分と言うものを知りません。それが自分が何かやってるか何をしてるかって言う事殆ど、要するに、大人から言ったら、理解をしてる訳じゃない、ここで(頭)。分かってやってる訳じゃない。じゃ分らないのかって言うとそうでもない。不思議な動きですね。これ、枯木裏の龍吟なんでしょう。

だけど大人はものが分らないと、理解出来ないと思ってる。でも何飲んでるか分らない訳じゃない。水とおっぱいでちゃんと判断してますね。ね、教えないのにちゃんと判断してます。歩いてて、この辺で(端)転がりそうになると、こっから先めったに落ちない。不思議ですね。誰も教えないのに、落ちない様にしてる、ちゃんと。こんな面白い動きをしてる。まあ色んな事がありますが、「枯木裏還た龍吟ありや無しや」人間の考え方や思い方やそういう扱いがすっかり止んで、丁度枯れ木の様になったら、活動しないのかって言ったら、そうじゃないなあ、って言う様な事なんですかね。

まず、坊さんはそう言う事を聞かれた。これは長い年月の中で、「無量劫のなかにはじめて問頭に現成せり」初めてそう言う、ここで質問が為された。「話頭の現成なり。」そう言う事がそこで本当に世の中に残された、現れて。だから皆さん方も聞きたい事があったら、遠慮なく何でも聞いたら。そうすると真意がよく分るようになるのね。

投子義青と言う方の所ですね。投子、徳山宣鑑のお弟子とありますね。投子の言われるのに、『我道髑髏裏獅子吼』わが髑髏裏に師子吼す、と言うんですかね。道は、我曰くと読んでいいのかね。我曰く、「髑髏裏に獅子吼す」。エーそれが如何いう事かって言うと「甚麼の掩ふ処か有らん」ておっしゃっておられる。この髑髏っていうのも、しゃれこうべって読んでしまうと、一般の読み方なんでしょう。何をしゃれこうべ、それは枯木と同じ様にですね、本当に人間のこの頭がついてるんだけども、この頭が丁度、死んだ後に骨だけが残ってしゃれこうべとして残ってる位、自分の取り扱いがすっかり止んだ時の様子をこうやって髑髏裏と、こう言っているのですね。こう言うのが仏教用語とか禅宗の書物の中に沢山引用されてるので、まあそれ位の読み方をすると言う事位は知っといても悪くはないでしょう。

「甚麼の掩ふ処か有らん」さらけ出されているのでしょう。獅子吼って言うのはライオンが吼えると言う様な、もともとの意味だけども、獅子吼って言うのは正しい教えをそこで説くと言う事ですね。百獣の王が吼えると、一切の動物達が震え上がると言われる訳ですが、真実の前に皆ひれ伏すと言う様なことでしょう。

そう言う正しさを、いつも各自皆さん方、皆さらけ出して生きている筈です。だから自分自身の本当の在り様に、自分で触れたらいいのでしょう。自分自身の本当の様子って、さっきも有った様に、その赤ちゃん位になってるのですね。日常音がする時に、聞いてるなんて思っている人は殆ど居ない。そうじゃないですか。ああ、又音がしてるとかって、そんな風にして聞いてる人は殆ど居ない。只、音がしてる中に居るだけじゃない、その通り。音がガチャガチャとかギヤーとか、全然聞いてるらしい気配は何もなしに生きてるのでしょう。

物をみるって言うんだけど、一日中目を開いてたら、物が見えっぱなしだけども、その見えっぱなしで居る時に、ものを見てるなんて言う風にして生活してる人は誰も居ませんね。こうやってやると(物を見せる)初めて見たって言うんですね。こんな事を見たって言うんですね。今使ってる事は、見てると思ってない位。その位人間てのは、真実の真っ只中に居るじゃないですか。一つも隠すものなしに。難しいって、もし皆さんが思う中に、如何いう事が挙げられるかって言うと、こうやって、向こうにに有る物を、こっちに居る人が向かって物を見るって言う風にしか捉えてないんですね、ここが(頭)。物を見るって言う事は、必ず向こうに物があって此方に自分が居て、こうやって触れて物をみてるって言う風なとらえ方しかしてないですね。

音を聞くにしてもそう。必ず向こうに音があって、此方でそれを聞く人が居て、それで物が聞こえるって言う風に捉えてるのね。これが一番皆さん方が、多分厄介なんでしょう、話をこうやって色々している中で。その事が受け入れられないんですね、中々。何時からそんな風になったんでしょうね。自分を意識して。自分と違うものが向こうに有るって言う風な意識に変わったのは何時頃からなんでしょうねえ。仏教でものを学ぶ時に、難しいったら、そう言う事でしょうかねえ。

で、それを少し理論的に皆さんに理解して頂く様に話をするのに、「これ」とか「あれ」と言って、それを見ようとしたり聞こうとするけれど、「あれ」「これ」と言う時は、既にその事を見ている聞いているんですよね。こういう話を時々してる。こう言う色んな物が有るって言う風に感じてるのは、皆さんの眼の今の働きですよって進めてる。皆さんの眼の今の活動がこう有らしめている。これが無いとですね、こう言うものは出て来ないんです。因みに目をつむって御覧なさい。見えなくなるでしょう。目を開けると、目を開けた途端にあるんでしょう。それ、如何いう事ですか。見たって言う事ですか。目を開けた途端にあるって言う事は如何いう事ですか。見たんですか。向こうにある物を見たんですか。そんな事ないでしょう。目を開いた途端にあるんじゃない。エー、見るって言う事してないのに、目を開けたらあるんじゃない。

こんな面白い働きしてるんですよ。カチッ!(机を打つ)音がすると、聞く前にカチッ!ってなるんですよ。カチッ!って言ったものを、あ、音がしたって、後で、今音を聞いたって言ってるんです。そう言うのをこう見てみると、向こうとこっちって言うものが無い。もうちょっと丁寧にやると、こうやって、コン!(机を打つ)向こうの音とこっちの音って無いじゃないですか、、聞くのに。有りますか。コン!こうやって。音が二つ出てこないでしょう。コン!カチッて言うだけでしょ。向こうの音、こっちで聞いてる音って、そんな風に出て来ないじゃん。向こうにあるものとこっちで見てるものって、そんな風にならないじゃないですか。そこらは如何ですか。

そうは言っても、向こうにあるものと見てる自分て、ものが二つありますか。向こうにある物と見てるものって。そんな見え方は無いのでしょう。只、そこに在る通りに見えてるだけでしょう、何時でも。こう言うのがあの、勉強なんですねえ。勉強するって。自分自身の生活してる中に、そう言う事が確かに行われている筈なんだけど、自分に目を向けない限りは、人の話を聞くだけだからわからない。自分の実生活の処でそれに触れてみると、どうなってるかよくわかる。パン!(机を打つ)ずれが無い様になってる。あっちで音がしたものをこっちで聞いてるって、そんな聞き方はない。パン!て言うだけじゃない。

そう言う処みてごらん。自他って言う線はない。向こうとこっちって起きない様になってる。そうでないとちゃんと聞こえないんだよ。ひとつにならないと、人間てのは自分とひとつにならないと、触った様子も出て来ない、味も出て来ない、飲んでも。音がしても、コン!聞こえない、ひとつにならないと。目もひとつにならないと、見えるって言われないんですね。必ずひとつになってる時の様子なんです。離れてる間は見えないじゃないですか。まあくどくど言っておりますが、そう言う様な風にして、私達のこのものの、髑髏だけじゃなくて全体ひとつも隠すものは無い。覆い隠す様なものは無い。全体さらけ出されてます。

「屈己推人也未休『己を屈して人を推すこと也未だ休せず』なり。」まあそうやって人に真実を伝えるのでしょう。自分の方はさて置いてね、相手の人に。そう言う働きって言うのは無くなる事はないでしょう。音ひとつだってコン!そうでしょう。己、自分の方に問題なしに、向こうの音がコン!こうやってすれば、その事が必ずきちっと伝わる様に出来てる。私がどうかするんじゃない。私が介入出来ないじゃん、コン!こうやって聞く時。

物を見るんだって、自分の物の見方なんてした事ないでしょうが、どうですか。見た後、変えたいと思う人はいる。ああ言う風に思えたら、ああ言う風に見えたらいいなと思う人はいるけど、こうやった時に、自分でその物を変えて、作り変えて物を見るって言う様な事は絶対出来ないよね。だから良いんでしょう。あれが、自分の都合で変えられる様だったら、大変ですよ。滅茶苦茶になりますよ、世の中。だけど、どんな人が出て来ても、じぶんの都合で変える事が出来ない、そう言う働きがずっとあるのでしょう。

「己を屈して人を推すこと也未だ休せず」だから髑髏野にあまねしって言うんでしょう。「髑髏遍野なり」そう言う真実ですね、埋め尽くされてるほどじゃないですか、真実で。皆、朝から晩まで、晩から朝まで、ずーっと。そう言う中で私達は生活しているんだけども、何で気が付かないんでしょうかね。まあ一段のそう言う事が説かれています。それ以上の事は、各自が自分の上で研鑽する以外にないんじゃないですか。

香厳寺の襲燈さんにあるお坊さんが尋ねた。「如何是道(如何ならんか是れ道)」って尋ねておられます。如何ならんかこれ道って言うのは、本当の在り様って言うものは如何いうものかって言う事でいいですかね。道と言う、仏道とか言うんですけど、道。で、日本でも、剣道とか茶道とか華道弓道とか、道のつく、書道とか、道のつくものは、只、習い事をする事ではないですね。人の生き様そのものを、その事に拠って勉強する、そう言う在り方を何々道ってつけてるんですね。

道と言われるものの原語は、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)って言う原語です。訳して道と訳す。意訳をすれば、この上ない在り方って言う風になってるね。これ以上素晴しい在り方はないと言う事を、今言っております。最上無上。では最上無上って如何いう事を、具体的に言うかったら、こうやって、パン!(机を打つ)音がした時、その通りあるって言う事が、この上無い在り方なんでしょう。それで良いじゃないですか。

皆さんがこの上ない最高のものって言うと、もっと違ったものを何か描くかもしれませんけども、時間的にもそうでしょう。今って言うものが如何あったら良いかったら、今が今であれば、それに越した事はないでしょう。それに付け足すものや、少しでも取り除くものが有る様だったら、皆つまらなくなるでしょう。本当にただその事がその事としてあるって事が最高なんでしょう。そう言う様なもの昔から道と言ってます、仏道。自覚をした人の在り様ですね、仏道。

そう言う、ものを学ぶ、お坊さんとしては、聞きたいのは当然でしょう、本当の事はどうだって。他の事はどうでもいいけどとまでは言いません。或いは一番大事な事はなんですかって。一番根本的な質問でしょう。そう言うものに対して、この人の答えがふるってる。「枯木裏龍吟」尋ねたお坊さんはよくわからんと言ってる。「不会」って。師匠が、香厳の襲燈禅師がですね、「髑髏裏眼睛」って、もうひとつ、どうだ、これならわかるかって事ですかね。まあこれで一段のやり取りが終わってるんですね、此処で。二人のやり取りは。

「後有僧問石霜後(後に僧有って石霜に問ふ、)」今度は別です。石霜和尚さんの所に、その後、少し時間がすぎて、他のお坊さんが尋ねた。これ前段を受けていると言っていいでしょう。もしかしたら、一緒にいた人かも知れない。さっきの話のやり取りをしてる時にいた人かも知れない。だから「如何是枯木裡龍吟」(如何ならんか是れ枯木裡の龍吟)と。聞いた事があるんだけど、あの一体何を言ってるんだろうって、自分でよくわからないから、石霜さんに聞いたのでしょうね。

そしたら師匠が、その石霜さんが言われるのに「猶帯喜在(猶喜を帯すること在り)。それどう言う事かったら、嬉しいとか悲しいとかそう言う風な喜ですね。喜びを帯びているって言う事があるって言ってるんです。と、言う事は枯木じゃないなあって言っているのですね。ねえ。枯木には喜は無いですよ。喜びと言うものは。喜怒哀楽がないと、音色の違いや味がしないとか感じなくなると思うかも知れませんね、心配ご無用。

もうひとつ質問した。今度は「如何是髑髏裏眼睛(如何ならんか是れ髑髏裏の眼睛)」そしたら、「猶帯識在(猶識を帯すること在り)」死に切っちゃいないなあ、って言ってるんですね。識を帯する事ありって言う事は、何か認識が起きて、分別がこう、ちらちらと動く様な気配があるって言う事でしょう。ね。そう言う事を指摘しておられる。これはここでまた一段落終わるのですね。



龍吟  Ⅱ

音声はこちら  ↓

龍吟 2_01_1
龍吟 2_01_2
龍吟 2_01_3
龍吟 2_01_4
龍吟 2_01_5


311頁の後ろから4行目になると思っていますが、

「かくのごとくなる、枯木の長法身なり、枯木の短法身なり。もし枯木にあらざればいまだ龍吟せず、いまだ枯木にあらざれば龍吟を打失せず。幾度逢春不変心(幾度か春に逢ひて心を変ぜず)は渾枯の龍吟なり。宮商角微羽に不群なりといへども、宮商角微羽は龍吟の前後二三子なり。

しかあるに、遮僧道の『枯木裏還有龍吟也無』は、無量劫のなかにはじめて問頭に現成せり、話頭の現成なり。投子道の『我道髑髏裏有獅子吼』は、有甚麼掩処『甚麼の掩ふ処か有らん』なり。屈己推人也未休『己を屈して人を推すこと也未だ休せず』なり。髑髏遍野なり。」



「香厳寺襲燈大師、因僧問、『如何是道(如何ならんか是れ道)』。
師云、『枯木裏龍吟』。
僧曰、『不会』。
師云、『髑髏裏眼睛』。

後有僧問石霜、『如何是枯木裡龍吟』(後に僧有って石霜に問ふ、『如何ならんか是れ枯木裡の龍吟』)。
霜云、『猶帯喜在(猶喜を帯すること在り)』。
僧曰、『如何是髑髏裏眼睛(如何ならんか是れ髑髏裏の眼睛)』。
霜云、『猶帯識在(猶識を帯すること在り)』。

又有僧問曹山、『如何是枯木裡龍吟(いかならんか是れ枯木裡の龍吟)』。
山曰、『血脈不断』。
僧曰、『如何是髑髏裡眼睛(如何ならんか是れ髑髏裡の眼睛)』。
山曰、『乾不尽』
僧曰、『未審、還有得聞者麼(未審、還た得聞者有りや)』。
山曰、『尽大地未有一箇不聞(尽大地に未だ一箇の不聞あらず)』。
僧曰、『未審、龍吟是何章句(未審、龍吟是れ何の章句ぞ)』。
山曰、『也不知是何章句(也た是れ何の章句なるかを知らず)』。
聞者皆喪(聞く者皆喪しぬ)。」


「いま擬道する聞者吟者は、吟龍吟者に不斉なり。この曲調は龍吟なり。『枯木裡』『髑髏裡』、これ内外にあらず、自他にあらず。而今而古なり。『猶帯喜在』はさらに頭角生なり、『猶帯識在』は皮膚脱落尽なり。曹山道の『血脈不断』は道不諱なり。語脈裏転身なり。『乾不尽』は海枯不尽底(海枯れて底を尽さず)なり、不尽是乾なるゆゑに乾上又乾なり。『聞者ありや』と道著せるは、不得者ありやといふがごとし。

『尽大地未有一箇不聞』は、さらに問著すべし。未有一箇不聞はしばらくおく、未有尽大地時、龍吟在甚麼処、速道々々(未だじ尽大地有らざる時、龍吟甚麼の処にか在る。速やかに道へ、速やかに道へ)なり。『未審、龍吟是何章句』は為問すべし。龍吟はおのづから泥裡の作声挙拈なり。鼻孔裏の出気なり。『也不知、是何章句』は、章句裏有龍なり。『聞者皆喪』は、可惜許なり。

いま香厳・石霜・曹山等の龍吟来、くもをなし、水をなす。不道道、不道眼睛髑髏(道とも道はず、眼睛髑髏とも道はず)。只是龍吟の千曲万曲なり。猶帯喜在也蝦蟇啼、猶帯識在也蚯蚓鳴。これによりて『血脈不断』なり、葫蘆嗣葫蘆なり。『乾不尽』のゆゑに、露柱懐胎生なり、燈籠対燈籠なり。」


読んでると何が書いてあるか分からない様な文章が続きます。龍吟と言う巻きなんですが、皆さん方の、これは真相の様子が描かれているに違いないですけど、まず、龍とか言われると、架空の特殊な動物を頭に描くのでしょうね。そう言う処にこう言うものを学ぶ時に難しくさせるのでしょうかね。知ってる知識がですね、邪魔をするのですね、読むと。そう言う事がある。

枯木にしてもそうです。先だって、先回の時にも、道元禅師が残してあるとこ読みましたけれども、一般の人たちが言ってる、取り扱ってる枯木と言うものと、仏道で取り扱っている枯木と言うものは、根本的に違うという事が、指摘されてあります。普通に枯木って言えば、もう二度と芽を吹かない様な木ですね。そう言うのを枯木と言うんですね。枯木龍吟ってなるんですけど、それは如何いう事を指してるかって言うと、人間の息の根が止まるって言っていいでしょうか。死ぬる事じゃありませんよ。坐禅をしてもそうですけども、こちらから一切手をつけない様な状況で居る、と言う様な事が、ここら辺で枯木と言われる様子でしょうかね。そうすると芽を吹かないのですね。

色々な、生活の中で色々な事象に触れても、淡々と、その事が本当にその事として、こう展開するだけで。 ところが、人間に心意識と言うものが盛んに動くと、触れたものに、すぐ、自分の思いをつけて色々にものを見る。それは枯木でないですね。生きているやつですね。仏道で言う枯木は、その様に人間の余分な計らいが、本当にこう止んでいる様な様子を指すために使っております。そう言う事が先回の所にこう書いてあるのね。

で、実生活の中でもそうですが、身近な話を取上げれば、どの様な事が人から自分に向けて、言葉が発せられてもですよ、これが枯木だとですね、相手が喋っている通りの事がその通りこの上にこう響くだけですね。響くって言う事は現れると言っていいですかね。普通に言えば、聞こえると言う事ですね。言ってる通りに聞こえる。そうすると、そうなると問題が起きない様になってるって事、知ってるでしょう、皆さん。どうですか。

相手がどの様な事を言っても、その言ってる通りに聞こえるだけで居る分には、問題が起きないのでしょ。そういうので何か判り辛い人いたら、ちょっと手を上げてみてくれる? 大丈夫ですか、大体。問題が起きるのは、その聞いた事に対して、自分の思いや考え方や、そう言うものをつけて、何を言ってるんだとか、私にそう言う言い方は無いじゃないかとか、色んなものをつける。そう言う風になると、そこから色々問題が起きるのでしょう。

ところが、見事に枯れ木になってると、相手が喋ってる通りこれが活動する。そう言う事が枯木龍吟なんですね。決して聞こえない訳じゃない。言ってる事が分からない訳じゃない。ちゃーんと分かりながら、何にも問題にならない生活が出来るほど、飛び抜けた生活者に変わる。そうでない人はちょっと何か自分に気に入らないらしい話を、こう向けられると、顔色が変わったり、色々動くでしょう。その時の自分をよく見てみると、必ずここから芽が吹くんですね。死にきってないですね、芽を吹く。

だけども、耳と言う道具はですね、どんな酷い事を聞かされてもですね、一切芽を吹かないものですね。不思議な道具ですね。言われる通りにただ音が入って来るだけです。聞こえるだけです。それで、本当は足りるのでしょう。言われている通り聞こえたら足りるのでしょう。もし、言われた事にもっと色んなものが、聞く時に付いてきたら、それは相手が言ってる事と違う事が入って来ますから、正確なやりとりが、会話が出来なくなるじゃないですか。それで、皆さん日常困っているわけでしょう。もう一度自分自身の周りの生活を、こう振返ってみて下さい。こういう風な過ごし方をしてみたらどうですか。それが正しくものを聞くという事でしょう。

ところが人間は詮索するのが好きですからね。ああ言ってるけど、本当は違うんじゃないかって言って、自分の探りを入れてですね、聞きなおす。自分流に自分の好きな様な、都合のいい様な聞き方に、知らずに変えて聞いてる。それはまずいんじゃないですか。失礼な事してるって言う事じゃないですか、相手に対して。そう思いませんか。

修行って特別な事が有るわけじゃないですね。そんな身近な、毎日皆さんが生活してる真っ只中に、この様な在り方があるじゃない。こう言うの修行してると言うんじゃない。一番簡単な事でしょう。相手が言ってる通り聞こえるから、それだけで居るって、こんな簡単なのは修行のうちに入らない位簡単な事のはずです。だけども一人ずつ当たってみると、こう言う風にして生活してる人は万に一人位。何ででしょう。全部自分勝手な聞き方してるんですよね。だからこうやって、枯木龍吟と言う様な事が問題にされる訳ですね。本当に自分自身の見解が止まって生活してる。その時の素晴しい活動をしてるって言う事が問われてきた。

今の処はそう言うものを受けてるのね。「かくのごとくなる、枯木の長法身なり、枯木の短法身なり。」と言う事は、本当に相手が喋っている時に、喋っている通りになる、大きな声で喋れば大きな声に、小さな声で喋れば小さな声、長い文章で喋れば長い、短い文章喋れば短い様に、そう言う風に必ずなると言う事です。長法身短法身、否応なしにそうなるんでしょう。

その次に「もし枯木にあらざればいまだ龍吟せず」とこう言う風におっしゃっておられる。もし自分の見解や何かが本当に死に切らなかったら、この様に正しくものは伝わらない。「えー?」「えー?」って言うんじゃないですか。お茶一杯飲んでもそう。色々な体験があるから、そう言うものを通して、今味わっているものに対して色んな評価をつける。そう言う風になると、今頂いているお茶の味から遥かに隔たったものになってく。本当にお茶の味に触れるんだったら、只その通りが、触れている味だけで居る事が、一番正しく味わいを味わっていると言う事になるんじゃないでしょうか。

枯木でなければ、だからもし枯木にあらざれば、そう言う事が展開されない。「いまだ枯木にあらざれば龍吟を打失せず。」本当の力のある人が生まれて来ない。本当に力の有る人って言うのは、自分らしいものを一切持ってない。65とか70近くで定年退職になって、今まで相当な地位で社会的な貢献をしてた立派な肩書きのある人達、タイプとしては幾つか有る。一番な極端な事を言えば、退職する前の肩書き地位、そう言うものを退職してもいつまでも握っているタイプですね。これ厄介ですね。「あんた、そこのドブ浚え」って言うと、ムカッとするんですね。「こんな若いやつに俺が何で言われて、こんな事をしなきゃいけない」ってそうなるんですね。ものを持ってると。非常に、この何だろう、扱いにくいですね。

でも力のある人はですね、知らない事がそこで行われると、子供にでもですね、「オイそれ如何いう事だ」って、ちゃんと頭を下げて聞く力を持ってる。抜群の力ですね。世界で名を馳してる位の人でもですね、その位になると、そう言う柔らかさを持ってる。だからやっぱり世界に名を馳す様になるんでしょうね。ひとつも偉ぶったところが無い。こう言う風に枯木ですね。そう言う風になると、人が育つんですね。まあ身近な例としては、そう言う事があるのでしょう。

「幾度逢春不変心(幾度か春に逢ひて心を変ぜず)は」今ずっと述べてきた様に、色んな事が、生活してるとあるけれども、自分の思ってる事とは全く違った様な、色んな事が降りかかってきても、それによって心がかき乱されたりして騒ぐ様な事が無い、穏やかな生活の出来る人ですね、いいでしょう。「渾枯の龍吟なり」すっかり枯れ切っている、どっか一部に未だ生きてるようなものがあると、そっから芽を吹くけども、本当に全身枯れ切ってる。だから枯れ木って、そういうもんでしょう。

涅槃と言う仏教用語がありますけども、涅槃は人が死んだ事ではないですね、本来は。だけども似てる。人が死んだのと似てる。だから涅槃と言う言葉が人の死んだ事を表す言葉として、今辞書など引くと、そう言う訳に使われてる。人が死ぬとどうなるか。皆さんご存知でしょう。頭を一つ二つ叩いてもですね、ウンともスンとも言わない。また亡くなった人を叩く様な事はないでしょうけども。お花取替えた時に、顔に水がかかってもですね、この野郎ともなんとも無い。不思議ですね、死んだ方ってそうなのね。それは枯木と言われる所以でしょう。それが生きてる時に行われるから涅槃なんでしょう。死んでから行われる様じゃ役に立たないね。生きてる時その位の力がないと。

ちょっと後からつつかれた位で、人生がひっくり返る程腹の立つ人いるからね。測量して、隣の人の境、揉めるじゃないですか。10センチこっちだとか言って、何センチだとか言って、それで大変な事になる。まあ色々面白いですが、皆さん方が「幾度か春に逢ひて心を変ぜず」穏やかに居るかどうか、穏やかでない方は、自分の内容がどうなっているか。波風が立つと言う事は、芽を吹くと言う事でしょう。問題がそっから発生すると言う事でしょう。

じゃ問題が発生するって言う事は何かって言ったら、一言で、人の考え方ですよね。生活してて、色んな事が問題になるってのは、皆自分自身の中で思い起こした考え方が自分を苦しめてる事は、もう百も承知でしょう。他の人は絶対やらないですよ。他の人がやらないですよ。「あ、あいつあんな事言ってる」って、そう思うのは私です。私がそうやって思って、自分の中で嫌なやつだなって、そうやって思って、どんどん変えて行くんです。向こうは何もしてませんよ。だけど、向こうが私にそうさせたと思ってるじゃないですか。違うでしょ、それ。

よーく見てください。自分が有りもしない事をそうやって、その事に関して、そう思ったでしょう。向こうの人に聞いて御覧なさい。そう言う事思ってるかって、「エー何?」って言われますよ。全然思ってない。私が一人思っただけですよ、それに対して、見たものに対して。それが人の心を騒がしてるでしょう。何だそんなやり方してって、探して騒ぐのでしょう。

じゃそれをつけずに、実際に活動してる、行動してる活動だけに、こうやって目を向けて御覧なさい。そうすると、そう言う厭らしいものは何にも付いてないで活動してる。それもよくわかるじゃないですか。そこら歩いててもそうでしょう。綺麗だとか汚いだとかって言うのは、風景に綺麗とか汚いって言うものが付いてる訳じゃないじゃん。見た人が自分の何を中心にしてそれを見ている中で、自分ではそれを綺麗だとか汚いとかって評価してるのでしょう。それと実際に今触れている風景は違うでしょう。

そう言う事が日常修行してる人の在り様なんです。どっか他所で修行するんじゃないですよ。今生活してる真っ只中に、そう言う自分の見解を本当に離れて、その事でこうやって生きてるか。やっぱり従来の様に自分の考え方を中心にして自分の見方を中心にして生きてるか。もし自分の見方を中心にして生きるんだったら、修行にはならないでしょう。ものの本当の在り様がどうかって時に、自分のものの見方をつけないって言う事が、正しく見たり触れたりする事の出来る、唯一の道じゃないですか。ありのままにとか素直にとか、正直にとかよく使ってます。子供にも教えて育てるのでしょう。嘘をつかない様にと。過ちを犯さない様に、ね。まあそんな様な事がこうやって、「幾度か春に逢ひて心を変ぜず」。

次のところのこの「宮商角微羽」こんな漢字が五つ並んでいますけども、音楽を詳しい人は、ドレミファソラシド、八音階か七音階、これは五音階なんですね。そう言うものを「宮商角微羽」って言葉で表してるね。下にも何か書いてあるでしょう。26 中国音楽の基本音て書いてありますね。中国の唐代の何かね、尺八とか色んなものにある様ですよ。コウショウフ、大工の工にですね、一尺二尺の尺で、ゴンベンの普くという字を書いて、工尺譜って言うんですね。まあそう言うものがあるようで。音だと思ってくれれば良いでしょう。そんなに難しいこと言わなくても。

群れずとある、「不群なりといへども、」微妙なんですね、音って、ねえ。どの位その音の階、階律って、律呂ってありますね。律呂。それも音でしょ。旋律の律ね、律。呂は僧侶の侶の人偏の無いやね、口かいてノ書いて口書く。例えば八段階であろうが五段階であろうが、その間に半音とか色んなの一杯あるじゃないですか。あれでさえも、まだ当たらないじゃないですか。尺八なんかはその、息の強弱で微妙に音が違ったり、それから指をちょっと震わすだけで音律が微妙に違ったり、そう言う様な音が一杯あるんですね。まあそう言う様な事が、こう不群といわれる様な事じゃないですかね。当てはまらないって言う事でしょう。人間が決めて、こうだって言う中に納まらない位、面白い働きをしてるって言う事じゃないですか。

だからピアノ教えてくれる先生なんか、私のとこも、小さい子供がいたころ、近くの先生の所へピアノを習いに行ってた。私も時々連れて行くから、帰るまで一緒になってそこで過ごしてると、「もっと悲しく音をだしてごらん」って言うんですね。悲しく音を弾いてごらん。楽譜は同じですよ。それを悲しい音にしなさい、楽しい音にしてごらん、不思議な面白い事を言う先生だったねエ。そんな事を思い出す。

いずれにしても、「宮商角微羽は龍吟の前後二三子なり。」どの音もそう言う格調に合わなくてもですね、真実の音に違いないじゃんね。それはもうその通りですよ。今音がしてるんだもの。そのドの音から外れてるって、あなた音痴だって言われるかも知れませんけど、ドから外れていようが、真実其処に今音が出てるんだから。どの様な事でもそうでしょ。自分の気に入る事だけが真実じゃないでしょう。そう言う風に言ったらよくわかるでしょう。正しいと思われる事だけが真実じゃないですね。酷い事もありますね。

要するに、この今あるもの全て、嘘のものは一つも無いでしょう。実際こうやって、只、自分自身の上からそれを扱うと、自分にとってはそれは不要なものであるとか、気に入らないものであるとか、大事なものであると言う風に、評価をしてものを見てるから。だけど、実際の生活は、そのどれもこれも抜き差しなしで、全部それを今自分の生き様として頂きながら生きてるじゃないですか。好き嫌いをおこして取り扱う前に。

眼だってそうでしょ。自分の好きなものだけが見える訳じゃない。そう言う風にこうなってる。そこまで行ったらもっと穏やかでしょう。そうすると捨てなくていいから良いじゃないですか。手をつけて捨てなくて。このままで生活が出来るじゃん。


龍吟  Ⅰ

音声はこちら ↓

龍吟_Ⅰ01
龍吟_Ⅰ02
龍吟_Ⅰ03
龍吟_Ⅰ04
龍吟_Ⅰ05
龍吟_Ⅰ06


龍吟の巻と書いてます。正法眼蔵、沢山、巻があるので、間違えるとですね、全部読み終わらないと、って思っている人が居るかも知れないけど、申し上げときますけど、一巻一巻で仏法の全てが説かれているのですね。そういうものなのね。一巻一巻で仏法の全てが説かれている。その時、その時、聴衆が居られて、その場で説かれたものが、一巻一巻になってい集るのですね。だから、途中半端な内容のものは、どこの巻にもありません。進んで行くって言う様な気配ではないですね。段々読んでると、理解が段々進んで行くって言う、そう言う様な勉強ではないです。一巻で完結です。

他の物に本当は用がない。それはそうでしょう。幾ら色んな、沢山音がするったって、コン!こうやって、その音で必ず、どんなに沢山、音したって、必ず、その音で、その音は他のものを借りなくて、聞く事が出来るわけでしょう、完璧に。音がどういう風になるかって言う事を。音に触れるとどういう風に人はなるか、音が止むと人はどういう風になるか。少し読んで、あまり時間が、もう無いかもしれない。

龍吟「舒州投子山慈済大師、因僧問、『枯木裏還有龍吟也無(枯木裏還龍吟有りや無や)』師曰『我道、髑髏裏有獅子吼(我が道は、髑髏裏に獅子吼あり』」

これがまあ、一つの勉強する教材として出されていますね。

「枯木死灰の談は、もとより外道の所教なり。しかあれども、外道のいふところの枯木と、仏祖のいふところの枯木と、はるかにことなるべし。外道は枯木を談ずといへども、枯木をしらず、いはんや龍吟をきかんや。外道は枯木は朽木ならんとおもへり、不可逢春(春に逢ふべからず)と学せり。仏祖道の枯木は海枯の参学なり。海枯は木枯なり、木枯は逢春なり。木の不動著は枯なり。いまの山木・海木・空木等、これ枯木なり。萌芽も枯木龍吟なり。

百千万囲とあるも、枯木の児孫なり。枯の相・性・体・力は、仏祖道の枯樁なり、非枯樁なり。山谷木あり、田里木あり。山谷木、よのなかに松栢と称ず。田里木、よのなかに人天と称ず。依根葉分布(根に依って葉分布す)、これを仏祖と称ず。本末須帰宗(本末須らく宗に帰すべし)、すなはち参学なり。」


その辺まで読んで。

ちょっと脚注を触れておきたいのですが、脚注の龍吟に対してのものが、「坐禅が枯木裏の龍吟である事を説く」って、脚注して下さってるんですけども、何故こういう風に脚注がなるのか、私はよくわかりません。ちなみにもう少し読んで行くと、4番目の所に、坐禅の時に煩悩を尽くして枯木死灰の様になるのを理想とするって、4番目の所のですね、枯木死灰の段は、って言うものにに対して、そういう風な脚注になっているのね。全部、坐禅の時、坐禅の時って言うんですね。坐禅以外の時は何で、どうしてこう言う、こんな風に学んだのか、私もわかりませんが、そんな事書いてないですよ、龍吟の処に。

或いは枯木死灰の段はって言う処に、坐禅の時って言う様には書いてないです。坐禅をしてない時は修行にならないのかしら。さっきも話した様に、そうじゃないでしょう。修行するって、必ず今を借りる、ここを借りる、この自分自身を借りる、この3つで修行するのでしょう。3つは別に分かれている訳じゃなくて、このものの様子を、此処とも言い、今とも言うのでしょう、そのものの在る様子を。そこで修行するのでしょう。坐禅の時だけじゃないでしょう。坐禅の時だけ本当の人間になるって、仏道にかなった在り様がある、そんな風に説いたら、祖師方が笑うね。そう言うことはちょっと注目すべきことかな。

で、「舒州投子山慈済大師、」投子って言うと、投子山に住んでいた投子義青と言う、仏祖の中に、歴代の正統の中に投子義青禅師と言う方がおりますが、その人とは別で、投子の大道と言う人の様子ですね。同じ山に住んだから、投子山って言う風に使うのでしょう。そこらはちょっと気をつけた方が良いと言うことですかね。人物が違う。いずれにしても、その老師とですね、そこに一人のお坊さんが居られて、こんな問いを発した。

「『枯木裏還有龍吟也無(枯木裏還龍吟有りや無や)』」後にも出ておりますが、枯木って言うのをどう言う風に理解しておられるか。一般常識としては、枯れ木って読むのでしょう。だから、朽ちた木と。道元禅師は、「外道は枯木は朽木ならんとおもへり」と書いてある。枯れた木、腐った木、朽ちた木、だから春になっても芽が吹かない。「春に逢うべからず」と言うのはそう言う事ですね。二度と芽が出て来ない。腐っちゃってもう。そう言うものを枯木って言う風に、ものを知らない人達は、同じ枯木をですね、枯木と言う文字を使って表現するんだけども、そう言う風に理解してるって言って、道元禅師が言っておられますね。

だからこの投子の慈済大師の尋ねる坊さんは、果たしてどっちかって言う様な事でしょうか。そう言う風に腐った木が芽が吹くかどうかって言う事でしょうか、龍吟。彼はだから、腐った木に、腐ってしまった木は芽が吹かないのじゃないかって、幾ら春になっても。
そう言う事があるでしょうか、芽が吹く事があるでしょうか、どうでしょうかって言ってるんですね。龍吟が別に、あの架空の、皆さんが描いてる、こんなになった奴がですね、ウワーって吼えるって言う事じゃないですよね。ここでは普通に言えば、芽が吹くかどうかって言う事です。

これは多分、だからそういう話がどっかであって、よくわからない、信じられないと思ったんでしょう。だって、枯れた木に芽が出てくるなんて事は、有り得様がない、どうして先輩達は枯木裏に龍吟て言う様な事を言うんだろうって、真意は何だろうって言うので、尋ねたのでしょうね。

で、それに対して、お答えが、「『我道、髑髏裏有獅子吼(我が道は、髑髏裏に獅子吼あり』」髑髏ってしゃれこうべの事ですか。骨って言っていいのかね。あなたそんな事尋ねるけども、このものが今こんなにちゃんと、生き生きとしているんじゃないかって、こう言ってるんでしょう。あっちの方に生えてる木の話をしてるけど、何を寝ぼけた様な事言ってるんだって、言うのでしょう。

私達が勉強するのは、この事を勉強するんでしょう。違いますか、勉強するって、何か向こうに有る事を勉強するんじゃないんでしょう。隣の家の、家がどの位金持ちだとかって、そんな勉強するわけじゃないでしょう。あすこの家が夕飯何食べてるんだろうと、そんな話をするわけじゃないでしょう。こうやって、このものを勉強するんでしょう。坐禅だってそうでしょう。他の人が坐ったらどうなるかって言って、勉強してる訳じゃないでしょう。

「我道、髑髏裏有獅子吼(我が道は、髑髏裏に獅子吼あり」ですよ。本当にこのものに用がある。そしてこのものが、こんなにちゃんと生き生きした働きをしてる。

それでまあ、それはさて置いて、道元禅師がそれを扱って、先ず「枯木死灰の談は、もとより外道の所教なり。」
人間の考え方や何かが人を苦しめてるって言うのも一応わかるもんだから、そういうものがすっかり無くなってしまえば、人は苦しまないって、そう言う風に思ってるもんだから、丁度木が枯れて、人が死んで焼かれて灰になる。そうすると一切そこから問題が生じないって、そう言う風な有り方を、多くの人が修行の出来上がりとして話してるのでしょう。

どこがじゃあ祖師方仏祖方と違うのかって言ったら、この人達のこの話の内容はですね、本当に枯木の様になった事がない。死灰の様になった事がないにも拘らず、自分の中で枯木になったら、灰の様になったらって言う想定の中で、話が進められているって言う事です。だから同じものを扱っている様だけど全く違うって言う事でしょう。その実を知らない。

次にも出てくるけど、「しかあれども、外道のいふところの枯木と、仏祖のいふところの枯木と、はるかにことなるべし。」見てきた様な嘘を言いって言う様な事があるじゃないですか。言えるんですよね、見てこなくても。自分が本当にやらなくたって、人の話を聞いて、そう言う事を概念の上で、観念の上で取り扱う力が有りますから、皆お互いに観念の上で取り扱ってるから、
「ああ、そうだね」って言って思い方で理解が行けば、納得するのでしょう。

じゃ本当のものを見たのかったら、「いいえ」って。じゃそれは、そう言ってるものはどう言う事を言うのかって、突っ込まれたら、やっぱり分からないのでしょう。そう言う事が仏祖と外道の違いでしょう。だから、「外道は枯木を談ずといへども、枯木をしらず、いはんや龍吟をきかんや。」皆さん方が本当に自分の考え方も何もかも全部離れきった時に、パン!(両手で打つ)こうやってやると、何故そう言う風に芽が吹くのでしょう。この外道の枯木は芽が吹かないのですよ。枯木だから、死灰だから。皆さん方はこの生身でですね、本当に自分の心意識を離れて生活して言る時に、パン!って言うと、すぐその様に、パッとそこに芽が吹くじゃないですか。

不思議ですね。普通の木と違うんだ。普通の枯れ木と違う。日本で言えば、花咲か爺さんですよね。枯れ木に花が咲くじゃないですか、灰をパーってやってやると。面白い話ですね。外道は先も読んだ様に、「外道は枯木を朽木ならんとおもへり」その内容を点検してみると、ものがわかってない人は、枯木って聞いたら、腐っちゃった木だって、そう言う風に理解してるって。だから、「不逢不春と学せり。」春になっても芽が吹かない。そう言うものを枯木だって言う風に理解してるとおっしゃってる。

ところが「仏祖道の枯木は海枯の参学なり。」ちなみにこれ(コップ)が海だとして、ここにお茶が今入ってますが、海水、これを全部飲み干すとですね、(お茶を飲み干される)海水が全部無くなるとですね、こう言う風に現れるんですね、海底が。海底が現れた時にですね、海水がはってあると海って言うんですけども、海水が無くなった時に現れてるのはですね、海底とは言われない。言わないでしょう。そこら辺歩いてるのと同じでしょう。こうなっただけでしょう。此処(頭を指して)はさっきまで水が有ったもんだから、それが無くなったからって言って、そう言う見方をするのでしょう。

それは、現成公案なんかにも使われている様に、一本の木が植わってたものを、こうやって鋸で切って、こうやってやると、さっき迄立木だったのを、どうしても立木がこう言う風になったとしか見ないじゃないですか、人間て。それ普通の見方ですよ、誰しもやってる。だけども、自分の眼で見てみると、こうやって切り落としてなった時に、立ち木はどこにも無いんですよ。どんなに探してみても、さっき立ってた木はどこにも無い。見当たらない。あるのは今こうやって薪になってる様子だけです。道元禅師にはそう見えてるんですよ、勉強してる、修行として。

私達がひょっとすると間違う勉強は、先程のものちゃんとここに(頭)持ってて、それで今こう言う風に変わったって言う風に見てるんですね。それは眼に学んでないよね。わかりますか。どっちが本物ですか。皆さん方、体験として。木が有って、ポンポンポンと切って、そしたらきった途端に、先程の立ってた木はどこにも無くなっていくんですよ。あるのは切られた様子だけがあるんですよ。それが仏道を修行してる人達の今の在り方です。
そう言う風でないと修行しているとは言わないです。だから日常生活でもそうでしょ。

どこが違うかって、先程までって、先程までああだった、今こうだって、そう言う風にして扱ってるから、皆さん厄介なんでしょう。引っかかるのは必ずそうでしょう。さっきまでこうだったのに、今こうだって言って、何でこうなったって言う風になるんでしょう。現実には先程のものと今のものが、此処で一緒になる事はないんですよ。絶対にないんですよ。先程のものと今のものが一緒にならないって事は、どの位人を楽にするか。手をつけてどうかする用がないじゃないですか。それだけだから、何時でも。手をつけてどうかする用がないでしょう。

こう言う処に海枯、海枯れると言う事があるんじゃない。ものの見方をそこに残すと言う様な事があったら、海は枯れないな。先程まで、海水が有ったと言う風なものの見方が、今水がすっかり無くなっている所を見る時に、そう言うものの見方が、必ずあるじゃないですか。だけど眼は、先程まで例え水が有ったにしても、今本当に水が全部無くなったら、どう言う風に見えるかったら、さっき水があったものが無くなったって言う風にみえるってことは無いですよ。そこら辺はわかりますかね。ここが違うんです。こう言うものを仏祖の枯木は海枯の参学と言うんですね。

「海枯は木枯なり」本当に先程見てた物がすっかりなしに、今の様子だけでこうやって居ると言う事です。それを枯れ切ったと言うんです。そうすると、そこからは、あーだこーだと言う芽は吹いて来ないです。それ位仏祖方は枯木と言う。だから仏祖方は枯木は春に逢うと言うんです。そこまで行くと、本当に真髄に触れて、ものの真相がよくわかって、一方はこう枯れて朽ちちゃったもんだから、時が来ても一向に目が出て来ない、使い物にならない。一方は本当に枯れ果てると、自由自在に活動できる力がある。この違いですよね。

「木の不動著は枯なり」動著せざるのは、そのものがそのものとして、本当に微動だにもしないほど、他の物が一切寄り付く事が出来ない、介入する事が出来ない程、孤峻、孤高。皆さんが今自分で、こうやって各自見てる時に、他人の見てる様子が一切介入して来ないでしょう。どうですか。こうやって物をみて、これだけ大勢の人が見てても、他人の見てる様子が一切こう自分の見てる様子の中に介入して来ないでしょう。滅茶苦茶に入って来る事はないでしょう。

どうですか、ありますか。こうやって、誰かが私の見方はって、こうやって、見てる時入って来て、よく見えなくなるなるなんて、そんな事はないでしょう。本当に自分の様子だけですよ。不動著ですよ。

「いまの山木・海木・空木等、」色んな所に木が生えているのでしょうかね。ここでは木って言うのは何を指すかったら、ものの真相を指すのでしょう。だから木の字はなくてもいいのでしょう。山、海、空、それを指す言葉なんでしょう。そう言う、そのものが本当にそのものとしてある、そう言うものを、仏祖方は枯木って扱っている訳でしょう。

今話したように、各自が自分の眼でこう見てる。人の何億の眼があっても、絶対他人の見てる様子が介入しない位、そのものがそのものとしてきちーんとしてる。それだのに、他人に聞かないと、何か自分の様子がそれで良いのかどうか不安な人が居るって、何でしょう。何か他の人の見てる様子聞いて、これで良いんだって、やっとそれで安心するタイプが沢山居るじゃないですか。

萌芽ってのは芽が出るって事ですね。「萌芽も枯木龍吟なり。」枯れた木だったら、芽なんか出ないはずなんですけどもって思うでしょう。芽が吹く木でも、枯木だって言うんですね。だから枯木の使い方がこんなに違うってのが、よくわかるでしょう。

龍吟はいいですよね。一番目の脚注に、枯木裏の龍吟である事を説くって書いてあるんだけど、龍吟て如何いうことか説いてない。不思議な脚注ですね。龍は吼えるって言う風に書くのかなと思ったら、そんな事は書いてないんだけど、龍吟て書いてあるんだけど、龍吟て如何いう事を言うのかって書いてない。まあまさしく芽が吹くと言うことでしょう、木だったら。

「百千万囲とあるも、」って一抱えもある木とかさ、三人で手を回さないと回らない大木とかって言う様な事でしょう。「枯木の児孫なり。」木が太かろうが細かろうがって、言っていいのでしょう。もうちょっと広い範囲で読めば、誰でもと言う事になるでしょう、ね。木だと何か向こうの事の様に思うじゃないですか。自分のことと別なものを扱ってる様に思うじゃないですか。こうやって何かそこらに生えてる木の事の様に思うじゃないですか。そうじゃないですよ。このこと(ご自分を指す)を扱っているんですよ、枯木って言うことは。この事がどう言う風にある状況を枯木と言うか、って言う風に扱ってるんですよ、仏祖方は。それが読み取れないと、この話は全然別個、ほんとに自分抜きで、あっちの木は枯れてるとか言う話になっちゃう。ああ全然問題外、ね。誰でも、本当にこの自分自身を相手にするのでしょう、生涯。

「枯の相・性・体・力は、」色んな内容があります。姿とか働きとか、身体の様子とか、力とか色々ありますが、「仏祖道の枯樁なり、」間違えるとこの字は椿と言う字に似てる。樁の字はね、中が臼ですよね。日じゃなくてこれは書き写す時に、多分間違いやすいんですね。枯れぼっくいと言う風に訳されてますね。枯樁。本当に一度、自分の心意識ってものがすっかり取れ切った、そう言う風になると、物凄く面白い活動をするんじゃない。我見が無くなっただけで、見て御覧なさい。皆さん自分自身で。

調停員をやってる様なおばちゃんが、今日も会ったんだけど、言われる様に、人の話をこの頃やっと聞ける様になったら、回りの人から、人相が穏やかになってって言われる言ってます。何か喜んでました。で、自分は人の話を本当に聞いてなかったって。頭が良いから、これは用のある話、これはどうでもいい話って言って、入って来る時に、ちゃんとそうやって聞いてるんですね。そう言うことじゃないってわかって来た。それを分け隔てなく全部その通り聞く様になると、自分で気づかなかった事一杯ある、恥ずかしくなるって言って。こんな、こんな聞き方をしてた。調停員だから、本当の言い分をちゃんと聞いてしなきゃならない人でしょ。それだのに、自分ではちゃんと両方を意見を聞いてやってるつもりが、こんないい加減な聞き方をしてたって言う事に、きづいてるのね。面白くてしょうがないって言ってます、この頃。坐ってる。

「非枯樁なり。」非って言うと、何か否定をされる様だけども、非の字は何だろう、人間の思慮分別の及ばない世界を表すのでしょうね。非とか不とか無とか、禅宗の書物には沢山使われてるけど、あれ否定のものじゃないですね。不とか非とか無とか。そう言う風に読んで頂いたら良いと思うね、非。

山合いにある木あり、田畑のある様な里にある木もあるって言うんでしょう。「山谷木あり、田里木あり。」で、山や谷にある木の中には、松とか柏とかって言うって言ってます。で、田んぼや里にある木には「田里木、よのなかに人天と称ず。」人里に生えてる木を人天と称ず。我々は木なのかって、人里に生えてる。こう言うの読んでみると、先程言った様に、枯木って言うものが、この各自、自分自身の事を本当に指してるって言うのが、よーくわかるでしょう。

「依根葉分布(根に依って葉分布す)」それはそうでしょう。根によって葉分布す。樹木ってそう言うものでしょう。木を育てて大きくしようと思ったら、根をしっかり張りさえすれば、自ずから上は繁るように出来てる。仏道もそうでしょう。自分自身の根幹を自分でしっかりと養うって言うか、真意を本当に自分で把握するって言う事が無ければ、幾ら上で色んな勉強をし覚えたって、役に立たないじゃないですか。頭でっかちになるだけじゃないですか。そうなると枯れるんだよね。葉っぱと根っこのバランスが悪いと枯れるの。

農業をやってる人なんかはだから、雑草を枯らすのにですね、分決させるものを田んぼに撒く。そうすると、根っこと上の葉っぱのバランスが悪くなって、耐えられなくて枯れるんですね。そう言う、あれも農薬って言ってるんだろうけれども、人体には殆ど害が無い。要するに、自然の理を使って、草が枯れる様なものを作ってます。「これを仏祖と称ず。」根によって葉分布す、これを仏祖と言う。

仏祖方はその様に、自分自身の真相を本当にしっかりと明らめて、そうやって生活しているから、この様に正しい事がずーっと教えられ、伝えられて、行くって事でしょう。そう言う人たちなんですよ、仏祖って。ただ単に物知りとか言うのじゃないですね。上をちょん切られても、根が生きてると又芽が幾らでも出て来る。それ位凄いもんですね。

だから弾圧、そう言うものに遭っても禅宗ってのは残って来たじゃないですか。書物を全部焼かれて、勉強した、解説をした様なものも全部取上げられて、修行をする道場としての建物も壊されて、教団としての組織も壊され、全てそう言う酷い法難に遭っても、禅宗が生きて来たのは、これ(身体)だけで、守れたんでしょう、仏法の真意を。これがちゃんとしさえすれば。そう言う人を育てたのでしょう。そう言う中で、道元禅師も出合いがあって、こう言うものが残される様になったんでしょう。

「本末須帰宗(本末須らく宗に帰すべし)、すなはち参学なり。」本当に仏教を学ぶって言う事は、ここに用があるわけでしょう。枝葉を学ぶのじゃないでしょう。自分自身の真相、本当の在り様がどうあるかって事を、自分自身で触れて、心底納得のいく、そう言う事が学ぶって言う事なんでしょう、何を学ぶって言ったら。それ以外のものは記憶すると言っていいでしょう。学ぶって言うんじゃなくて。どっかにこう書いてあるとか、誰かがこう言ったって読んだり見たりして、記憶するだけじゃないですか。学ぶんじゃないよね、あれはね、殆ど。誰かが質問すると、そう言うものに対して、こう言う答えがあるって言うのがすっと出て来る。そう答えたからって言って役に立たないじゃないですか。何故かったら、そっから先つつかれたらですね、書いてある事しかこの中に無いから、それから先が出て来ないんだよね。落語じゃないけどね。

こうやって何人か並んで、里芋が、煮っ転がしが出てきた。大家さんが、こう何人か連れて行って、ワシの言う通りやれば間違いないって、まあ座んなさいって言われたから、出て来たのを、大家さんがこうやって食べようと思ったら、こうやったら、つるっと里芋が落ちた。そしたら隣の人も同じ様に真似た。そう言う落語がある。次々に真似た。最後の人はどうしたらいいかって、誰にも学ぶ人が居ないから、最後の人は転がったまんま。そう言う面白い落語が或るけども。

一般に、頭の中に無いもの、知らない事は答えられないですね。だけど自分の真相を本当にこうやって知った人は、人から別に学ばなくたっていいじゃないですか。丁度皆さん方が海外旅行でも何でもいいけども、して来たらですね、どうでしたかって言われた時に、自分が体験した事は無限にあるから、誰からも聞かなくても、どんなに話しても尽きないでしょうが。わずか一日位、そう行っただけでも、そこの話が。そう言うもんでしょう。だけど何処かに書いてあった、写真を見たり、文章を読んだり、人の話を聞いた中では、覚えてるだけの話しか出来ないじゃないですか。それからどうなんだって云われたら、それからは知らないって言うしかないじゃないですか。そう言うのは根幹を学んだって事にならないでしょう、ね。

「本末須らく宗に帰すべし」って言う様な事が、私達のものの学び方なんじゃないですかね。