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他心通 ⅩⅡ

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 「たとひ三蔵おのれが眼睛鼻孔を保任せんとすとも、もし国師きたりて鼻孔眼睛裏にいらば、三蔵の鼻孔眼睛、ともに当時裂破すべし。すでに裂破せば、国師の窟籠にあらず。」自分自身の事だから、本当に自分自身の真相にこう触れて、なるほど本当にって、はっきりしましたって言う力が得られたら、自由な分になるでしょう。力が出るでしょう。人間に目や耳や色んな物が付いて出て来るんだけども、その目や耳や色んな機能が付いた物があって、身体が世の中に出て来て、縁に触れると、皆それが活動し始めて。親から教えられたり、先輩や其処に居る、社会に居る人達から色んな物に学ぶって言うのは、今やれてる事に対する概念の世界ですもんね、皆学んだのは。ね。花を見てるって、是が花だって言う風なのは、そう言う概念を後で学ぶんでしょう。ああ赤い色だとか白い色だとかって、概念を学ぶのでしょう。その前は何色って言う風な事がないんだけども、その通りになってる。何を見てるって言う事は無いんだけど、必ずその通りになってる。人から一切学んでない。一切人から学ばないのに、皆きちんとしてズレた事が一つもない生活をしてる。それに対して大きくなると、その自分の真相に対して、どういう風に表現するのかって言う様な概念の世界があるから、それを学んでそこへくっつけると、物が理解されたって言う風に思ってる訳じゃん。で、時が段々経つと、今度は実物を抜きにして概念だけを学ぶと物が分かった様に思う様になってきたじゃん。此処に落とし穴があるじゃない。見れども見ざるが如しって言うのはそう言う事でしょう。聞けども聞かざるが如しって言う事は、そう言う事でしょう。実際に聞いているんだけど、実物に出会ってないって言う事が、言語の中ではあるんじゃないですか。だからはっきりしないのでしょう。写真を見て、本当にそこへ行った様に思うんでしょう。だけどよく知ってるでしょう。これはあなたが行った所のあれですかったら、いや写真て。それ位自分は誤魔化せない様に出来てる。写真は写真で良いけど、実物を本当に見たか見ないかでは、全然違うのね。仏道ってそう言う世界ですね。それ程確かな。
 「五位の尊宿、ともに国師をしらざるなり。」と総括しておられます。「国師はこれ一代の古仏なり、一世界の如来なり。仏法正法眼蔵あきらめ正伝せり。木槵子眼たしかに保任せり。」木槵て、むくろ樹と言うんですね。目薬にも使う。目の黒いうちはって言う事で良いかしら。生きた眼と言う事で言っていいでしょうかねぇ、訳したら。木槵子眼って言うのは。これ皆誉めてるわけですね。慧忠国師の事を道元禅師がべた誉めに褒めてる。「自仏に正伝し、他仏に正伝す。」自分の眼がはっきりすると、全ての物が、不思議だね、どうもしないのにはっきり見える様になる。「釈迦牟尼仏と同参しきたれりといへども、七仏と同時参究す。」時代的にはそう言う事でしょう。どんなに沢山の先輩達がいようとも、今ここで同じ内容を同じ様に勉強してる、学んでいると言う事です。何時の時代の祖師方でも、学ぶのに必ず自分の今の様子に参じたんですねぇ。七仏と言われる過去の仏も、釈迦牟尼仏と言われる人も、必ず今の自分自身の身心の様子に学んだんです。それ以外の学び方が出来ないのです。「かたはらに三世諸仏と同参しきたれり。」同参、同輩、仲間、一緒に。時間は隔てがあるかもしれないけど。「過去現在未来の諸仏共に仏となる時は必ず釈迦牟尼仏となるなり。」言う様な事が、修証義の中に、眼蔵から取り出した文章が上げてありますよね。必ず釈迦牟尼仏となるんです、過去現在未来の諸仏、仏となる時は。本当に物を学ぶ時は、必ず今の自分自身の様子に参じて、そして物がどうなってるか、はっきりさせる以外には無い。だから修行する時に他所に向かう所は無い。もう。この一点で決まってる、修行するのに。他処には絶対に行かない。此処まで人が自分の歩む道がはっきりするのに非常に時間がかかるんですよ、今。現代。教えが一杯あるために、あちらの教え、こちらの教え、歩いていますけども。これもう間違いないでしょう。迷える子羊って言うかもしれないけど、迷ってる人達を先ず本当に、此処に立たせる必要があるじゃないですか。今此処に居る自分自身の様子に。今ここに居る自分自身の様子に用がると言う事。他で迷った事無いでしょう、皆さん。 
 他の所で何か問題が起きた事無いでしょう。必ず今こうやってる所で、物に触れたり、聞いたり、見えた物、味わった物、色んな物に触れた時に、ここで自分の中で問題が起きるんでしょう。それ何かって言ったら、もう一言押して言えば、人の見解に渡るって言う事の方で問題が起きたのでしょう。だから事実に参ずるって言う事が仏法の正当な在り方じゃないですか。仏法と言うよりも、物を本当に学ぶんだったら、必ずその実物に学ぶ以外にその実物の様子がどうあるかって言う事は知る事は出来ないじゃないですか。その他のものでは。推測は出来ますよ。色んな物をやってみて、ああやってやるとこうやってやると、多分あれも、これもこうだから、多分これもこうじゃないかって、そう言う事は出来る。だけど本当にその事がどうなってるかを知りたかったら、その物に依る以外にないじゃないですか。しかもその時にしかその時の様子が無いから。これを只管打坐を言うのでしょう。ひたすらでしょう。もう他にやることが無いんだもん、しょうがないじゃない。だけど見て見ざるがごとしで、そう言う様子に坐らせて只管打坐って言っても、只管打坐坐ってれば良いって言う様に、放任して他人事の様にしてただこうやって居る様な坐禅になったら、そんなの只管打坐でも何でもない、ね。
 「空王のさきの成道せり、空王ののちに成道せり。正当空王仏に同参成道せり。」色んな時間帯を挙げてありますけども、さっき挙げた様に、「過去現在未来の諸仏ともに仏となる時、必ず釈迦牟尼仏となるなり。」釈迦牟尼仏となるって言う事は、そう言う風にして、今の様子に本当に自分が居る時の様子にお釈迦さんて成ったから、それがはっきりしたのでしょう。「国師もとより娑婆世界を国土とせりといへども、娑婆かならずしも法界のうちのあらず、尽十方界のうちにあらず。」娑婆って私達が住んでる世界ですかね。忍土とかって訳すのでしょう。何でヤクザの人達が娑婆って言う様な言葉を使っているのかね。よく使うんでしょう。仏教用語ですよ、言っときます。凄い大事な言葉なんだけど。耐え忍ぶ。この慧忠国師もこの世の中に生を受けて、この世の中で生活をしておられる。だけどもそう言う中におりながらですね、「娑婆かならずしも法界のうちにあらず。」人間の決めた宇宙とか法界とか世界とかって言う様な小さな世界には居ないと言う事です。無限と言う世界を作ったりするんですよね。ねぇ。不思議ですねぇ。隔ての無い世界って言うのを作るんですねぇ。人間て面白いね。絶対隔ての無い世界ですって言っちゃあ、隔てを作るんですよね。相手の本当に無くなった世界ですっていって、そう言う世界を作って認めさせるんですよね。そう言う事と違うと言う事です。
 「釈迦牟尼仏の娑婆国の主なる、国師の国土をうばはず、罣礙せず。」お互いにこれだけ人が居るけども、この円通寺さんに置いてもらった時、一切人の邪魔にならないで、見聞覚知こうやって今居る。私が此処で喋ってるものを聞くのに、誰も隣の人が邪魔にならないで聞ける。隣に人が居るのに、物を見るのにこんなに自由に見れるって。同じ物を見てても争いが起きたり、ちょっと止めてくれって、私が見てるんだから、あんた見ないでって言わないで大丈夫なんですね。邪魔にならないんですよね。やってみるとそうなってるでしょう。面白いね。考え方は違いますよね。邪魔になるんですよね。うるせえーなぁって。また、あいつって。
  「たとえば、前後の仏祖おのおのそこばくの成道あれども、あひうばはず、罣礙せざるがごとし。」月の水にうつるがごとし、つきぬれず水やぶらずって言う様な表現を道元禅師がしておられるでしょう。実に上手いねぇ。「前後の仏祖の成道ともに成道に罣礙せらるゝがゆゑにかくのごとし。」罣礙せらるゝって言うのは、その時にその事によって他の事が出て来ない様子を罣礙せらるゝと言います。邪魔をされると言う事、塞がれると言う事ですね。赤い花を見てる時に、赤い花だけになって白い花がそこに出て来ないと言う事でしょう。ねぇ。だから何時もはっきりしている。もう一行位読んどくと良く分かる。「大耳三蔵の国師をしらざるを証拠として、声聞縁覚人、小乗のともがら、仏祖の辺際をしらざる道理、あきらかに決定すべし。国師の三蔵を叱っする宗旨、あきらめ学すべし。」今道元禅師がずーっとやって来た事はこれにつきる訳です。お釈迦様達が本当に自覚をした境涯って言うものは、こんなに素晴らしい内容だけども、後継者として後を継いだ人の中に、まだ不徹底な場所が時々出て来るから、そう言うものを見過ごさないでしっかり眼を開けて勉強して欲しいと言う事ですねぇ。あの間違えると良くあるじゃないですか。立派な人だからって、もう鵜呑みにしてしまう。あの人の言ってる事だったら間違いないって、その位の事があるじゃないですか。本当に学ぶのは、どんな立派な人がやった事にしても、自分でもう一度確かめてみるのでしょう。そうじゃないですか。そう言う勉強じゃないですかね。こうやってパン!聞いてごらんて。自分でもそうやって聞いて、何回でも聞いて、見て、本当に祖師方が言われる様になってるのか、なってないか。パン!そうやって勉強するのでしょう。
 「いはゆるたとひ国師なりとも、」こうちゃんと書いてある。私が言わんとする様な事は。例え国師なりとも、道元禅師がこれだけ褒め称えた慧忠国師であってもですよ、「前両度は所在をしられ、第三度はわづかにしられざらんを叱っせんはそのいひなし、」その謂れなし。「三分に両分しられんは全分をしれるなり。」本当に物をよく明きらめるって言う事はそうやって勉強するのでしょう。三つに分けたうち二つが不明ならば、結局全てが理解出来ていないと言う事がわかります。「かくのごとくならん、叱っすべきにあらず。」この様でなかったらと言う事ですかね。「かくのごとくならん、叱っすべきにあらず。たとひ叱っすとも、全分の不知あらん。三蔵のおもはんところ、国師の」もろと振り仮名してあるけど「懡攞なり。」もろと読むのかねぇ、ろをらと間違えたのかしらんね。「わずかに第三度しられずとて叱せんには、たれか国師を信ぜん。三蔵の前両度をしるぬるちからを持て、国師をも叱しつべし。」慧忠国師と言う方は、他の方と違って三度大耳三蔵に「汝道老僧即今在什麼処」って重ねて問われてるって言う事は、大耳三蔵の気が付かない処、全くよそ見をしてる処をつついてですね、注意をして、これでも分からないのかって言う位、三度も同じ事を繰り返してる訳ですね。三度も同じ事を聞かされても、分からないものは分からないんでしょうねぇ。
 かって臨済が、黄檗の所におられて、侍者和尚に仏法の大意を聞いて来いって言われて、黄檗の処に行くたびに、一回目も叩かれ、帰って来る。どうだったって、叩かれたって、もう一回行ってごらん、仏法の大意はって言って、又行ったら叩かれた。帰って来たら、どうだったって、いや又叩かれた、もう一回行ってごらんて、仏法の大意はって、又叩かれた。三度目は臨済も、何かどっか私に間違って悪い処があるんですかって、ついにそうやって黄檗に尋ねてます。それ位叩かれてもですよ、仏法の大意って言うものを示されていてもですね、そう思えないんだよ。叩かれてるとしか思わない、エー。気づかないんだよね。なんで叩かれるんだ、私は仏法の大意を聞いているのに、何で叩くんだ、仏法の大意とこれが何の関係があるかと思う位、ものが分からない人だったんだろうねぇ。臨済、かつて。皆こんな様な事があるじゃないですか。そりゃ、此処(頭)に描いてますからね。仏法と言うものを。
 だからこんな事やられて(物を示す)それが仏法の真髄だなんて思えないんです。そんなの普通にこうやったら、見てるだけじゃないかって思うだけですから。ねぇ。人間の考えってそう言う風にしか見ない。だから目が有っても、眼睛があるかないか、こうやってみせると良く分かる。何でそんな物見せるんだって言う人は、眼の無い人です。見ていながら眼の無い人。本当に見てないんだよ。見える事に用が無いんだよ。考えてる事に用があるもんだから、こうやって見せられても、何、それって言う風にしか見てない。絶対眼が無いですよ、それは。耳がついてて、こうやってコンコンコンコン(机を打つ)聞かせても、仏法の大意って言ってこうやってコンコンコンコン聞かせても、私の知りたいのはそんな事じゃないって、そう言う風に聞いてるから、耳が付いてても、耳の役が立たない。と言う様な事がずーっと道元禅師によって注意されておられる。皆さん方もやってごらん。全部自分自身の真相です、何もかも。他人の身体の中でやってる事、一切ありません。そう言う事で、此処までで終わっときます。




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正誤表


製本 「正法眼蔵 三十七品菩提分法」 の間違い箇所です。

              
               誤り          正

26ページ 4行目     観心不浄  →   観心無常




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