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井上貫道オンライン禅会を開催しています

2020.6.14 よりZOOMによる井上貫道老師の禅会を開始しました。
詳細はこちらのHPにあります。    井上貫道オンライン禅会

 内容は老師の法話と質疑応答です。1回目は法話30分質疑1時間で計1時間30分位でした。
ZOOMは通信環境が良く、臨場感があります。殆ど普通に話が交わされます。実際の坐禅会と比べてどうかは、まだ分かりません。その場に参加してる感、体験している感は格段のものがあります。
 
 コロナ時代の新しい禅会と言われた方がいます。結果は未知の領域ですが、老師のお話しは真実に迫って伝わります。
よろしかったら、体験をされて下さい。
 
原則として、ラインのグループに入って頂いて、其処で情報をお知らせする形です。下記の申し込みフォームからどうぞ。

井上貫道オンライン禅会申し込みはこちらから





 
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出家 Ⅳ

音声はこちら ↓
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で、一段其処終わって、大般涅槃経の中の一節が引かれてます。あまり難しい事は書いてないと思いますが、「仏世尊言はく、」仏世尊で一人の人ですね。お釈迦様と言う事でいいでしょう。のたまわく、どんな事を言ってるか。『若し菩薩摩訶薩是の思惟を作さん、』」どんな思惟、どんな物の考え方をするか、思索をするのかって言う処。『我れ何れの時に於いてか当に国位を捨て、出家せん日、即ち無上正等菩提を成じ、還たこの日に於て妙法輪を転ずべき。』先ずこう言う事ですね。私は何時国を捨てて、妻子を捨てて、出家をしてって言うんですね。その日は何時だったか。皆さん方は修業するのに、何時何処でその事を本気にやるのですか。何時何処で自分の従来の思いを離れて事実その物にこうやって、目を向けるんですか。それ何時ですか。何月何日何時何分何秒云々って言う事でなるんでしょう。はっきりしてる筈でしょう。何処でそれをやってるか。ねぇ。そうするとたちまち其処で無上正等菩提を生じ、本来の自分の在り様に触れる様になるじゃん。
 元々自分の生活って言うものは、最初からちゃんとした生活があるんだけども、考え方が出て来たために、自分の生活してるものが自分の考え方で違った、間違った扱い、見方をして苦しんで来たって言う事でしょう。それを止めると従来の本質的な活動してる様子だけが其処にあって、それにイキナリ、触れると言うよりもイキナリそれに成るのでしょう。向かうなんて言う距離は無い。戻るなんて言う時間は無い。何かを止めて元に戻るなんて事は無い。止めるとイキナリその、今の生活してる様子そのものに居るのでしょう。其処にはズレが生じないでしょう。ズレが生じないって言う事は、人が苦しまない証拠でしょう。皆さんが苦しむのは、比べる様なものを自分の中で、あの時はああだった、今はこうだったって、そうやって今を見るから、はっきりしないのでしょう。本当は今って言うのは、他の様子は出て来ないのでしょう。そんなの当たり前の話でしょう。だけどこの思いって言うやつは厄介なんだね。色んな事を思わせるもんだから、思いが出て来ると、そう言う風に比べる対象が幾らでも有る様に感じる様になる。そう言う事がすっかり止まると言う事ですね、出家。そうすると、この日に於いて、そこで教えの内容の素晴らしさを展開する事が出来る。出来るって言うよりも、展開してる内容にイキナリ触れるのでしょう。
 だってこうやってトントントントン(続けて打つ)どうもしないのに、どんどんんどんどんこの音に変わるんだもんね。前の音に付いていようと思ったって、変わっちゃうんだもんしょうがない。エー。前の物なんか相手にしてられない。トントントントンそんなに上手く生活が出来てるしょう。難しい事一切無いでしょう。如何したら今の音だけにこうやって純粋に居れるかって考えるのもそうだけど、必ず純粋に今の様子だけに居るじゃないですか、どうもしないのに。そうやって大法輪を転じるんでしょう。真実の様子がいきなり其処で。それ出家の日の様子なんでしょう。
 『即ち無量無数の有情をして遠塵離垢し、』塵や垢を離れるんですね。遠く離れる。垢や塵が付かない。そうでしょう。コン!こうやって次の音がする時、前の音が邪魔になるって事は無いでしょう。コンコン!こうやってやった時、前の音はしないんだもん良いじゃない。塵が付かない。必ずこうやって今の音だけが聞こえる。払わなければならない様な垢が付かない。何時でも今の音だけがキチッと聞こえる。見る物だって必ず今触れてる物だけが見える。前見てた物が邪魔に成ってるなんて言う事が無い。こうやって見てる時。それが皆さん方の生きてる様子です。考え方は違う。こうやってやりながら、前の物が浮かぶ。エーどっちの生活をしてるかによって、未だ在家に居るのか、本当に出家したのかって言う事でしょう。「浄法眼を生ぜしめ、」その様に素晴らしい綺麗な物の見方が出来る人になるんじゃないですか。
 ところが、凡眼と言う普通の目って言うのは、何か今見てる物の他に、何かチラチラうごめく様にしか見てないんでしょうねぇ。そんな事絶対ありっこないと思うんだけど、ねぇ。それは何を言わんとしてるかって言うと、今見てる物に対して考え方をそこに付けてる。前に体験した物を思い起こしてる、今見てる物に対して。その思いが出て来ると、その思いを見ながら、今見えてる物にこう触れるから、丁度靄がかかった様にしか見えないじゃない。本当にその物にこう触れてると、誰だってその通り見える。必ず、浄法眼って言う物が生まれるでしょう。清らかな物の見方が。前に見た見え方なんてしないんだもん良いじゃない。必ず今みてる物の様子しか無い。何回見たって言っても、一回ずつ皆今触れてる様子だけです。そう言うものが「浄法眼を生ずる。」塵も垢も付かないじゃない。
 さっき相生のちっちゃな子供が私の寺に来た時、幼稚園位かな、和尚さんの頭触りたいって言って、私がどうそって言って触って、そう言う事が二十年経っても忘れられない。黒板に色んな物を書いた時に、私にこれ消さないで欲しいって、和尚さん消さないでね、って言ったら、私はよく覚えてなかったんだけど、はいって言ってずーっとそれを帰るまで消さずに居てくれたって言う事が、こんなちっちゃな子でもですね、自分の言う事を正直にそのまま聞いてくれるって言う人に、親の方が感動してますね。子供はちゃーんとその事を覚えてる。又会いたいって言ってました。まあ、どうぞって言ったけど。面白いんだって。喋ってると、私と喋ってると。楽しいって言って言われました。二十幾つかの、大学に就職してるから、少なくとも二十五以上行ってるでしょうね、三十位か、ひょっとしたら成るでしょう。未だほんとに中学生位な純粋な清らかな感じがしましたねぇ。
 「復た無量無数の有情をして、永く諸漏を尽くし、」下にもあるでしょう。諸漏、諸々の煩悩。煩悩って煩い悩むと書いてある訳でしょ。有りもしない事を思うと言う事でしょう、煩悩って。煩わしくなるに決まってますよ。有りもしない物を有る様に其処に思って浮かべるんだもん。煩わしくなるでしょう。こうやって見て、この通り見えてるだけの筈なのに、ここに有りもしない物を、ああなってるんじゃないか、こうなってるんじゃないかって言う物をここに思い浮かべてこうやったら、煩わしく成るでしょう。それ、止めたらいいんじゃないの。そう言う生き方をする事が出家って言うんでしょう。在家に居ないのでしょう。今までの住いの中に居ないでしょう。全く違う世界に住むのでしょう。そこから離れて。
 何回も使うけども、籠の中に入ってて外に出た様な話をしたって、それは外に出た様には成らないのでしょう。本当に外に出た様に成るのには、籠の中から出るって言う事でしょう。そうすると、出た瞬間に籠の中に居た世界から、あれって思うほど抜け出しているのでしょう。如何したら自由になれるかって言う様な事も要らなくなる位、はっきりするのでしょう。ところが物を知らない人は、籠の中に居て、如何したら外に出て自由に成れるかって事を追求するのでしょう。それは物を知らないにも程があるじゃない。千年やったって無理だよ。出れっこないよ。知らないとそう言う修業してますよ。自分の考え方を離れずに、考え方の上で。それは仏道ではない。
 そうすると、『心慧解脱せしめ、』自分自身の在り様にこうやって触れると、皆はっきりする様に出来ていますから、良いじゃない。ねぇ。パン!こうやって聞いて、自分の様子に聞いたら、こんなに成ってる訳でしょう。音がしない時には聞こえない。分かる訳でしょう。だけど日常は音がしてないのに、さっき叱られた事が頭に来てイライラする訳でしょう。何を聞いてるんでしょう?ただ自分の中で、さっきああ言う事言われたって事、思い出してる物を相手にしてるだけであって、実物は無いのでしょう。だけど、さっき体験した実物が有る様にしか思えないのでしょう。その実物の体験はさっきだけ有ったんです。した時だけ有った。後は体験した思いだけです。そう言う事も、心慧って言う物は、智慧って言う物は、自分自身の真相に触れると、自分自身でそう言う事が、誰に聞かなくても成程そうなってるって事は明確に成るんじゃないですか。そして自分で、そうやって縛られてるもの、変な間違った考え方から見事に解き放されて自由になる力を持ってるでしょう。他人から学ぶんじゃないですよ。自分自身の今の在り様で自分自身がはっきりする力を皆持ってる。
『亦た無量無数の有情をして、皆な無上正等菩提に於いて不退転を得せしめん。』前に戻った事なんか無いじゃないですか、皆さん。誰か前に戻った人居ますか?昨日夜、この前に、一週間前の夜に戻った、そんな事ない。今だって間違いなく先程の様子に居ない位、何時でも今の様子だけにこうやって居る位、退いた事は無い。ねぇ、良いでしょう。それも無上正等菩提に於いてですから。はっきりした、正しい物の在り方の上に於いてそうなってる。
 『是れ菩薩摩訶薩、斯の事を成ぜんと欲はば、応に般若波羅蜜を学すべし。』到彼岸て言われる。波羅蜜、智慧、般若波羅蜜、到彼岸。これから、良いですか、こうやってやって、パン!これからその音の様に成るって人居ますか?パン!これからその音の様に成る。イキナリ、パン!音がした通りでしょう。到ってるって言う事でしょう、もうその音に。聞いてからやっとその音に達するって言う様な事無いでしょう。音がしたって言う時には、もうその物とパン!離れない様にキチッとそこに居るのでしょう。到ってるのでしょ。そう言うの、到彼岸て言います。これから手を下してやっと其処に到達するって言う様な事じゃない。物が見えるって言うんだって、そうでしょ。これから段々はっきりするって言う様な事じゃない。見えるって言う事は、もうイキナリ其処に着いてるって言う事でしょう。
 時間だってそうでしょう。今って言う時間はこれから尋ねて行って着く様な時間じゃないでしょう。今って言うのは、もう最初から其処に到ってるのでしょう。そう言う時間を今って言うんでしょう。それ、般若波羅蜜ですよ。皆さん方はこれから何かしないとそこに到らないって言う風にしか、物を学んでないんじゃないですかねぇ。今皆さん此処で生きてる様子って、何もしないじゃないですか。イキナリ今こうやって居る様子に居るじゃないですか、どうもしないのに。作らないとそうならない様な物、一つも無いじゃないですか。何処が不満なの、何処が何か満ち足りない処があるんですか。物を知らないから、そうやって勉強して来たんでしょう。物を知ってる人は、こうやって、この事を本当に成就したかったら、この事を本当に究めたかったら、今こう言う風に成ってる自分の様子に学ぶしかないじゃないですか。って、おっしゃっておられます。私が別に言う訳じゃない。その通りこうやって、昔の物にちゃんとそうやって書いてある。道元禅師もそれをこう言う風に読まれて、本当にそうだなって思うから、こう言うの引いて来た訳ですね。自分で言わなくたって先輩が書いてあるから。本当におっしゃってる通りだって。それで、良い訳でしょう。
 で、有り難い事に、この『応に般若波羅蜜を学すべし。』って言う時に、教材としてですね、自分自身が間違いなく居る此処に。他人の身体で勉強するって事はない。何億の人が居ようが、物を学ぶのに、必ずこの自分自身に用がある。他の人の身体でやった時には分からない。ねぇ。ちょっと済みません、お茶飲んで下さいって、代わりにって、飲んでどんな味がするかって、これ分からないですね。代わりに聞いて下さいって言って、コンコンコンコン代わりに聞いて貰って、自分で聞かないとどんな音がしたか分からない。必ずこの身体でやるんですね、般若波羅蜜を学ぶ時。条件としては最高に備わってる。時間的にどんなに忙しい人でもですね、今生きてる他の場所で生活した事が無い、他の時間帯で。生きてるって事は、必ず今此処で生きてる物に触れる以外に無いです。学び方として。だから人は通る内に見よ、と言う。行っちゃってから見たって見えない。歩いてる時に見ないと見えない。
 だから時間がどんなに忙しいって、自分の時間が無いって言う人が居るけれど、一日中他人の時間で生きた人は一人も居ません。エー何処で騙されちゃうんだろうねぇ。公私混同するなんて言うけど、大体公私なんて、公の物と自分て言うのを、元々無いじゃないですか、そんな分け方が。何時でも自分のこうやって生きてる様子そのものしか無いですよ。忙しいって言って、ゆっくりって言ったって、早いたって、遅いたって、皆それで役に立つじゃん。人間は苦しい時に出会うと、苦しい中では勉強出来ないと思うから、苦しくない様な処を目指して行こうとするから、勉強出来なくなるじゃん。苦しい時は苦しい様子の中に学ぶ物があるんでしょう。そうで無いと、苦しい時どうなってるか学べないじゃないですか。ところが人間の考え方は違うからね。苦しい時は苦しく無い方が良いから、苦しい事は放っちゃうんですね。見ない様に触れない様に。そうじゃない。本当の勉強は、苦しい時に苦しい中にちゃんと居て勉強するんです。それが妄想を起こさない、煩悩を起こしてない人の生き方なんです。そうすると楽しめるの色々。どんな様子の中に居ても。そう言う物が般若波羅蜜の勉強の仕方なんですね。
 だから、もう一回纏めとくと、この身体が居る場所が此処と言う場所で、そしてこれが今と言う処ですからね、時間ですから。この場所と時間と教材になる自分が、これが備わって無い人は、世の中で一人として居ない。皆この事は平等に与えられて居る宝物です。欠けてる人は一人も居ません。この欠けて無いこの三つが有るから、何時でも今すぐ修業が出来る。知らない人は先ず修業する場所を選んで、修業する時間を設定して、そんな事をやって、一生やったって、そんな物はね、無理だよ。そうじゃない。必ずこうやって、パン!この音を聞くんだって、此処で済むんだもん良いじゃないですか。他に行かなくたって。鶯が一声鳴くんだって、その鶯の声を本当に聞くのに、その鳴いている時に、その通り其処で皆、場所も時間も体験者も全部揃ってるから、どうもしないのに、イキナリそのまま学べるじゃないですか。しかも自分でやり直す、手を付けてどうかして、それに触れるって言う様な事が一切無いから、絶妙でしょう。煩わしい事が一切無い。お金もかからない。無条件でイキナリその物にちゃんと触れて、はっきりする様に出来てる。こう言う物が出家の在り方じゃん。
 従来の人間の考え方の中に居ては絶対に学べない。しょうがないじゃない。こっちの事を勉強しようとおもったら、こっち(別の方)見た儘で、こっちの事は勉強出来ない。もう否応なしに、どんな素晴らしい物がこう見えていようが、こっちの勉強したかったら、イキナリこうやってやれば、すぐ勉強できる。そう言うの身心の出家と言う。身も心も従来の家から抜け出すんですよ。そう言う事が一度行われなければ、無理。まあそう言う物が出家の巻です。もうちょっと有って、その次に、出家功徳の巻って言う物が、その後続いて行きますが、重複する様な内容があります。だからまあざっと後読んで行く事になると思いますが。一応ここまでにしときますかね。

出家 Ⅲ

音声はこちら

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で次の所に、「既に声聞戒を受けては、応に菩薩戒を受くべし。」こう言う物もよく読んでみると面倒臭い事ですね。よっぽど時間をかけないとよく分からない。戒が、声聞の戒と菩薩の戒と分けられる。二つに分けられるタイプがあると言う事。最初の頃は、先ず修業する時に自分自身に対する在り方を授けるんですね。それはそうでしょ。自分自身の事やる訳だから、他人の事までかまってられない。自分自身に対する戒律を受ける。それが声聞戒。修業が少し進むと、今度は菩薩戒と言って、一切のものに対して同じ様な願いを持つ。自分だけ救われれば良いって言う事じゃなくて、一切のものが救われていくって大きな願いを持つ、そう言う戒律、学び方をする。それがまあ一口に言えば、声聞戒と菩薩戒。段々あの目指す処が高くなっていくと言う事ですかね。で、声聞戒だけにいる人達の働きは、さっきも挙げた様に、道元禅師が日本で戒律を受けて中国へ行った時にお坊さんとして認められなかったと言うのは、そう言う経緯がありますね。日本にはそう言うものがきちっとしてなかったと言う事でしょうか。
 「これ入方の漸なり。」だから階段を踏み登って行く様に、順次こうやって登って行くのを漸と言います。漸々々。頓漸と言う言葉があります。頓は一気にですね。漸は階段を上る様に。そう言う道ですね。「あきらかにしるべし、諸仏諸祖の成道、たゞこれ出家受戒のみなり。」それはそうでしょう。その志を起こさない限りは、この今生活してる事から抜け出さないんだもん。本当に、本当に心底安心の行く人になりたい、救われたい、はっきりしたい、そう言う大願目があるから、それを起こしてそちらに向かうから、それが成就されるんで、そう言う事がなしにものが本当に受け入れられるって事は、恐らくない。だから発心をする、志を高く起こすって言う事は第一歩でしょう。第一歩が道を完成させる道なんでしょう。それ抜きに道は完成されない。
  「諸仏諸祖の命脈、」皆そう言う生き甲斐を中心に持ってる。だから私達の命脈として命の中心になるものが何かったら、今ここで自分が如何在るかって事だけがきちっと腹に坐れば、後はそこからあらゆる芽が吹いてきて、花も咲いて実も成って根も張るでしょう。他には用がないでしょう。その中心になる物をキチンと育てさえすれば、後は自ずから備わるのでしょう。「たゞこれ出家受戒のみなり。」って、本当の事を知りたい、本当のものをはっきり自分でもしてみたい、って言う様な事が出家受戒の様子でしょう。そう言う事を一度も起こさなかった人は、「いまだかって出家せざるものは、」そう言う事を一度も起こさない人は「ならびに仏祖にあらざるなり。」天然の儘、その儘ですね。山の中に宝石が埋まっていても、それを掘り出して余分な物を取り除く事によって、玉の様になるのでしょう。或いは純金を得るにしてもそうでしょう。精錬をするのでしょう。そう言う物が出家と言われる志なんでしょう。如何したら良いかって、その事だけで変わるじゃないですか。
 今此処に居たってそうでしょう。何を本当にすべきか。そしてその本当に何をしたら良いかって事をきちっと戴いて、その通り志をそこに立てたら、それ実践して行くって事をやれば、すぐ出来るじゃん。ところが来て頂いても、聞きっぱなしで帰って、家に帰ったら、此処では聞いたんだけど、家へ帰ったら何もないって言ったら、家へ帰ってから何されるんだろうねぇ。結局一ヶ月何も手がつかずに居るって言う事でしょう。だからどれほど、此処で今志しを起こすって言う事が大事かって言う事です。「仏をみ、祖をみるとは、出家受戒するなり。」だから仏様とか祖師方って立派そうな人が沢山歴史に残っていますけど、そう言う人達が本当に如何言う生き様をした人か、どう言う内容なのかって言う事をしるのには、自分の今こうやってる事に目を向けないと分からないと言う事ですね。
 「摩訶迦葉、世尊に随順して出家を志求す、」摩訶迦葉尊者がお釈迦様に随って、私もお坊さんに、出家をしたい、そう言う風に志しを起こされたんでしょうね。志求す。で、何でかって言うと、理由が書いてある。「諸有を度せんことを冀ふ。」諸有って言う、下には迷いの境界と書いてありますが、迷うと言う事はですね、体験をした物が皆そこに残っていると言う風な見方をし、扱い、取り扱いをしている人達を言います。それに二十五有ある。実際には皆さん、さっきも話した様にですね、生活していて先程生活したものは今、何処にも無い。有るのは今生活してる様子だけでしょう。何か、それに対して拒絶反応する人いますか。おかしいって、そう言う様な事は無いって思う人?こんなにちゃんとした生活をして間違いなく皆実感がある物なのだけども生活って。だけどそれを過ぎた後やってる時が無い。
 時と言う概念を見てみると良く分かる様に、時と言う概念は前に戻らない。戻せない。それを過去と言う。過去が現在に戻せたら、過去とは言わない。それだのに、皆さん方は過去の物を現在に戻そうとする。迷いの世界に居るって、良く分かるでしょう。出来ない事をやろうとしてる。だから苦しむじゃない。今のこうやって生活してる事はだれもちゃんとできてるじゃないですか。どんないい加減に過ごしてても、必ず今の事は有るでしょう。今の事が無くなると言う事は無いでしょう。滅茶苦茶な事して居ようが、何して居ようが、必ず今の様子だけは無くならない程ちゃんとしています。それを体験してもですね、後でって言う事は全く無い。そう言うものがこの迷いから救われてる人の在り様。迷いとしてる人は、体験したものが皆有る様に扱ってます。有るのは、体験した事を思い起こす能力です。ねぇ。それは皆さん有る。で、お互いにそう言う能力があるから、思い起こした事、物を此処に出して来て、それを材料にして語り合う訳でしょう。
 でも本当にやらなきゃ成らない事は、今こうやってる処の中にあるんでしょう、やる事が。一番早いのは、さっきこうやった様にですね、パン!(打掌)音を聞くって言う事はですね、その音がしている時から離れたら、その音を聞くことが出来ない、後では。皆さんそう言う生活をして居ないから、パン!こうやって話をしてる時でも、本当に話をしてる時にこうやって音を聞く様に生きてたら、非常に素晴らしい生き様に変わる。そうすると、こう言う処で「諸有を度せんことを冀ふ。」と言うけども、迷い苦しみって言うものから必ず離れる事が出来る。
 摩訶迦葉さんはお釈迦様の傍におられて、素晴らしい生き様をしてる、生き様をしてる様子に触れてですね、私もそうなりたいなぁと思ったんでしょう。何でかって言うと、やってる事が素晴らしいからでしょう。ああ成れたらいいなぁって。そう言う風にしてたら、お釈迦様が「善来比丘」っておっしゃった。こっちおいで、こっちおいでって言ったんです。そうしたらですね、「鬚髪自落し、」ですね。髪が、ふさふさしてた髪がつるつるの頭に、鬚も伸びてた物がすっと取れたって言うんです。そして袈裟を身体に着けたと書いて有る。お釈迦様の身に着けてる袈裟と同じ様な物が、その人、摩訶迦葉さんの上に、自分で袈裟を着けた気配が無いのに、あれって、言う事がここに書いてある。こう言う風にして一番最初の出家って言うのは出来た。
 これだけなんです。意思疎通がちゃんとあって、本当にそれやりたいかって、じゃ付いて来いって、それだけです。何もかも捨てて今すぐ付いて来い、と言う事です。本気だったら。出来た人です、摩訶迦葉、それが。一般ではね、中々そう言う志を起こしても、あれも整理しなきゃ、これも何とかしなきゃって、何か一杯色んな事をしないと進めないんですよ。出家ってだから全部パッとイキナリ。言われた通りに全部手放していく。そうするとこの様に今まで気になってた物が全部取れると言う意味です。髪の毛や鬚が無くなると言う事は。それだから着る物にこだわってた人が一切そう言うものが気をつけなくて良くなると言う事です。
 お坊さん達、お坊さんでない人でも、似た様な人は沢山居ますけど、毛が無いとですね、散髪やさんに行かなくてもいいから、先ず経費削減、エコ生活ですね。それからユニホーム持ってるとですね、ユニホームだけで生活が出来るから、何を其処へ明日着ていこうかって気を遣わずに会社に勤められるとか、学校なんかでもユニホーム作ったのはそう言う事ですね。要らん心配しなくて良いって言うのは、ユニホームの特典なんですねぇ。見せ比べてねぇ、何かそう言う事が衣装の上でも、もの凄く厄介なんでしょう。それが凄く溜まりますが、タンスの中ににダーっと並ぶ様になる訳でしょう。着る時にいっぺんに全部着る事は無いんだけども、溜めてあるんだねぇ。一枚有れば足りると思うんだけど、そうは行かないよね。まあそう言う様なものが、こうやって「鬚髪自落し、袈裟著体す」って言う様な事ですね。「ほとけを学して諸有を解脱するとき、」本当のものの在り様に目を向けて、それがどうなってるかって言う事をしっかり学んで行くとですね、自ずからそう言う誤った物の見方、考え方から離れると言う事です。
 この前どっか東京であった俳優さんだって言う青年が居て、お年を聞いたら二十二。イケメンのお坊ちゃんで。アメリカに三年居て帰って来たんだけどって、何か仏教の事に興味があるって言って、お話しをする時間があった。で、聞いてみるとですね、やっぱり何処かにお坊さんて言う概念を持って、連れて来るんですねぇ。私はお坊さんじゃない、あなたは坊さんです。そう言う物の見方の上から話を始めるんですねぇ。だけど私はその時には、私はコーヒー飲んで、相手の方はカレーライスかなんかお昼に食べてたから、カレーを食べる時にですね、お坊さんと在家の人って関係無いんじゃないの?って。坊さんでも在家の人でも、カレーを食べると、どちらの人もカレーの味がする様に成ってる。坊さんだとカレー食べてチャーハンの様な味がするって事は無いんだよね。そう言う事が仏様の教えだよって話をしておきました。
 一生懸命語学の勉強をしたから、頭がちょっとおかしくなる位大学の頃勉強したって言っておられた。で、よく眠れない時が時々有る。寝ようと思うと頭の中で太鼓を叩いて居る様な音が響いて、気になってしょうがない。じゃ、太鼓の音がしてる様に頭の中で思う時に、ちゃんと目を開けて、今自分が此処に居る時に、何処で太鼓の音がしてるのかって、探してご覧。太鼓の音はしてませんて、言いましたよ。そう言う風になると頭の中が静かになって寝られると言ってました。これが禅の修業の在り方なんです。知らない人は頭の中で太鼓叩いてる音がするって言うと、その気になってる物をずーっと、そちらだけを相手にして、如何したらこれが静かになって寝れる様になるかって事をずーっとやるね。物を知らないから。物を本当に知ってる人は、そう言う時にちゃんと目を開けて、あなたが思ってる様な音が何処でしてるの?って、それをちゃーんと調べてごらん、音がしてないでしょう?本当に音がしてない。それが分かると頭が軽くなる。自分もそうやって過ごしてみると、楽に成って眠れた事が体験上あると言ってました。良いじゃないですかねって、話をしました。ね。物を知らないと頭の中で色んな事が、気にかかる物が出て来ると、間違いなくその気にかかる事を手放さずに、それを問題にするんです。それは修業の在り方ではない。本当修業するって言う事はそっちじゃないんだよ。頭の中じゃなくて、現実どうなってるかの方をはっきりさせると、必ず諸有が、迷いの世界から離れる、そっちの頭の方を手を付けなくても。
 皆さん何か有った時、やってごらん。色んな事が問題になってしょうがない時に、頭の中に思い浮かべてる事の方に問題を向けるんじゃなくて、今自分のやってる事がどうなってるかって事をはっきり分かる様にこうやって過ごしてみると、こっち頭(思考)で整理しなくても、自然にすっかり無くなるよ。そう言うものが仏様が学んだ在り方なんです。「ほとけを学して諸有を解脱する時」迷いを離れる。「みな出家受戒する勝躅、かくのごとし。」それが従来の在家と言われる家から出る、出家と言われる姿なんです。考え方の中にしか生活して居なかったものを、その考えを止めて現実の方に居を移すって言う事が出家なんです。




出家 Ⅱ

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 それでまあ、話は少し飛びますが、日本でもそうだけど、中国の話なんかを見て居てもですね、中国で、左の頁で入団受戒すべしって言うのがありますね。だから入団受戒って言うのは、日本で言えば、東大寺の戒壇って言う物が一番最初に出来ていて、其処で受戒を、戒を受けないと授けて貰わないと、お坊さんの仲間入りが出来ない。筑紫(福岡)の国の観世音院と、栃木県の薬師、代表的な東大寺の戒壇の三つがあって、其処で日本では授戒が行われた。その前に中国の話をすると、中国でもですね、お坊さんになると兵役とかあるいは税金か、そう言う物を免除される様な制度があって、度牒と言って、お坊さんになった事が登録されてる戸籍があるのねぇ。そこに度牒と言う制度があって、出家得度の証明を受けるとそう言う免税、兵役を免除されるものがあるので、出家をされる人が結構いた。でもこの戒壇院で戒壇を受け、受戒をしないと正式なお坊さんでないんだれどけも、自分で勝手に私はお坊さんになりましたって言う、そうしたお坊さん達が結構巷に増える様になった。言う事が歴史の中に有ります。それでそれを取り締まる様になったのね。そう言う為に、この戒壇て言うのを、戒壇院、戒壇て言う物を国が作って、そして国家試験の様なものですね、今で言えばね、そう言う制度を作って、そこをきちっと通った者でない限りは、出家として認めないと言う様な事が行われてます。日本でも同じ様な事が発生しているんですね。で、日本ではそう言う時に、鑑真和尚さんを中国から招聘をして正しい戒律を授ける制度を改めて作った、と言う事が出てます。
 道元禅師は中国に、お行きになった時に、中国では日本の戒壇で受戒をした者は坊さんに成ったとして認めてないのですね。日本の戒壇院は中国では正式なものとして認められていないから、道元禅師が中国へ行った時に、坊さんの扱いをされない訳、沙弥と言って小僧の扱いをする。それで道元禅師はそれを取り挙げて訴えて、お寺に訴えても取り挙げられないから、官庁にそれを取り挙げてもらって、席順を決める時に出家して何年て言う、年数によって位置が決まるので、そう言うことをされたって言う事が残ってます。まあそれ位日本のお坊さんは、当時認められていなかった。現代風に言えば、各国、海外から来た人達が出家をしておりますけども、日本でその人達を出家として認める様にするためには、日本の修行道場で何年とか規約の中でキチッとしないとお坊さんになったと言う風にやっぱり今もしない様な制度に多分なってます。だけども勝手に坊さんに成った様な格好してる人沢山います。戒律って言うのは非常に厄介だと思いますね。
 で、最澄さんが亡くなった翌年位に、新しい制度が生まれて、従来のインドから伝わって来た戒律の他にですねぇ、そう言うものは破棄しても良いから、新しい物を、日本独自の物を作っております。だから従来の方々と、南都六宗とかって言う奈良の方々と、宗教界で戒律の授け方、受け方によって対立が起る、そう言うものが今日迄ずーっと解消されずに来ている事は間違いないですね。実際にお坊さんになって戒律を受けたって言うんだけど、守ってるかって言って言われて困る。古くは在家の人であってもお坊さんと言われる人であってもですね、どちらもこの受戒を受ければ僧侶として受戒を受けた人と言う表現ですね、どちらも、出家在家無く、受戒を受けた人って言う位置で扱われて来た。それは今も在家の方々が受戒を受けて同じ様に修行している。外から見た形は在家の儘だけども、と言う様な事が使われて居るのはそう言う事でしょうかね。「毘尼」戒律は一番易しい言葉で言えば、よし、この事をやってみようって心を起こして、ぜひ私もその仲間に入れて欲しいと頼む、出家と言う事ですね。他の方向に行かないと約束する訳です。それが出家です、基本的には。約束してそれを破ったら、破戒と言ってます。戒を破る。「以巌浄」まあそうやって厳しく自分を律して清らかな生活をする。そう言う事によって全て世の中の模範として生きて行く。「方に能く三界に洪範たり。然れば則ち、参禅問道は、」参禅、禅に参ずると言うんですけども、坐禅と言う言葉もあるけども、禅に参ずる、参禅の方が良く分かるのね。参禅ていう、禅に参ずるって言う事は、坐禅をする事だけではない。一日中二十四時間自分自身の今の在り方から目を逸らさずに過ごすと言う事が参禅をすると言う事です。禅を学ぶって言う事はそう言う事です。自分自身の生きている生き様そのもの、嘘偽りのない、生で今生きている、取り替える事の出来ない生き方をしてるその物に何時もずーっとこうやって親しく居るって言う事が参禅をすると言う事ですね。道を問うと言う事はそう言う事でしょう。その時に自分の様子に触れてみると本当はどうなってるんだろうって言う事が問われて行きます。
 だからパン!(打掌)こうやって音を聞いて、自分の処パン!こうやって見てると良く分かる。さっき迄音がしてなかったのに、ポンと出て聞こえて、音がした儘で終わっちゃうんですね。だけど皆さんはそう言う風な生活を本当はずーっとしてる筈なのに、不思議ですね、そう言う人殆ど居ない。さっき聞いた物が何時までもずーっと残る。問題になってる。もう一回やってみますよ。パン!こうやって、今音が間違いなくして聞こえた筈なんだけど、パン!これもう無いんですよねぇ。音が止むと同時にないんですよね。どうもしないのに。だから聞こえないと言うんでしょう。音が止んで、もし音が有ったら、聞こえると言うけども、音が止むと聞こえなくなるって言う事は、音が無いと言う事ですよ、してないと言う事でしょう。それだのに、皆さん方は、さっき、ああ言われたこう言われたって言う物がずーっとどっかに聞こえてる様な生活をしてる訳でしょう。それは参禅をしてないよね。道を尋ねてないよね。これだけで大丈夫なんですよ。喋ってない時に聞こえない。聞こえない時には、問題にならないのでしょう。ところが、喋ってないのに皆さん方は問題になるんです。ねぇ、問題になるでしょう。何十年も生きて来た、その昔の事まで問題になる訳じゃん。あの時あんたこう言ったああ言ったって事が問題になってる訳でしょう。何でそんな風な生き様をするんでしょう。ものを知らないからでしょう。
 今こうやって歩いてる時に、昨日の歩き方なんか用ないのでしょう。車乗ってたって、今走ってる時に、昨日ああだったとかこうだったとかって言う事は用無いでしょう。一番安全な走り方は、今どう在るかだけで居れば良いでしょう。だけど、そう言う風な生き方をしないじゃない。参禅をしないと言う事です、それは。参禅をするって言う事は、そうやって今の自分の事実そのものにこうやって何時も居るって言う事です。そうすると、ものがどうなってるか良く分かる。そしてどうもしなくても良い様になってる事が分かる。
パン!邪魔にならないんだから良いじゃない。聞き終わってもう無いんだから。邪魔にならない。パン!うるさいなぁって聞く前に、聞こえちゃいますからね。エー、腹の立つ時間が無いんだよ。パン!本当はそう言う風に生活してるんです、皆さん。眼も皆そうです。「戒律為先なり。」とあります。此処で挙げられている戒律って言うのは、こう言う事でしょう。パン!これが戒律ですよ。自分でどうこう思う前に、音がした通りに否応なしに成るんです。守ると。そうなければいけないって言って頑張らなくても、もうそれ以外の処にパン!これ行かないんです。ズレない。そう言う物が戒律なんです。戒律を先とする。それ聞いてから、その様に守るなんて言う様な事じゃないんですね。物を見たって必ず先に見えるんです。こうやって触れたら。自分で思う前にその通り。その通り見えた後に色んな事を思うんです。ね、だからどんな物でもその通り見える時にですね、グタグタ言う様な事一切無いです。そんなに成って生活してるんですよ。そう言う物があの一番古い時代の戒律でしょうね。それ今も皆さん方が根本的にはそれを生活の上で知らずに必ず守ってる。守ってるから、こうやって向かうとその見えるんですね。自分で守ろうと思わないのに、必ずこれに向かったらこの通りになる。これが若しこうやった時に、成らなかったら大変ですよ、皆さん。ね、誰でも成るでしょう。勉強してる人もしない人も。仏教が分かるとか、禅が分かるとか分からないとか一切そう言う事抜きに、基本的にこうやってその物に向かったら、名前も何も知らなくても、その花の通り必ず成る。色でも何でも、言葉を知らないんだけど。そう言うことがそう言うことがそう言う事が「戒律為先なり。」と言う事です。其処には私の我儘は一切通用しない。無い。入って来ない、言う様な事こう言う処で真意として言いたいんですね。だから、「既に過を離れ」あの人があんな事言った、この人があんな事言ってるって言うゴタゴタしてる様な自分の中で起こす過ちを全部離れてる。或いは非を防ぐ、好き嫌いを超えた生活がキチッと出来てる。争いをしない生活がちゃーんと守られてる。もしそう言う事を本当にこうやって大事にしなかったならば、「何を以てか成仏作祖せん。」仏様や祖師方の様なしっかりした生き方の出来る人育たないじゃないかと言うんです。
  で、それで今度は受戒の方法と言う事が説かれてる。戒を受けるね。受戒の授は、こちらから言うと、授ける授戒。皆さんの方から言うと、受ける受戒。授受ですね。その両方が授ける者と受ける者が居ないと受戒は成り立たない。人の出会いもそうです。向こうの人とこっちの人が居ないと出会いにはならない。片一方だけでは。その時に、先ず三衣、着る物としてはお袈裟、三つのお袈裟。現代風に訳したら、下着上着よそ行きかな。その位に分けるのでしょう。お坊さん達が五条と言うのは下着です。五条衣。七条って言うのは普段着です。九条って言うのはよそ行きでしょう。この三衣、三つの衣を使います。それから、鉢は食器ですね。応量器と言われてます。食器、鉢盂。「并に新浄の衣物を備ふべし。」中国ですから、インドと違って、インドではお袈裟だけです。中国にくると、もう一つその下に中国独自の服を着た上に袈裟を付ける様になってます。日本の場合は更にその下に着物を着て衣を着て、お袈裟を着けてます。で、上の方からインド、中国、日本て、三つの物を着けてます。それは風土によってでしょう。気候風土による。一番上のお袈裟だけじゃ寒くてしょうがない。新しい物が若し得られなかったら、古い物を綺麗に洗って補修して、そしてそれを身に着けて、言う事です。「入壇受戒すべし。」そう言う儀式をする場所があるんですね。入壇戒壇。浄域を作って、その中で受戒の儀式が行われる。他人の衣や食器を借りる事は絶対にしない。ちょっと貸してって言って借りる様な物ではないと言う事ですね。
 「一心専注して、慎んで異縁なかるべし。」出家を志されて儀式に臨んだら、出家以外の事を考えて其処に望んではならない。これは何事もそうでしょう。何かする時に、その事をやる時に他の事に心を向けるって言う事が有ったら、それは野暮です。でもねぇ、思いって言う物は色んな物が出て来るもんだから、気をつけないとすぐ最初にこれをやろうと思ってるのに、その内最初にやろうとしてる事から全く違う方向に行っちゃう人沢山居るんだよねぇ。人生百年位だから、すぐ人生終わっちゃうじゃん、何も出来ずに。
 「仏の形儀を像り、」お釈迦様の生きられたものを模範にしてって言う事ですね。で、仏様の守られた戒律を備える、身に。「仏受用得。」そうすると仏様が生活した様な生活に私達もすぐ成る。この事は人の真似をする事ではないですね。「小事非ず、」って。私と同じ様にやってご覧って言ってやるんだけど、決して私の事を真似るのではない。本当に自分自身の事を自分自身でやるのですよ。だけど頭って言うのは、変な物で、向こうの人に教えられた事を私が真似てるって、そう言う風に思ってる人が居る。人の真似なんか絶対出来ませんよ。他人の身体でやらないんだもん。自分の身体でやる事しか出て来ないんだもん。それ位全く別物の動きをしてるんですよ。それだのに、考え方はあの人のやってる事を私も真似てる、って言う程度にしか受け取らないから、そうすると、同じ事をやっていてもですね、身に入らないじゃないですか。ね。そう言う事があるね。豈に軽々しくすべけんや、「豈に軽心すべけんや。」いい加減に取り扱うなと。「若し衣鉢を借らば、登壇受戒すと雖も、並に得戒せず。」人の衣や食器を借りて儀式に臨む様だったら、幾ら其処でご受戒の師に就いたと言っても、本当に自分の物にはならないよ、と。「若し會受せずは、一生無戒の人為り。」何回も何回も、受戒と言うのはついても良い事になってます。一回やったらから、もうやらなくてもいいと言うもんじゃない。雑巾がけもそうですねぇ。さっき其処拭いてから、もう拭かなくて良いって言う事じゃなく、何回拭いても良い、同じ所を。拭けば拭くほど綺麗になると言う事もある。お受戒もそうだ。受戒をする。何回も何回もって言うんだけど、一回やる毎に新しい其処に光りが発せられる。
  で、ここの今の一節は、先程中国の話や日本の話をした様にですね、いい加減なお受戒をして、自分勝手に、私はお坊さんに成った、自度僧って、自ら度う僧と書きますが、自度僧と言ってますけど、そう言う人が中国でも日本でもかなり居た。最近でも何かそう言う様な事、時々、お坊さん格好して何処かにこうやって托鉢をしてる様な格好で一日居る。あれ本当のお坊さんかしらって言う様な事を問われる事があります。ああ言う質問に近いのでしょうね。格好してればお坊さんだと思う面もあるからね。姿形だけで。聞いてみても良く分からない。本人が坊さんですって言われると、それ以上あまり追求する事が出来ないから。そう言う様な人達ですね。「一生無戒の人たり。」そして「濫りに空門に厠って、」お坊さんの仲間入りをして「虚しく信施を受けん。」と言う事は、人から戴き物を、お布施と言う戴き物をするんだけども、それに対して法と言うものを授ける力が無い。布施を戴く、買い物と同じ様にですね、買い物をする時にお金を払いますけども、お金を払う時には、ちゃんとした買い物をするとですね、物がある。物が有るものに対してお金を払う。布施もそうです。布施をするのには、必ず法を戴くから、教えを戴くから、物の在り様って言うのを学ぶものがあるから、それに対して、教えを戴いて感謝の意味で布施を施す訳ですね。それが無いと不平が必ず起る。何で取るんだって。何でこんな高い額を取るんだって。取られたと思う。布施は取るんじゃない。本人が自分の気持ちとして、感謝の気持ちを其処に表した物が布施です。
 「初心の入道は、法律未だ諳んぜず、」初めてそう言う世界に入った時には、戒律と言った物が如何言うものか、先ず知らないから、勿論諳んじていない。そこでお師匠様になる人は「師匠言はずは、」お師匠さんがそれについて丁寧に示さないと、「人を於此に陥さん。」格好だけは坊さんになった、式だけは挙げたけどもって言う事でしょう。何をして良いか分からないって言う生活をする様になるって言う事でしょう。其処で今ここににがにがしくって言うんですね。「今玆に苦口す、」懇ろって訳すんですね。くどいって言う位。懇ろって言う良い響きなんだけど、言ってみればくどいですねぇ。もう聞きたくないって思う位。良薬は何とかって言うんでしょう。口に苦しとか。甘言、甘い言葉って言うのもあるでしょう。苦いのと甘いのと。忠言は耳に逆らうと、論語なんかもある。本当の事は中々すっと受入られない様な処もある。其処を懇ろにこうやって勧めるのでしょうね。で、それを受けた方は肝に銘じて、肌に刻み込むって言う表現があります。





正法眼蔵 七十五 出家 Ⅰ

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正法眼蔵 第七十五 出家

『禅宛清規云、三世諸仏、皆曰出家成道。西天二十八祖、唐土六祖、伝仏心印、尽是沙門。蓋以巌浄毘尼、方能洪範三界。然則、参禅問道、戒律為先。既非過防非、何以成仏作祖。(禅宛清規に云く、三世諸仏、皆な出家成道と曰ふ。西天二十八祖、唐土六祖、仏心印を伝ふるは、尽く是れ沙門なり。蓋し毘尼を巌浄するを以て、方に能く三界に洪範たり。然れば則ち、参禅問道は、戒律為先なり。既に過を離れ非を防ぐに非ざれば、何を以てか成仏作祖せん。)
 受戒之法、応備三衣鉢具并新浄衣物。如無新衣、浣染令浄、入壇受戒。不得借衣鉢。一心専注、慎勿異縁。像仏形儀、具仏戒律、得仏受用、此非小事、豈可軽心。若借衣鉢、雖登壇受戒、並不得戒。若不會受、一生為無戒之人。濫厠空門、虚受信施。初心入道、法律未諳、師匠不言、陥人於此。今玆苦口、敢望銘心。(受戒の之法は、応に三衣・鉢具并に新浄の衣物を備ふべし。新衣無きが如きは、浣染して浄からしめて、入壇受戒すべし。衣鉢を借るがこと得ざれ。一心専注して、慎んで異縁なかるべし。仏の形儀を像り、仏の戒律を具す、仏受用得。此は小事非ず、豈に軽心すべけんや。若し衣鉢を借らば、登壇受戒すと雖も、並に得戒せず。。若し會受せずは、一生無戒の人為り。濫りに空門に厠って、虚しく信施を受けん。初心の入道は、法律未だ諳んぜず、師匠言はずは、人を於此に陥さん。今玆に苦口す、敢へて望すらくは心に銘ずべし。)
既受声聞戒、応受菩薩戒。此入法之漸也。(既に声聞戒を受けては、応に菩薩戒を受くべし。此れ入法の漸なり。)』
 あきらかにしるべし、諸仏諸祖の成道、たゞこれ出家受戒のみなり。諸仏諸祖の命脈、たゞこれ出家受戒のみなり。いまだかって出家せざるものは、ならびに仏祖にあらざるなり。仏をみ、祖をみるとは、出家受戒するなり。」

歴史、歴史ですかね、ずーっと遡って行くと、この世に生まれ落ちた一人の青年が、子供が男の子がいて、偶々その子は国王の一子として生まれて、皇太子、王子として育って行く。で、国政を任される為に、王道の道、王様が国を治める色んな物を勉強して育って行くのでしょう。名前はシッタルダと言っておられる様ですね。それが後に釈迦牟尼仏と言われる、お釈迦様と言われる方の生まれ落ちです。お釈迦様と言われている方はですね、そうやって王子として育って行って、その生活の中で世の中の色んな物にこうやって出会って行く。その総まとめが四門出遊とかって言う言葉もあるけども、四苦八苦と言われる様な言葉で総括されるんでしょうね。
先ず四苦。生まれ死ぬ迄の間に、老いると言う事と病を蒙ると言う様な事が、まあ大概の人は少なくとも一回位は、死ぬるのは大概一回ですね、二回死ぬる人はあまりないんですけど。そう言うものに出会うと、これが苦しみの元になってる訳でしょう。生まれて来なければ生活するのに別に働かなくたって良い訳でしょうからねぇ。で、就職先が無くても困らないんですよね。入試に落ちても困らないんだけど、生まれて来ちゃったもんだから、色んなそう言う社会の中にあって、それが上手く行かないと苦しむんでしょうね、それが生まれると言う事でしょう。で、若い儘で居れば良いって言うんだけども、年取って行く。
 今日来る前にちょっと隣の、隣って言っちゃあ隣ほどでもないか。相生って言う岡山の所辺に相生って町がある。彼処に浜松の方から引っ越して二十年位になる方が居られて、偶々浜松に来ておって、来る前に二時間位昼を一緒にしながら話をした。お母さんと娘さんが来てくれたんだけども、その娘さんは私の寺に来て、私の剃ったこう言う頭を撫でて良い?って言って、こうやって撫でたり色々した。そう言う可愛い子でした。二十年たっても何か中学生位の感じしかしない位な子に育って、吃驚しました。そのまま大きく成ったかなと思う位。今、大阪のりて大学になんか就職しておって、大学で色んな講師を招聘するに、その斡旋の、何ですかね、頼む仕事をしているらしくて、面白い仕事があるんですねぇ。大学に講師を呼んでくる、如何言う人を呼ぶか。口説き落とすって言う事ですかねえ。まあそんな生まれて来ると色んな事がありますけども。何でその話をしたかって言うと、老いる話です。年を取って行くと言う事ですかね。
 病をすると言う様な事も苦しみの一つでしょう。そして最後は、折角一生懸命色々やったけども、結局はこの世とお別れして行かなきゃあならない。これだけ一生懸命やったのにって、何も持って行く物無い。そう言う事もあるね。まあそう言う中であって、どうしたら大勢の人の苦しみを救う事ができるかって言う事が、まあやがて王様になった時に、自分の使命として小さい頃から多分感じておられたと思います。今で言う引きこもりみたいに憂鬱な生活をなさる、沈思黙考型の人なんじゃないですかね。ものを深く考える。そう言う憂いに満ちた姿をみておって、これじゃあ困ると言うので、三国一の嫁をと言って、嫁さんを連れてきて、子供が一子、ラーフラと言う子供が誕生。想いの方は募る一方で、とうとう意を決して王宮を捨て、地位も名誉も財産全てを捨てて、家族を捨てて、妻子を離れて修行に出たと言うんですね。修行、要するに自分のそう言う小さい頃から感じている、どうしたら本当に人が救われるかって言う事の決着を自分で着けたいと言う事でしょうねぇ。それがそう言う道を歩む様になったんだろうと思います。
 で、その頃には仏道と言うものは有りません。お釈迦様はね、仏道と言うものはまだ無い時代です。今、皆さん方は仏道を学んでるけど。お釈迦様って言うのは仏道の無い時代です、まだ。そう言う中で、当時世の中の指導者に立っている様な方を悉くこう歩いてですね、直接にその指導者に会って、自分の求めているものを如何したら得られるかって言う事を質問して行くわけですが、結局は当時の方々の中でシッタルダ少年の望んでいる事に対して明快なものが一つも無かったと言う事でしょうね。そして仕方が無いから一人で、一人でって言うか、周りに人も居たのかも知れませんが、自分自身で自分自身の生活してる事に向かう様になった。他所に目を向けなくなった。だから皆さん方も仏道を学ぶ時に、一番基本は他所に目を向けるって言う事をしない、と言う事が仏道の学び方です。自分自身の今生活してる事に目を向ける。その中に仏道の歩んできたものが、全てあると言う事ですね。そうやって自分の様子がはっきりして疑いが取れて、どうしたら幸せになれるかって言う事まではっきりしたもの、そう言う生き方をずーっと八十迄されてる。そこに共感を得た人達が何人かこう身の周りに一緒に生活する様になって行くんですねぇ。それが一つの集団になって行きます。まあそう言うのを世間から、後の人達が出家をしたと言ってるのでしょうねぇ。
 当時、じゃあ出家をしたからどんな物を身体に纏っていたかって言うと、全ての物をこう捨てて修行に出た方ですから、其処らに落ちてる襤褸切れとか色んな物を拾って縫い合わせてパッチワークみたいにして、身体に纏う一枚の布を作った。それを袈裟と言われてる様です。それをこうやって身に着けている。後から来る人もそれを真似てやってますから、他所から見ると変な格好をした集団になってるって。まあそれが古い処まで遡った時に、出家と言われる言葉の原点になるんでしょう。だけど皆さんとなんら変わらないんですよ。何を皆さん方が本当に生活して居る中に求める様になるかと言う事によって、生活態度、方向が変わって来ると言う事でしょう。
 いきなり禅宛清規と言うものが出て来ておりますが。長蘆宗賾と言う方が編纂をした物が禅宛清規と言われるもので、西暦の1104年に編纂されてるって言う事になってます。その中に、こう言う風な事が先ず書いて有るって言う様な事を、先ず引いておられますね。「三世諸仏、皆な出家成道と曰ふ。」要するに、今、従来の生活の儘で自分の求めている物が完成されると言う事は無いと言う事ですね。だから皆さんが新しい事をしようと思うと、今やってる事を全部離れてやらないと、新しいものをやる事が出来ない。
 もっと簡単な事を言えば、今坐って居ますけども、立つと言う行為をする時には、必ず坐っていると言う事を全て離れる。坐った儘立つと言う事は出来ない。右を見ていて、左を見たい時に、必ず右を離れる。話を聞く時に、前の話してる事をずーっと耳をそちらに向けていると、今話してる事が聞けない。必ず前の物から離れて行く様に生活すべきです。そうしないと道は成就しない。処が自分達の生活を見ると、見事にそれと逆の生活をしてるって言う事が在家なんですねえ。体験をした物を取り挙げてしか生活してない。本当にそうですよ。100パーセントと言って良い位、体験した物を取り挙げて、それを思い浮かべて、更にそれに対して、ああでもないこうでもないって生活してる。それは在家なんですね。出家は違う。出家は取り立ての新鮮な今の在り様その物にこうやって居る。そう言う生き様をするのを出家と言って、そうすると、今迄の物から全部変わる。このまま、このままで居て、着てる物が変わったと書いてある、後にね。このままで居るのに髪が剃り落とされたと書いて有る。
 それが今言う様な事を何だろう、オーバーな言い方をしているって言う事でしょう。ちょっと奇異に思う様な表現になってますけど、よーく考えてみるとそうでしょう。自分で頭の毛を剃らないのに、先程の様子から全部抜け落ちて行く、ね。ところがずーっと変わらないって言う風に見てるのでしょう。実際は先程の様子には居ないんですよ、誰も。片時もそう言う事は出来ない様になってる。だけども知らない。考え方と言う世界の中にどっぷり浸かって居る間は、そう言う事が絶対に分からない。それが在家って言う事です。出家はそう言う物から出る。過去の仏様、全てそう言う風にして、道は本当の在り様がはっきりした。今の人もそうでしょう。そうしないと今の在り様ははっきりしない。
 もっと色んな身近な話をすればですねぇ、ここにこう言う物がありますが、チーン!(おりんを打つ)今音がした。チーン!音がした。こう言う風に音を出した時ですねえ、チーン!さっきの音は、チーン!聞いてられないんですよね。さっきの音は聞いてられない。さっきの音をと言っても出て来ないんです、どんなにしてもさっきの音は。どんなに長い時間生きて居ても、さっきの音は二度と出て来ない。チーン!聞くのは必ず今してる音だけです。ところがそう言う風に成ってないよ、多くの方の生活は。何でそうなっちゃったんだろうね。さっきもあーだった、こーだったって話ばっかりでしょう。
 ニュースって言う話だって、ニュースって皆古いですよ。ニュースじゃないですよ、もう。黴の生えた様な物しかやってない。出家って素晴らしいね。そうすると幸せって言う事が、今の様子にふれると良く分かる。安心が行くと言う事も良く分かる。疑いが取れる、争いが無いと言う事、全ての事が今生活してる中に全部具現されてる。これからやるんじゃない。これからそう言う風になるんじゃなくて、皆今の様子の中には、そう言う事がはっきりしています。そう言う道を釈迦と言う方は歩まれた方です。だのに、自分のこうやって今の様子に、本当に人は触れないですねぇ。後世、其処まではっきりした在り方を歩んだものを仏道と言っております。或いは仏教と言っております。
そこで、インド西天ですね、二十八代、達磨様までですね。東土六祖って言うのは、大鑑慧能、六祖大鑑慧能禅師迄の事ですね。「伝仏心印、」仏心印って言うのは、今申し上げて居る様に、各自の真相です。自分自身のまあ、仏教用語か禅語か知りませんが、本来の面目とかって言う様な言葉もあります。自己とはなんぞやと言う問いに対して、かくあると言う事がはっきりしたものでしょう。ねぇ。古今東西、自己と言うものが如何言うものかって言う事を本当に学ぼうとする者は、最高の学問とされてるんでしょう。最高の学問の様子の中に、宗教と言われる表現があるのでしょう。根本の教えです、宗教。根本の教えって言う事は、誰でもがそれを抜きに生活する事が出来ないものだと言う事が宗教です。だから私は無宗教だって言う人が居ても、それは宗教って言う事が如何言うことか知らないから、自分でもちゃーんとそう言う道を歩んでいても、宗教と言う事をやってないと思ってるのね。
 音がしたら、必ずその音のしてる通りにしか成らない様になってる。自分でどんな思い方をしても、鐘が一つこうやって鳴るとですね、自分の思い方でですね、音色を変える事は出来ない。チーン!聞いた物に対する自分の思い方を変える事は出来てもですよ、チーン!この音色を変える事は出来ない。如何してもこう言う風に鳴ると、誰でもこう言う風にこれを抜きにした生活は出来にない。チーン!聞かない様な生活は出来ないって言う様な事が宗教なんですねえ。そう言うものが「伝仏心印、」って言う風に、まあ言葉ではなるのでしょう。仏心印。判子ですから、太鼓判みたいなもんで、間違いの無い正しさですね。そう言うものを伝えてる。そう言う人達が沙門と言われている訳ですね。「尽是沙門。」元々だから出家って言うのは、インドでは沙門求道者なんですね。原語の方で言うと。一般の生活をしている人とちょっと違うなって言う区分をされた言葉でしょう。生活の為、生きて行く為に、仕事をして賃金を得ている様な事をしている人と、この修行している人達はそんな物はどうでも良いんですね。それ位違う方向に居るから、ちょっと区分けされたんでしょうねぇ。そう言うものを沙門と言っているでしょうね。
 「蓋以巌浄毘尼、方能洪範三界。然則、参禅問道、戒律為先。」この戒律って言う物を、こうやってサラッとこう過ごしてしまえばそれで終わるんだけども、お釈迦様がって言うかねぇ、まあ名前はそうして置きたいんですが、お釈迦様が最初にどう言う戒律を守ったのか、或いは立てられたのか、或いは人に授けたのか、教えたのかって、恐らく最初の頃には、沢山の物は無いと思います。法律でもそうでしょう。色んな不祥事が起きると、それに対してこうすべき、ああすべきって言う物がドンドン増えて行くけど、一番最初はどうしなきゃいけないって無いんでしょうねぇ。だから出家をする時に、こっちおいでって、そうやって呼びかけて終りですからね。出家したい人、善来比丘と。こっちおいでって言って、頭ちょっと撫でる。それで出家の仲間になるんです。
 ところが私らが習ったのはね、男性は二百五十戒とか女性は(348か)戒律があるって言って、それで今でもだから、東南アジアの方に伝わってる上座部の世界なんかでは、この戒律を先ず守らなきゃならないから、毎日リーディングですねぇ。二百五十の戒律を諳んじるのに読むわけじゃん、毎日。そうしないと何を守って良いか分からなかったら、守れませんから。そう言うのはさっき出てたでしょう。振り返って。私もだから、その二百五十の戒律を細かく読んだ事が無い。エーお坊さんなのにって自分でも思ってる。戒律を受けてない。大丈夫かなと思いますけど。
 戒の方は、自分自身のコントロールをする内面的な規約です。他人には用が無い。各自自分の中でどういう風に生きて行ったら良いかって言う、自分の中で決める物です。律の方はお坊さんとしてどうあるかって言う物が課せられてる。そして二人以上の集団になってますから、その僧団と言われるお坊さんのグループの中で、お互いどう言う物を守って行かなきゃならないかって言う物が律です。戒は皆さん誰にも用があるけど、律はお坊さんの方だけにある。