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 正法眼蔵 自証三昧 Ⅸ

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「後稍経載、湛堂示疾(後稍載を経て、湛堂疾を示す)。」一緒に修行生活をしておられたけれども、湛堂禅師がその後に身体の不調をとなえられた。そこで学んでる宗杲さんとしてはですね、こんな事を聞いています。「『和尚百年後、宗杲依附阿誰、可以了此大事(和尚百年の後、宗杲阿誰に依附してか、以て此の大事を了ずべき)』」。まあ百年て言うことはあなたが死んじゃった後はって言う事でいいでしょうか。あなたがなくなった後は、私の今この問題になる事をだれに勉強したら解決がつくのか。本当は自分が解決するまで生きてて欲しいって言う事でしょうけど、ねぇ。中々それを許さない。そう言う事があるでしょう。

そこで湛堂さんがその人に、「嘱曰」って事は授けたのでしょうね。こう言う事を言って。「湛堂嘱曰『有箇勤巴子、我亦不識他。然雖、你若見他、必能成就此事。你若見他了不可更他遊。後世出来参禅也。(湛堂嘱して曰く、『箇の勤巴子といふもの有り、我もまた他を識らず。然りと雖も、你若し他を見ば、必ず能く此事を成就せん。你若し他を見んよりは、了に更に他遊すべからず。後世参禅を出来せん)』」

エー園悟克勤という人、勤と書いてありますがゴンと読んでる、今は。園悟禅師と言う方がおられる。勤巴子と言うのは園悟克勤という方です。少し禅書に堪能な方は碧巌録と言うものをご存知かも知れません。碧巌録はこの園悟禅師の手によって出来ています。禅宗の三大著書として、無門関、碧巌録、従容録と言う大体この三つが禅宗では珍重されています。

まあそう言う経緯もありますが、兎に角湛堂さんはこの園悟禅師に会った事はない。面識もないんだけども、何かを見て何かに触れてこの人はすごいと言う事知ってるというんですね、やっぱり。この人以外にあなたが私が亡くなった後、ついて学ぶ人は居ない。他所に行ったら駄目だとまで言っておられる訳です。有難いですよね。探さずに済む。あっちゃこっちゃ色んな所探さずに。この眼のちゃんとした湛堂さんがお墨付きの人だ。この人ならば間違いない。あなたの今問題になってる事を解決する指導を必ずしてくれるから其処に行きなさいと言っておられる。

今私達はものを学ぶ時、じゃ何処へ誰についたら良いかって尋ねる時に、誰が何処へ行ったら良いって示してくれる様な人、どれだけいますか。これだけネットや色んな物がこう盛んで、世界中が開けっぴろげられて、情報が行き来してる中でですよ。それだのに何処へ行ったら、私ら弟子が出きたりなんかした時に、修行何処へ行ったらいいですかって。

修行寺は幾つかありますよ、曹洞宗でも30近く。だけど何処の寺に修行に行ったら良いかって言われた時に、即答できる所がない。道場はある、人も居る。だけどもって言う様な事は。それは別に仏道だけじゃないじゃないですか。色んなものを本当に学ぼうとする時に。そう言う事がどこにでも見受けられるんじゃないですか。まあそう言う時にこう言う事があると有難いね。

「この一段の因縁を検点するに、湛堂なほ宗杲をゆるさず、たびたび開発を擬すといへども、ついに欠一件事なり。補一件事あらず、脱落一件事せず。微和尚そのかみ嗣書をゆるさず。」だから幾ら頼まれても嗣書を授ける事が無かった。湛堂と言う人は立派な人だと言うんですね。あの手この手を使って嗣書をくれって言って誘惑するんだけども、一切そう言う誘惑に組せずにですね、清廉潔白。仏道の本来の在り様をですね、貫き通した。

これだけやられるとですね、可哀相だからまあやるかって言う様な事になるのよ。段位が上がって来るのでも見てごらん、何段とかって。十段位あると六段以上だと大概もう名誉職ですからね。ドンドン上がって来ますね、積むの。ねぇ。実力は五、六段が一番有るのでしょう。教授よりも準教授の方が実力があるでしょう、大学でも。悪いけど。

「『なんぢいまだしきことあり』と勧励する」まだ駄目だって言って励ました。勧める。「微和尚の観機あきらかなること、信仰すべし。」これは最初の微和尚の話ですね。「『正是宗杲疑処』を究参せず。」ああやって途中で自分の欠点、一番大事な処に欠落してる処をこう気づかされたにも拘らず、また何時の間にかその事は放っといて、所謂博学の人の様なものの学び方に流れてしまう。「脱落せず、打破せず、大疑せず、被疑礙なし。」それ位人間て、この本物を自分で触れて自覚するって言う事はないがしろにされやすいんだね。

さっきの話を持ち出せばですね、録音して来た鳥の声を聞いて、本物だと思ってられる位の事ではにですか。録音したの聞かしといて、山行って鳥の声聞くと、あ、録音と同じだって言う人が居る。エー。どっちが本物だ。あ、録音と同じ様に鳴いてるって。全く捉え方が違うよね。それ位基準になるものがですね、そのバーチャルの方が本物だと思ってるのよ。だからこうやって宗杲禅師もですね、自分の欠点があるにも拘らず、いつの間にかそれを問題にしなくなっちゃうんですねぇ。

大勢の人にちやほやされてですね、自分のそこの至らない処なんかやらなくたって一生済んじゃうもう。肩書きがあって、良い地位にいて、皆から大切にされてちやほやされれば、百年位すぐすぎちゃうよ。そう言うもんでしょう。

「そのかみみだりに嗣書を請ずる、参学の倉卒なり、無道心のいたりなり、無稽古のはなはだしきなり。」まあ滅茶苦茶ひどいねぇ、道元禅師。人をこき下ろす段になると、この位もうコケにする。立ち上がれない位言われちゃった。この位言われると、もうすごいね。こうやって奮起させるんですよね。本物を求めなさい。これ昔の様に書いてあるけど、今此処で、私達は自分の事としてこれを学んで行かなければ意味がない。はっきりしないにも拘わらず、ただその証となる嗣書って言うものを欲しがるって、これは、って言ってるのですね。

「無遠慮なりといふべし、」まだ続くね。エー「道機ならずといふべし、疎学のいたりなり。貪名愛利によりて、仏祖の堂奥ををかさんとす。」こうこんなに、まあ滅茶苦茶ひどいねぇ。どれを取り上げても。エー、道元禅師がいかに清廉潔白な人だったかって言う人柄が、こう言う文章を読むとわかる。

かって自分の弟子が鎌倉の北条の所に行って話をした時にうまい話があって、お寺になんか寄進をすると言う様な話を頂いて帰って来たのでしょう。だけどその方は得々として帰って来て、道元禅師に報告をしたら、その人の修行してる、自分の坐ってる単と言われる、この白雲閣でも高い所へ坐ってますね、あの坐ってる一画を切り取って、そして下の何尺か土を掘って全部捨てたって。それ位道元禅師って言う方は、そう言う事に関しては清廉潔白に人だったって言う。これは逸話じゃなくて実話として残ってる。
普通の人だったら、よくやった、永平寺もこれで助かるって言って、喜んでそれを受け入れるんだろうけど、そう言う仏道に関しては、道元禅師って言う方は微塵も世俗のそう言う温情を入れない人だった。ねぇ。そう言うのがこう言う先輩から学んでるのでしょうね。

「貪名愛利によりて、仏祖の堂奥ををかさんとす。あはれむべし、仏祖の語句をしらざることを。」自証三昧、自証自悟と言う句があるけども、真意はそんな自分勝手な物を知るって言う内容を言ってるんじゃないって言う事ですね。
「稽古はこれ自証と会せず、万代を渉猟するは自悟ときかず、学せざるによりて、かくのごとくの不是あり、かくのごとくの自錯あり。」さっき来ずーっと話してきてますけども、何回も繰り返しますけども、本当に自分自身の様子にこうやって触れてみると、朝から晩まで、ただ、この自分の頂いている自分自身の身心の活動以外にない。それはもう決定的なんでしょう。誰でも。

色んな物見るんだって、この自分の身心を借りて見た物だけですよ。色んなものを聞くって言ったってこの身心を借りて聞くだけですよ。全てこの身心を借りて、今、そのものに触れて事が成り立ってるだけですよ、一日中。一切他の人の活動は無い。何回も申し上げますけど。分かった様な、分からない様な話でしょう。

だって私は是だけだと思うから、どうしても是だけが私だと思う。こっちに居る人は私じゃない、外に居る、向こうの人だって。じゃそう言う思う事は誰がやるのですか。そう言う風に位置づけてるのは、誰がそう言う風に位置づけるんですか。誰か他の人が、是が私で、これは余所の人だって、そんな事誰も他の人がやってませんよ。みんなこのものの中でやってる事ですよ。あの人は良い人だ、この人も良い人だ、あいつはって、そうやってるのも、みんなこのものの中でやってる事ですよ。

それ位丁寧に触れてみると、本当にこう言う事が、稽古はこれ自証なりと言う事じゃないですか。古をうやまう、稽古。お稽古をするって言うのは、自分の生まれてから後につけた癖を、一切無くなるまで物事に親しむって言う事が稽古でしょう。茶道にしても華道にしても弓道、剣道、あらゆるものがそう。万代、よろずですよ。エー渉る、それから猟をするんですけどね。それを何だろう、眼を通して獲得するって言う事ですかね。

だってこんな難しい文章だけども、平たくこうやって言えばですよ、皆さんが知ってる物って、全部自分で見たものだけですよ。エーそうでしょう。自分で見たものだけでしょう。ああ言う物がある、こう言う物があるって知ってるのは。自分の目で見ない物は、ああ言う物がある、こう言うものがあるって無理でしょう。そう言う事ですよ。万代、よろず。

自悟ですから、自分ではっきりしてるでしょう。人に聞く用がないでしょ。こうやって物に触れた時に、どうなってるって。見りゃちゃんとその通りになってるんだもん。その通りになってるから、人に聞いてどうかしなければはっきりしないなんて事、一切無いでしょう。の、筈なんですよ。筈なんだけども何故か人に尋ねて聞くと、やっと分かった様な気になる。

停電で真っ暗になると、面白いなって思う。あの真っ暗の中でもですね、食べ物を鼻に持って行く人は居ない。ちゃんと口に持って行って食べてる。何も見えないって言うんだけど、面白いね。自分の様子って言うのは、あんなに真っ暗になると本当によく分かる、一切他の人の様子が無いって言う事が。明るいと何か他の人の様子がある様に見えるんですよ。真っ暗になると本当に自分の様子ばかりですよ。で自分の様子って言うのは、真っ暗な中で、ものすごいはっきりする。見えないんじゃないんのね。真っ暗で見えないんじゃない。真っ暗だともの凄くはっきりする。不思議だね。

「学せざるによりて、かくのごとくの不是あり、」本当に学ばないから、そう言う風にはっきりしないだけじゃないって、言ってるんでしょう。かくのごとく誤り、自ら取り違える事がある。かくのごとくなるによりて、そう言う事だから、エー宗杲禅師の門下には「一個半個の真巴鼻あらず、」ひどい事になってきた。この大慧宗杲さんも流れを汲む者の中には、本物は育たなかったと言う事になると、こう言う風に位置づけておられる。

最初が駄目なら次も駄目って言う事に何故なるのかって言ったら、駄目な人が許すって言う事は駄目でしょう。はっきりしない人が、人をはっきりしたって許すって言う事は変でしょうって言う事でしょう。許された人も何で許されたか分らないまま、許されたって言って受け継いで、次の人に受け継がなきゃいけないからって、なんだかよく分らないけど良しって言って次の人に渡して行く様な事になったら、本当に何がなんだか分らなくなるって言う様な事が、道元禅師の時代に既にこうやって道元禅師が実感しておられるのね。

「おほくこれ仮底なり。」ケチって面白いね。こう言うカナがふってある。「仮底なり。」真実でない事ってなってますから、ケチってそう言う違った字を使うといいかも知れない。あの人ケチだねって、真実でないっていいかも知れない。

「仏法を会せず、仏法を不会せざるはかくのごとくなり。只今の雲水」今の修行してる人達、「かならず審細の参学すべし。」自分自身の事だから、宗杲さんの様な過ごし方をして良しとしてはならない、と言うんですね。自分自身の事だから、はっきりしてるかしてないか位はよく分るでしょう。何がはっきりしてるのか、何がはっきりしてないのかも、自分でよく分る訳でしょう。「疎慢なることなかれ。」愚かに、そして高慢て言うか、自分勝手であってはならない。

まだ続くね。「宗杲因湛堂之嘱、而湛堂順寂後、」先ほど話しが有った様に、自分が亡くなった後はどうしたら良いかって言う事に関して、湛堂さんが示した通りにですね、って言う事ですね。「参圜悟禅師於京師之天寧。」エー其処に圜悟禅師がおられるので、圜悟禅師に参禅をされた。「圜悟一日陞堂、宗杲有神悟、以悟告呈圜悟。」これは宗杲禅師が自分で気づいた処が有って、自信をもって圜悟禅師の処に行って、こんな様子です、こんな事がありました、こんな風になりましたって言う様な事を申し上げたんでしょうね。

それを聞いて、圜悟禅師が「『未也、』」届かない。未だそれでは駄目だ。「『子雖如是、而大法故未明。』」色々あったり、そうやって言うけれども、未だはっきりしてないねって言われちゃった。

ここで一つ皆さん方と問題提起ですが、人に駄目だと言われて退くのか、人に良しと言われて納得するのか。或いは人に良しと言われ様が駄目だと言われ様が、狂わない程確かなものが自分にあるのか、言う事が問われるんじゃないですかね、一つは。そう言う力があるから、本当は圜悟禅師の処に赴いて、自分の内面を露呈して、そしてお互いに腹を割って話し合う。そうすると、成る程という様な事が伝わるのでしょう。そこまで腹を割って全部さらけ出してやらない事にか隠し事が少しでもあったら駄目でしょう。

「又一日圜悟上堂、挙五祖法演和尚有句無句語。宗杲聞而言下得大安楽法。又呈解圜悟。」自分の心境を歌に綴って示された。「圜悟笑曰、『我不欺汝耶』」欺かざらんやって言う事は、本当にやれたかどうかって言う事をはっきりしているって言う事でしょう。はっきりしていれば私は許すけれども、はっきりしてなかったら許せないと言う事でしょうね。

こう言う出会いがあって、湛堂和尚さんに紹介をされた圜悟禅師にお会いになって、やっぱりこの圜悟禅師って、湛堂師匠が後あそこに行きなさいって示されただけの人物だって事を実感したのでしょうね。騙せなかった、圜悟禅師を。宗杲さんの色々な技能を以ってしても。それでここにある様に、「これ宗杲禅師、のちに圜悟禅師に参ずる因縁なり。」離れられなくなった。

「圜悟の会にして書記に充す。」共産国に行けば書記長ってすごい位置ですが、私達の書記って言うのは記録係と言っていいのでしょうかね。記録は大事ですから、後代の人の為に記録をちゃんと残さないといけない、重要な仕事なんですね。間違った記録をすると次の時にえらい事になるから、間違わずに正確に記録を残して行く。

「しかあれども、前後いまだあらたなる得処みえず。」道元禅師がこの宗杲さんの事をこうやってつついみると、圜悟禅師に出合った後もですね、あれ以後それらしくはっきりしたって言う様な事が何処にもこの見あたらないとおっしゃってる。
「みづから普説陞堂のときも得処を挙せず。」今度は圜悟禅師の所を去って、自分で一軒を構えて人のために法を説く様になった時もですね、自分の今迄の中でこう言う事があってはっきりしましたって言う様な事に一つも触れた事がないと言っているのですね。

「しるべし、記録者は」圜悟禅師の歴史的な文章を残した、記録をした人達は「『神悟』せるといひ、『得大安楽法』と記せりといへども、」そう言う風な事が書いてあるけども、「させることなきなり。おもくおもふことなかれ。」書いてあるけども、実際にはそこまで行ってないって、道元禅師は大慧宗杲さんを評価しております。評価じゃない批評しております。批判しております。

何故こう言う事が、こんなに正法眼蔵の中で残されたかって言う事を考える時にですね、自分の後を本当に学んでちゃんとして頂く為には、ここがはっきりした人に継いで貰わないと駄目だと言う事が、道元禅師にあるからでしょう。程々の人って言うのは一杯いるんじゃない、学問をして。

ちょっと余談をしますが、私の幣師は小学校出たか出ないか位の学問しか無い様な人で、私が小さい頃、親ですから父親ですから、膝の中でよく人の話をしてるのを聞いてたんだけど、うちの父ちゃんは何でこんな父ちゃんの所へ人が来るのかなって思う。それ位学問の非常に優れた人達が多かった。僕はあんまりそう好きでもなかったけど、そのうちに段々東大、京大、九州大、北大、国立の大学出てる様な双そうたる人達が私の師匠の所へ参禅に来る。何を学ぶんだ。エー。小さいながらもおもいますよ。

で私の師匠の寺は檀家が二十軒かそれ位しかない様な、破れた様な小さな寺で、当時はこの位の建物しかない、寺が。こんな中に五人の子供が居て、一般のお寺さんから修行に来てる人が十人位はいたと思う。そう言う人達がこんな狭い所で暮らしてるんですよ。もう立派なお寺を捨てて修行に来る。吃驚。

中には臨済の方なんかは余所の師匠さんの所で、要するに印可といわれて、免許証がきちっと出されてる。そう言う人が参禅に来る。もう終わったんじゃないの、修行がって、ね。完全に終わってる筈。そのために出してる訳だから。そう言う人が修行に来るって何だろうって。そう言う中で小さい頃育った。それは不思議な縁ですね。そう言う所に産み落として貰って、知らない内にそう言う中で育った。今思うと、それは有難い事ですね。

「おもくおもふことなかれ。たヾ参学の生なり。」こんなに言われちゃうとかわいそうだね。これは道元禅師のお言葉だから、皆さんが自分が道元禅師になった様に、こんな風に使わないで下さいよ。ねぇ。道元禅師はこれだけの事が言えるだけの力がある。人の褌で相撲を取っては駄目、ね。

道元禅師がそう言ってるから、臨済はつまらないって、曹洞宗だから臨済はつまらないって言ったら、笑われる。そうじゃない。本当に言いたい事は、ちゃんとした眼を開きなさいって言って勧めてくれてるって言う事だけが、私達に必要な事でしょう。このとおり行ったら、今の臨済宗は全部、そう言う感じじゃないですか。あんな所に行って学ぶなって言う風に受け取れちゃうじゃないですか。そんな事になったら、本当に何だろう、大変なご迷惑をかけるから、それは今の人がどれだけ臨済の真意を復興してる人が居るかって言う事にかかるじゃないね。曹洞宗も同じでしょう。エー思うことなかれと言われる言葉の中には、そう言う受け取り方をして頂く必要があろうかと思います。

エーまあその辺で。時間ですから。
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 正法眼蔵 自証三昧 Ⅷ

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まあ暫くそう言う時をすごして。あちらこちら歩いてる時、「遊方のちなみに、宣州の珵禅師にしたがひて、」そう言う方の所に足を留めて、雲門と言う方の残されたものや雪竇と言う方が残された物を紐解いて学んだ。それが「参学のはじめなり。」と。本当に自分自身の事を相手に学び始めたと言う事ですね。「雲門の風を会せずして、」しかしその雲門禅師が残された物を通して、自分がどうあったら、どうあるべきかって言う様な事をこうやって勉強するんだけども、どうもその言われてる所がしっくりいかない。

それで今度は洞山の微和尚と言う人の所にこうやって足を留めて、そこで又学ぶ。どの位の年月か書いてございませんが、そこで学んでいる間に、色々な気づきがあるでしょうから、それを呈示して自分の気づいた事を和尚の所に持っていって話しをするんだけども、いやーそれじゃ未だ未だ、それじゃ駄目だって、中々許してくれなかった。

でついでにその微和尚さんと言う人の人物を紹介するために、芙蓉道階禅師という方の教えを正しく受け継いだ方だと、道元禅師が取り上げて、そこら辺にゴロゴロ居る様な程度の人じゃないというんですね。肩を並べる様な人じゃない。飛びぬけて素晴らしい人だと言う事を一言付け加えてあります。まあそれだけの立派な人の所だから、暫くこうやって居るのでしょう。

「杲禅師、やゝひさしく参学すといへども、微の皮肉骨髄を模著することあたはず。」毎日一緒に生活をしているんだけども、微和尚さんと言う人の様子にこうやって触れているんだけども、何処に本物の様子があるんだろう、自分の学びたいそう言うものが自分でこう見て取れない。「模著することあたはず。」どうしてそういう風になるかって言うと、一番の原因はですね、色んなことを学んでいるもんだから、どうしても今こうやって生活してる事の他に、仏法あるいは禅と言うものがあるって言う風に多分認識してる、

ここに来られる方だって、そう言う方は多分何人かは居るんじゃないですか。或いは当初そう言う風に思っていた人、沢山居ると思うんです。何故かそう言う風に伝わってるんですね。仏教を学ぶ、禅を学ぶって言うと自分自身の今生活してる事の中にその全てがあるって言う風には思っていない。気づいていない。

だから他所に何かそう言う素晴らしいものがあるんじゃないかって言って、そこに微和尚さんが一緒に生活してると、その人の中から何かそう言うものがあるんじゃないかって、こうやって見てるから、結局は自分の事に目を向けなんですね。これ最悪のパターン。何年居ても自分自身に目を向けない。人の様子ばっかり見てる。エーそうじゃないですよね。必ず自分自身の、この身心、身体の様子、心の活動の様子そのものにこうやって触れると、ものがどうなってるかがよく分かる。もう少し申し上げると、他人の事として見ている自分の様子に用があるのです。それが、「人の振りにて我が振り直す。」と言う事です。

そこにこう書いてるでしょ。「いはんや塵中の眼睛ありとだにもしらず。」下にも注釈があると思うんだけども、「六塵の中に仏祖の眼睛があること」六塵の中って言う事は眼耳鼻舌身意って言う六官、人間の備えている六官の働きの中にって言う事です。それ以外の所に、仏祖の眼睛、お悟りを開かれた人達、自分自身の本質を自覚された人達の様子ってのはあるのではない。皆自分自身の中にそう言うものを発見されてる。自覚されてる。そう言う事を知らないと言う事ですね。ちゃんと此処に書いてありますが。

「あるとき、仏祖の道に臂香の嗣書の法ありとばかりきゝて、」私達の教えの中には師匠さんから弟子に正しく法が受け継がれたって言う証のために、嗣書と言うものを受け継いで行きます。お香を焚いてそう言う嗣書を受け継いで、それが教えをちゃんと受け継いだ証明書になるもんだからそう言う話が伝わってるのを聞いて、私にもその嗣書を頂けないだろうかって言って、おねだりに、この大慧の宗杲禅師が微和尚さん所に来るわけですね。

だけども「しかあれども微和尚ゆるざず。」「つにいはく、」それだからどうしたって言う事になるのですかね。その時に微和尚さんがこう言う事を言ってる。「なんぢ嗣書を要せば、」嗣書が本当に欲しいんだったら、いい加減な生活をするな。いい加減に生活をするな。「倉卒なることなかれ、」ですね。「直須功夫勤学すべし。」今すぐに此処でしっかりと功夫勉強して修行しなさい。そうすれば授けると言う事ですね。

「仏祖受授不妄付授也。「(仏祖の受授は妄りに付授せず。)いい加減な事で証明書は出さないよ。大学の入試の問題もありましたけども、経歴詐称と言うな事はあってはならない。仏道においてもそうでしょう。

「吾不惜付授、(吾付授を惜しむにあらず、)」決してあなたに嗣書を授けると言う事を固辞してる訳じゃない。残念な事に、あなたがちゃんとそう言うはっきりした眼を備えてないから、上げたくても上げられないと言っているのですね。温情にほだされてあげることをしたら、大切なものを皆根こそぎ崩して崩壊してしまう様な事になる。取り返しの付かないことになるから、私にはそれは出来ないというのが、微和尚さんの真意でしょう。

ときに宗杲いはく、「本具正眼自証自悟(本具の正眼は自証自悟なり)、」元々備わって正しいものの見方って言うものは自ら証し自ら悟る、人からどうこうされる様なものじゃないじゃないかって言う様な屁理屈を言っておられるのね。「豈有不妄付授也(豈に妄りに付授せざることあらんや)」だからいい加減なみだりにくれって言ってる訳じゃないですよ、って言う様な事を微和尚さんに言った時に、微和尚さんは「微和尚笑而休矣(微和尚笑って休みぬ)」って言う。
この笑い、笑みはどういう笑みを含んでいるかって言うと、やっぱりそうかその程度しか分かってない、しょうがないなぁって言って、失笑ですね。思わず笑いを漏らすんでしょうね。まだ続くんですね。この大慧宗杲さんの様子がずーっと長くこのあと続いていきますが。

「のち湛堂準和尚に参ず。」ここを諦めたののでしょうね。機縁がかなわなくて、しょうがないから他所に又歩みを進めて、この湛堂さんの所に参禅をされた。

「湛堂一日問宗杲云、『汝鼻孔因什麼、今日無半辺』。(湛堂一日、宗杲に問うて云く、『汝が鼻孔什麼に因ってか、今日半辺無き』。」こんな質問をされるんですね。いつもちゃんとした顔に鼻が付いてるんだけど、今日は半分しかないけどどうしたんだって。何を云われてるか、もう本当に皆さんだってこんな事言われたら、何だろうと思うんじゃないですか。ものが分らないとこう言う質問されると言葉に騙されてですね、自分の様子をすっかり見失うのじゃないですか。

ものがはっきりしてたら、色んな質問されたって、自分の様子を見失うって事はないでしょう。そう言うもんでしょう。言葉について行くから。人間てそう言う所が非常に強いじゃないですか。綺麗だねって言えば喜ぶ。汚いねっと言うとプッと、顔が人相が変わるじゃないですか。それぐらい言葉によって。自分の素晴らしさを本当に知ってる人は、そんな言葉に左右されずにこのまま居れるでしょう。どうでしょう。

「杲云、『宝峰門下』」これ山の名前ですかね。宝峰山。何であなたの門下だからです、と言う様な事を言うのですかね。あなたの門下だから鼻が半分だ。で「湛堂云、『杜撰禅和』」とせんとかありますが、ずさんと読むと今の人にはわかるでしょう。物事が杜撰だとかって言って使われているのね。ものが良く分ってないなぁって言ってる。

更に又何日かたったのでしょうかね。「杲、看経次、湛堂問、『看什麼経』」。何を読んでるの?何を見てるの?といったんです。見りゃわかるでしょと言う様な、そう言う返事はないね。そう言う乱暴な返事はないけど、「杲曰、『金剛経』」。金剛経ですって。おお金剛経を読んでるのかって言う事で、「湛堂云、『是法平等無有高下。為什麼、雲居山高、宝峰山低』」。金剛経の中にこう言う事が書いてあるのですね。この法は平等にして、高いとか低いとか言う事が無いのだったら、何としてか雲居山は高く宝峰山は低いのかって。金剛経の中に、全てのものは平等にして上下がない優劣がないって言う事が書いてあるんだけど、どうしてあっちの山は高くて、こっちの山は低いのかって、こう言って問われた。

皆さんはどうですか。全てのものが平等で平らにこうなってるんだよってちゃんと念を押しといてですよ、どうしてあっちの敷居はたかくこっちの敷居は低いのかって言うんでしょう。そうすると前に経に書いてある事を言われてる事がですね、頭にこびりつくもんだから、そこから高いとか低いとかって言う事が言われるとですね、困るね。お経に書いてある事と違う事になるじゃないですか。高い低いが無いのが仏法の様子だって書いてあるのに。どうしてあっちが高くてこっちが低いって。確かに高い低いはある。同じだとは言えない。困るんだろうね、それ答えるのに。

エー、で、宗杲さんが「是法は平等、無有高下」そう答えておられますけども。それに対して湛堂さんが言うのに、「你作、得箇座主」文字に書いてある講釈はできるけれども、やっぱり駄目だなぁ。確かに文字に書いてある事は、「是法は平等、無有高下」って書いてあるから、そう言う事を言ったでしょう。それは尋ねてる事に関して言えば、ものがよくわかってないと言う事でしょう。ただ文字に書いてある事を其の儘意味として取ってるだけ。その位の力しかない。

「使下(はせしむ)」と有ります。そこから離れて行く、下って行く、下がって行く。下がりなさい、あちらへ行きなさいって言う事ですね。まだ続くんですよ。この湛堂さんと言う人が、いかに大慧の宗杲さんと言う人を育て上げようとしているかって言う事、それから大慧の宗杲さんもくらいついてる様子があるんだけども、ことごとくかなわない。

「又一日、湛堂見於粧十王処。問宗杲上座曰『此官人、姓什麼、』」十王堂ってこの辺にもあるのかしら。私らの所にも十王堂がある所がありますが、十人の官人がこう並んでる、そう言う建物がありますが、まぁ立派な人を其処に置くのでしょうね。置いて拝んでるって言う様な事なのでしょう。

その方々の装いを粧う所を見てって言うんだから、お掃除でもしておられたんじゃないですかね。其処に湛堂さんが通りかかって宗杲さんに訪ねた。此の人たちの姓はなんていうんですか。「杲曰『姓梁』」。梁って言う姓ですよって言っております。

「湛堂以手自摸頭曰」頭をこうやって(なでる仕草)やったって言う事ですかね。湛堂さんが自分の頭を手でこうやってそして『争奈姓梁底少箇幞頭』。私も梁と言う姓なんだけどもって言うんですね。自分の頭にはこうやって手で触ってみるとですね、そこに十王堂に祭ってあるやつには皆帽子が被せてある。だけど私の頭にどうして被り物が無いのかって言ってるのですね。同じ梁と言う姓なのにって。面白いね、こう言う質問をするのね。

で、これに対して宗杲さんが、『雖無幞頭、鼻孔髣髴』。頭に帽子は無いけども、鬚はフサフサしてるじゃないかって言う様な事言っております。そんな事は聞いておらんと言ってるのでしょう、湛堂さんは。皆さんがこう言うやりとりを聞いて、禅問答は木に竹を接ぐが如し言う風になるんです。何をいってるか問われているものと答えるものが全く違う脈絡に成っているから。読んでも分からんて言うでしょ。こう言うの禅問答って大概皆さんそう言ってます。

どうしてそんな風に相手の言ってる事に答えることでギャップが起きるのかね。それは相手の尋ねてる真意が分からんからじゃんね。だからちゃんとした答えが出来ないって言うだけの事じゃん。経論の学生として勉強してきてるもんだから、本当にやっぱり言葉にもう翻弄されるね。

向こうは帽子を被ってる、こっちは何でかぶってないかって言うと、その何故かぶってないかって、この何故って言う字はですね、見事に皆さん方の心を引っかき回すんですね。たちまち分からなくなる、何故って言われると。どうしてだって言われると。理屈を考えるんでしょう。理屈を考える前に、このとおり、こっちは無いだけじゃん。あっちはあるだけじゃんない。

何であの花は白いんだ、何でこの花は赤いんだって見えるんだって、理屈を考えるから難しくなるじゃないですか。その理屈が分からないと答えにならないと思うから、一生懸命考えるわけでしょう。どうして、何故かって言われると。これがあの見事な問いの発し方ですね。

で子供と話てるとよく分かる。これ、何回も使いますけど、子供達は大人に対して、何故どうして何故どうして何故どうして何故どうしてって言うと、必ず大人は手を上げて万歳ですね。答えられない。自分が生まれてから後学んだ事だけは答えられる。それを全部喋り終わるともうその先は無い。ね。

子供はその先を知りたいじゃない。本当にどうなってるかって。だって大人が答えてる様な事は、コン!(机を扇で打つ)こうやった時に、何故こう言う風に聞こえるのって、大人に子供が質問する時に、こう言う風にコン!聞こえる事はわかってるんですよ、子供は。

ところが大人はコン!こうやって子供がですね、何故こうやってやると、コン!こう言う風にきこえるのって、子供が大人に訪ねた時、分からないと思ってるじゃないですか。だからこれを説明して、コツンて言うからコツンと聞こえるんだと、色々一生懸命説明するんだけど、そんな事は子供だって百も承知。そんな事を聞いてるんじゃないですね。それで大人が参るじゃないですか。だから子供と遊ぶといい修行になる、力がどれだけ自分にあるか、よく分かる。

結局は自分は人から聞いて鵜呑みにしてる様なものだけを弄んでるだけだと言うだけじゃない。本当に自分で自覚した内容がないと言う事じゃない。人から貰ったものじゃなくて、自分で本当に確信を得てるものが無い。それが無かったらやっぱり力があるとは言わないじゃない。ねぇ。そう言うな所をこうやって見透かされるんでしょう。

「湛堂一日問宗杲云、『杲上座、我這裏禅、你一時理会得。教你説也説得、教你参也参得。教你做頌古拈古、小参普説。請益、你也做得。祗是你有一件事未在、你還知否』」。
大体の様子はですね、湛堂さんが宗杲さんに言われるのに、私の教えてる事はですね、たちどころにあなたは理解をしている。その内容をもう少し詳しく言えば、話をさせようとすれば、ちゃんと話が出来る。参禅をさせようと思えば禅について教える、指導する事も出来る。あるいは古人が残した頌古とか拈古とか言う様な物、文章の内容もですね、作る事ができれば内容を解説する力も十分にある。

「小参普説。」直接面とむかって質疑をやることですね。あるいは請益、老師の前に行って自分の心境を吐露して、吐き出して、それを語るという様な事、まあ全てですね、何をやらしても卒がなく出来る位力があると言って、褒めたかどうかは分かりませんが、一応湛堂さんは宗杲さんに対してそう言う評価をしてます。厄介な奴ですね。本当に。一を言えば、私が一を言えば十を語る位の力を持ってると言っていいでしょう、教える事はないといって良い位厄介な人です。

だけども、だけどこの湛堂さんがですね、何でこんな何回も何回も色んな回答を載せているけども、許さなかったって言う事があるかって言うと、「『祗是你有一件事未在、』」それだけあなたは何でもこなして出来るけれども、残念な事にこの事に関してコン!だけはコン!お前よく分かってないなって言われたのね。ねぇ。

そしたらその宗杲さんがですね、『甚麼事未在』何が何事か未在なる。一体何が私の中で不足なのか。何処が、この一件の事って言うんだけど、この一件の事、この一件の事って何だって言ってるんですね。だってお前こうやって訪ねた時に、そんな事も分らんのかって云われる訳でしょう。そこまで追求された時に、自分でやっぱり自分の中にはっきりしないものあるって気づいてたじゃない。

もっとひどい事を言えば、どんなにものを理解出来てですね、きちっと清算できて、人に説明が出来る位はっきり喋れてもですね、本当に大丈夫かって言われると自分の中で動くものがある。大問題じゃないですか。もっと平易な事を言えば、あなた本当にその事実を自分で触れた事があるのか。頭の中でこう言う事はこう言う事だ、こうなってるああなってるって考えて答えが出てるだけであって、本当にそのもの自体にこうやって自分が直接にお目にかかったりする事があるかって言うことじゃない。

見て来なかったって見て来た様な事は言えるんだよね。食べなくたって食べた様な事は言える訳でしょう。今の世の中なんかもっとそれがリアルに出来る訳でしょう。仮想と言われる、バーチャルと言われる世界が横行してる訳だから。実物に触れなくたって、実物以上の知識を人に与える訳でしょう。
録音取ってきて鳥の鳴き声だって聞かせる訳だもん。じゃそれ本物の鳥の声を聞いた事かって言ったら、いやそれはって。録音聞いたって事でしょう。エー。じゃやっぱり自分の中で、コンコンコンコン!(続けて机を打つ)本当にその鳥の声を聞いたってコンコンコンコン!言う事になってないと言う事、知ってるじゃんね。そう言う事ですよね。エーこの一件の事って。コンコン!これが無ければはっきりしないのでしょう、本当は。

「湛堂曰、『你祗欠這一解在。□カ(クワ)』」いいですね、今申し上げた様な事です。カッってコン!カツって、このカチッて言う字なんですね。こんな字があるんですね。国構えの中にカという字。『若你不得這一解、』得なかったならば、この所がはっきりしなかったならば、『我方丈与你説、便有禅、』喋って居る時だけ、あるいは頭の中でそう言うものを取り上げている時だけ、わずかに禅に触れる。そうでない時はもう全くただの人。

坐禅もそうですよ。坐ってる時だ修行ができてる様なものの考え方の人は居るじゃないですか。禅て二十四時間ですよ。必ず今の真実にこうやってそのまま触れている(真実そのまま)あるって言う風な生き方をさせるのが禅を修すと言う事であって、必ずしも形を作って其処に居る時だけが禅じゃない。そう言う人はあの形を作って居る時だけ禅の修行するけど、あれを止めるとただの人と言う事ですよ。これ意味として。

『你纔出方丈、便無了也。』と読んでますね。そうでしょ。ここで話をしてる間はそう言う事が問われて問題になってるけど、もう語る事を止めたらほんとに只の人じゃないか。『惺々思量時、便有禅、』惺々ははっきりしてるんですね。目覚めている時。それを取り扱ってる時だけは、その事にこうやって触れるけど、頭でそう言うもの取り扱ってない時には全く門外漢。

私も学生の頃、ある教授に質問したら、それは今は授業中じゃあないからって言われました。その人に。エーこの人は授業の時だけ仏教を教えたり禅を説くのかなぁって思った。ある大学の教授です。こんな風に勉強してるんですね、多くの人。立派だなぁって思うんだけども、その事から離れたら、全然問題にしてない。吃驚。現代でもそう言う事がある。

『纔睡著、便無了也。』眠ってしまえばただの人。『若如此、如何敵得生死』本当に自分自身の一大事が来た時に、そんな事で対応ができるかと言っておられますね。「杲曰、『正是宗杲疑処』」お話を承れば、本当に私の一番問題になってる処、其処ですって、白状した。

 正法眼蔵 自証三昧 Ⅶ

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自証三昧Ⅶ_01
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2018.10.27   (6月分は後になります。)

393頁始からと言う事で、自証三昧、少し読んでから始めます。

「自己を体達し他己を体達する仏祖の大道なり。たゞまさに自初心の参学をめぐらして、他初心の参学を同参すべし。初心より自他ともに同参しもてゆくに、究竟同参に得到するなり。自功夫のごとく、他功夫をもすゝむべし。

しかあるに、自証自悟等の道をきゝて、麁人おもはくは、『師に伝授すべからず、自学すべし』。これはおほきなるあやまりなり。自解の思量分別を邪計して師承なきは、西天の天然外道なり、これをわきまえざらんともがら、いかでか仏道人ならん。いはんや自証の言をきゝて、積聚の五陰ならんと計せば、小乗の自調に同ぜん。大乗小乗をわきまへざるともがら、おほく仏祖の児孫と自称するおほし。しかあれども、明眼人たれか瞞ぜられん。

大宋国紹興のなかに、径山の大慧禅師宗杲といふあり、もとはこれ経論の学生なり。遊方のちなみに、宣州の珵禅師にしたがひて、雲門の拈古、雪竇の頌古拈古を学す。参学のはじめなり。雲門の風を会せずして、つひに洞山の微和尚に参学すといへども、微、つひに堂奥をゆるさず。微和尚は芙蓉和尚の法子なり。いたづらなる席末人に斉肩すべからず。

杲禅師、やゝひさしく参学すといへども、微の皮肉骨髄を模著することあたはず、いはんや塵中の眼睛ありとだにもしらず。あるとき、仏祖の道に臂香の嗣書の法ありとばかりきゝて、しきりに嗣書を微和尚に請ず。しかあれども微和尚ゆるざず。つにいはく、『なんぢ嗣書を要せば、倉卒なることなかれ、直須功夫勤学すべし。仏祖受授不妄付授也。吾不惜付授、只是你未具眼在(仏祖の受授は妄りに付授せず。吾付授を惜しむにあらず、ただ是你未だ眼具せざることあり。)』

ときに宗杲いはく、『本具正眼自証自悟、豈有不妄付授也(本具の正眼は自証自悟なり、豈に妄りに付授せざることあらんや』。
微和尚笑而休矣(微和尚笑って休みぬ』。


まあ続きますが。エー例えばですね、「自分の事は自分でしなさい、」とまあ、よく耳にする言葉だと思いますが、自分の事は自分でしなさいって言うとですね、ここに如何いう事が一般的に言われるかって言うと、最初に自分の事は、って言った時に、もう既に自分の事と他人の事を分けているって言う事に気づくべきですね。

こうやって生活してますけど、何処までが自分の事ですか、今こうやって。此処に他人が一杯居るんですよ、此処にね。こっちから見ると、他人が一杯居る。この他人が私の今生活している内容です。全部。皆さんもそうでしょ。人のものだと思ってる事を、皆自分の身体の中身として使ってる訳でしょう。

この円通寺さん、今此処に来てると、この円通寺さんを自分の身体の様に使ってる訳でしょ。頭の中では、余所のお寺さんだと言う風に認識はしてるけども、実際にはだれも一人一人が、自分の今居場所として、ちゃんと使ってる。

そう言う事が現実にあるんだけども、自分の事はって言うと、例えば私の家なんかでも、自分の事はって言うと、ご飯食べるとですね、食べた人がですね、自分の茶碗だけ持ってくんです。自分の事は自分でするって。そう言う処にまあ、もののもう少し真意を知って頂きたいと言う事がある。まあそんな様な事が最初に出てくるのでしょう。

「自己を体達し他己を体達する仏祖の大道なり。」本当に大きな様子と言うものはですね、初めっから自他の隔てがない、ものでしょう。とっつきにくいかも知れませんけれども。

あの人がああやってるって、こうやっていると言ってる事は、皆このものがやってますからね。向こうの人の様に思ってる訳でしょう。「他己を体達する」って、自分の身体の事は自分でよく分かるんだけど、人が動いてる身体の様子をこうやって見て、それがああ言う風に歩くんだとか、ねぇ、あんな風に喋るんだとか言う様な事、身体で皆その事が達観できるって言うことは、このものの様子でしょうねぇ。仏道って言うものは、そう言う風に自他の隔ての無い大きな在り方ですね、最初から。

それも特殊な事じゃないですよ。自他の隔てが無いって事は特殊な事じゃない。よく自分にこうやって目を向けて見ると、二十四時間、兎に角この生まれてきた身心、身体の様子、自分自身の身体の様子の活動以外無いって言う事が、明確ですからね。でも騙されている人は沢山いる。どうしても騙される。頭(考え)って言うのは、そういう風に理解する様になってるのでしょうね。

「たゞまさに自初心の参学をめぐらして、他初心の参学を同参すべし。」初心て言うのも良い言葉でしょう。でも初心て言うのは、これも良く触れてみるとわかる様に、何処が初心なのかって言うと、何時でも今の様子が初心でしょうねぇ。今の在り様って言うのは、初めて何時も触れるんですねぇ。生涯そうです。生涯初めて触れる。今の様子に触れる。そう言う風にずーっと生活してる。

ところが似た様な事が何回も行われるもんですから、初心だとは思えないんですね。思えない。それは勉強する時に、考え方を中心にしてものを学ぶって言うのが一般ですから。仏道はですね、考え方を中心にして学ぶ行ではない。実物を相手にして、どうなってるかって事が問われる。
で、生きている実物って言うのは、他の時間帯に無いですからね。自分の生きている実物は、必ず今此処で、自分自身の実物にふれる以外にない。それは見て見ると必ず初心なんですよ。初心て言うのは、色々な事がもっと言われる。こうやって触れてみると、例えば、汚れが付いてないと言う様な事も言えるのでしょう。

一番最初に触れる時に、その相手のものに対して、こうだとかああだとかって言う推測の及ぶ範囲じゃない。それ位一切汚れが付いてない所で活動する様に、初心て言うのは出来ている。その初心がですね、何処へ行くのかわからないけども、コロッと何処にも残らない様にして活動してるね、何時も。これ又見事でしょう。

目一つでもそう。こうやって物を見る、巡らしてこうやって見てる時に、本当に前に見た見方なんて一切ない。必ず今見えてる様子だけです、何時でも。古い見方なんて一切してない。それがどの位人を身心共に爽かにさせるか、一点の穢れも無いんだもんね。払う塵もない。それ位スカッ-として、何時でも今の様子にこうやってはっきりすっきりしている。

ところが頭の方でものを勉強し始めると、あの時ああだったとかこの時ああだったとかって言う思いが、プクプク、プクプク出てきて、それを頭の中に描いたものを相手にして、今見てるものが殆どないがしろになる。ひどい事を言えば、実物より頭の中に思い浮かんだ方が大切な事の様に考えてる。

そしてその頭の中に思い浮かんだ事を、どうしたら自分の気に入る様に整理が出来てすっきりするだろうかって言う、そう言う事をやる事が学問であり、修行であり、仏道だと思ってる人も居る。それは本当に気をつけて勉強してもらいたい。頭の中に浮かんだ事をですね、取り上げて整理する様なものでは仏道はない。

何故かって言うと、今申し上げた様に、実物に触れてみると、整理をする用が無い様に出来てる。で、自分で成る程って肯がえる様に成ってるでしょ。自分の今の事実にこう触れて見ると。整理をしなくても良いって事じゃないですか。

だけどもそれでも思いが浮かんでくるから、浮かんでくるとつい思いの方を相手にする。これは修行にならない。修行をするって事は自分自身の今の真相、事実に本当に親しく居るって言う事です。それを難しい言葉で言うと、非思量って言ってます。考え方でない。そう言うものが修行の在り方ですね。

「自初心の参学をめぐらして」だから自分自身の今の在り様にこうやって目を向けてみると、全ての物が「他初心の参学と同参すべし」今の様子の中には、自と他があるにしてもですよ、ズレは無いんですよね。今の様子の中に自分と他人て言うけれども。ズレが無い。距離が無い。あっちの今、こっちの今なんて言う風にはないじゃないですか、ね。今って言うものの中には本当にズレが無い。向こうと言おうがこっちと言おうがですね、今の様子の中には距離が無い。

頭はそうは思わない。あっちこっちって言うと距離が出来るよね、今の中に。それはそうでしょう。こっち見て、こっち(別の方角)見るんだから、距離が出来るに決まってるじゃん。だけど今って言うのは、こうやって居る様子の中の事を言うんだから、今の中にもあっちもあればこっちもある。自分もあれば他人もある。必ずそれがですね、同参と言われる様にですねぇ、ズレずに勉強が出来る様になっている。

もっとひどい事を言えば、一緒にならなければコン!音だって聞こえないんだからしょうがないじゃない。エー、コン!(机を扇で軽く打つ)物だって一緒にならなきゃ見えないんだもん、しょうがないじゃない。同参ですよね。向こうに物があってこっちって、こっちから眺めて見るなんて言う事はない。

それは物理学の表現を借りてもですね、必ず自分のこの身体に物が見えるって言う事は、光の波かな、そう言う物がこう身体に触れた時に、この自分の中で光の粒がですね、色んな形を作り上げていく訳でしょ。青い所とか白いとか黒い所とか、色んなものがこう出来ると映像になって行く。それが自分の眼の、何だろう、この辺(頭を指して)に何か写るらしい。そう言って学んだけど、そう言う風になってる。

音でもそう。周波数と言われる様に、音が耳に触れて鼓膜がこう振動することによって、初めて音になると言う様な事で、言われている通りです。必ずこの身体と物が一緒にならないと見えたり聞こえたり味がしたり香りがしたりですね、触った様子が分るとか、総てそう。必ず同参なのね。腹が立つのも同参なんだ。(笑)まあそう言う所がこう面白いじゃん。

「初心より自他ともに同参しもてゆくに、」と、初めから自他ともに同参しもて行く。今とズレた生活をした事がないと言ったら、もう分りやすいでしょう。これだけ長い人生を送って来たけども、片時も今の在り様から離れた事はない。何時何処へ行っても、必ず今の自分の様子から離れた事はない。そう言う風に誰も生活してるじゃないですか。

こんなにはっきりしてる事がありながら、頭の中に色んな事が思い浮かぶとですね、全然違う生活になるんですね。この大事な、こんなちゃんとした生活が出来てる事をすっぽかしてですよ、思い浮かんだ事を相手にする。カリカリ、カリカリするじゃないですか。誰も気が付かないから当たり前だと思ってるけども、とんでもない事をしてるよね。間違った。所謂頭の中に描いてる妄想です。

確かに体感した、体験した事かもしれないけども、思い起こしてるって言う事は実物ではないって事を十分知ってる。思い起こした事の中に、その体感した事実がそこに現われるって言う事は一切無い。ああだったこうだったって言うだけの話じゃないですか。

もっとひどい事を言えば、なんで過ぎ去った事を取り上げて、今こうやって生活してる事をほっといて、過ぎ去った事を取り上げて行くのか、実を捨てて滓(カス)を掴んで生きてるって言う事でしょう。それで皆さん方が豊かになれない。それだけの事じゃないですか。本物を捨てといて、頭の中に描いてる本物、本物だと思って扱ってたら、大きな間違いでしょう。その位の事は気づいて頂かないとしょうがないね。

「究竟同参に得到するなり。」ここにも書いてある。行き着く処ですよ。究竟同参に得到する。行き着く処は、今、本当に誰しもが、今のこうやってる様子に生きてるって言う事じゃないですか。その在り様に自分が目覚めたらいいじゃないですか。どうなってるかはっきりしたら。その第一人者が釈迦牟尼仏と言われる、お釈迦様と言われる方です。その内容が仏教と言う風にして伝わって来ている訳ですね。その自覚をされた内容が。それで私達もそれを実践する訳でしょう。

「自功夫のごとく、他功夫をもすゝむべし。」手あたり次第、いちいちその事によって、ものが本当にどうあるかって言う事を学んで行くのでしょう。それで良いじゃないですか。捨てるものは無い、学ぶものに。

私の方も台風の余波で広範囲で停電をしてですね、私の住んでる寺も三日停電になった。山の上からこう見てると、電気のついている家が一軒も無いもんだから、非常に空が綺麗に見える。久しぶりにこんなに、真の暗闇の中にいたの、久しぶりですね。何とも言えない不思議な感じ。

で、隣のお寺の和尚さんが、「電話はかかってくるでしょ」って言われたけど、「電気が止まってるから、電話かかりませんよ」って言ったら、エーって言って不思議な顔してた。今の人は電気が止まっても電話はかかると思ってるのかね。携帯使ってるからかね。よくわかりませんが吃驚しました。

後は車で走ってると、信号機がすべて停電で止まっておりますので、役にたっていない。はじめはやっぱり事故が何件かありましたけども、自分で実際に走ってみて、信号機が電気で止まると、良いもんだなって思ったのがですね、必ずお互いに信号機の所で減速して確認しあって、安全ならば進んでですね、全く相手が来ない場合はスイスイと行けるんです。待たなくて済むのね。普段だって一分位、全然来ないのに信号が変わるの待ってるでしょう。こう言う事考えると、随分素晴らしいなぁって思いました。

一方ですよ、子供達が信号機の所でですね、動かない。動けない。どうしていいか分らない。そう言う風に育ってるって言う事も感じました。自分の判断で行動が出来ない様になっている。皆コントロールされて生きてる様になってるのね。これも発見でしたね。こう言うのも皆現代風に言えば、「自功夫のごとく、他功夫をもすゝむべし。」と言う事になるのでしょう。ね。色んな事でものがはっきりして来ます。

「しかあるに、自証自悟等の道をきゝて、麁人おもはくは」ってありますね。これがさっき話した、最初に話した様に、自分の事は自分でしなさいって言うと、本当に是だけの事しか自分の事だと思わない位、人間は粗野に出来てます。麁人とありますけども、考えの粗雑な人となってますけど、大まかなものの捉え方しかしてない。だから人はどうでもいいって言う風になる。本当に自分の事がよく分ると、人のことなんか無い。そう言うものでしょう。

だって見える物は全部自分の、此処にも色んな物が見えるって言う事は、全部自分で今やってる事だからね。他の人がやって見てる訳じゃない。必ず自分が見てる様子。その自分の見てる様子の中に、色んな景色がある、現象があると、それに従ってちゃんとこれが行動が出来る様になってる。どうでもいいって言う風な事はないじゃないですか。

考え方は自分の頭の中で考えると、あれは私の事じゃないからって、どうでもいいって言う風に、そう言う風に捉える訳でしょう。眼は違いますよ。自分の眼は全部今自分自身で見てる様子だから、それに対して責任があります。これ。人からどうかされるんじゃなくて、そう言う風に活動できる様になってるじゃん、ねぇ。

まあそう言う事だけども、「『師に伝授すべからず、自学すべし』。」ものがよく分らない人はそう言う風に思うわけね。師匠から何かものを学ぶって無い。自証自悟じゃない。自証自悟だったら、自分で学んで人からなんか学ぶ用がない。そう言う風に考えるんでしょうね。それ位自他の見をちゃんと分けている。物を考えてる、自分と他人を分けてる、考えてるものの見方の上から、こう言う自証自悟と言う言葉を学ぶから、とんでもない事になる。

自分を立てといた上からものを見るのと、自分を立てずにものに触れるのとでは、全然同じものに触れても違う。それは日常皆さんもよーく体験してるじゃないですか。自分らしいものが一つも立たたずに色んな物に触れた時は、ものすごくスムーズに色んな大きな活動もするでしょう。ところが自分を立てた上からものに触れると、すぐ好き嫌いが先ず起きる。或いは人のものに対して善し悪しが起きる。そう言う風な事が起きて、でそれが起きると自分の中で動きが非常に狭くなる。鈍くなる。もっとひどいのは全く取り上げなくなる。ね。取り上げなくなった自分を見ると、人ため何もやってあげられない愚かな自分だってのがよく分ると思います。

「これはおほきなるあやまりなり。」と道元禅師おっしゃってますね。そう言う風にものを受け取るって言う事は、本当根本的な誤りだ。「自解の思量分別を邪計して」自分自身の考え方を中心にしてものを見るからそう言う誤った、間違った、ものの見方が起きるんだって言う事ですね。

エーそれで、「師承なきは、」師匠から、だから受け継ぐって言う様な事が、自証自悟だから要らないって言う様な事ですかね。そう言うものの考え方、受け取り方をしてる人はインドの天然外道なり。ものを本当に学んだ事のない、道から外れた、正しいものの在り方から外れた扱いをしてる人達と同じだと言うのね。「これをわきまえざらんともがら、いかでか仏道人ならん。」こう言う事がはっきりしないんだったら、仏道を本当に行じている、学んでいる人とは言えない。

「いはんや自証の言をきゝて、積聚の五陰ならんと計せば、小乗の自調に同ぜん。」何だろう、小乗の人って言うのはですね、自分と言うものを最初に認めた上で、どうあったら良いかって事を勉強していく。だから小乗と言われるんですね。所謂平たく言えば、自分だけ良ければいいって言う位なひどいものの考え方になってる。だから小さな乗り物になるでしょう。大乗って言うのは大きな乗り物、それは全てのものを包含して行く。包んで行く。そう言う違いがある。

だから小乗の人の、ものを、自分を整えるって言うのは、自分の事だけやるのね。だからその辺が汚れていても、自分の屋敷だと思うとこだけ掃除して、そこらに物が転がってても見て見ぬふりして行く様な、そう言うものを積聚って言いますが、ものを修行をして積み上げていく、この身体の上に。そう言う所を見ると大きさが違うでしょう。

お医者さんなんか、どの様な人が来ても、兎に角患者として来たら、差別無く区別せずに次から次へ身体の動く限りは身を尽くしていく。聖職って言われるのは、そう言う事でしょうね。敬われるのは当たり前でしょう。お医者さんなんかね。そう言う意味で。あれが、自分の都合で来た人を診て。この人はって、後にしようとか色々それは嫌でしょう。中にそう言う事もニュースの中で出てくるじゃないですか。地位のある人が先だとかお金を沢山で出す人が先だとか言う様になると、本当に何か寂しいなと思う気もする。

「大乗小乗をわきまへざるともがら、おほく仏祖の自児孫と自称するおほし。」どう言う事が大乗、どう言う事が小乗と言う事がはっきりしない、今申し上げた様に、自分自身を中心にものを考えるのは小乗です。

眼は自分自身のものの見方って言うのは一切持ってない。そこに在ればどんな物でも必ず好き嫌いを超えて、必ずこうやってちゃんと受け入れていく力が、だから大乗です。耳もそうでしょう。自分の好き嫌いで音を聞くことはない。それはどんな音でも、その時音がする物を否応なしに受け入れて生活してる。それが本来の人在り様ですよ。そう言う事を仏道と言うものは示している。

「しかあれども、明眼人たれか瞞ぜられん。」ものがはっきりしている人は、そんな色々な事に騙されませんよって。それはどうでしょう。自分自身の事がはっきりしていれば、騙されなくなるでしょう。そう言う人に皆さんもなってほしい。

ちょっと誰かが自分に対して悪口を言ったら、カアーっとなる様じゃそれは本当に寂しいですよ。耳に聞いてごらん。自分の悪口をいくら私にこう、どんな人が沢山悪口を降りかけてきても、このものはね、一切汚れませんよ。汚れるのはつまらない事言ってる人の口が汚れるだけであって、こっちが汚れるんじゃない。耳が汚れる訳でもない。ただ、ものを知らないとそれに騙されて、何で私の事をこんなひどく言うんだろうって言って、その言ってる人を相手に喧嘩を売る様になる。

だけども、ものをよく見てみると、本当に、音声と言うものは良くできてるね。喋ってる時にしか聞こえないんだからいいね。(笑)エー喋らない時には一切聞こえないんだから、こんな上手く出来てるんですよ。それだのに一度聞いちゃうとですね、喋ってない時にそれが出てきて、何か自分の中がくしゃくしゃくしゃくしゃしてるって言う人が居るじゃない。聞いてごらん。何処にもそんな喋ってるものは聞こえてませんよ。あれ喋ってる時だけ聞こえるんだって、ね。上手く出来てるでしょう。

本当にそうやって生活してごらんなさい。楽だから。何処にも手をつける用がないじゃないですか。喋ってる時はその通り聞こえて、喋り終わると何にも聞こえない。静かなもんですよ。それで何にも不自由ないですよ。何も不自由はないですよ。喋ってないとき聞こえると不自由ですよ。まあそう言うのね。

実際の人物が登場してくるわけですね。大宋国、中国宋の時代の方です。径山と言う所に大慧宗杲禅師と言う人がおられた。この人の生い立ちがちょっと書いてある。もとはこれ経論の学生、経論を学んでた人。経論を学ぶって言う事は、文字に書いてある物を読んでですね、それがどういう意味だとかって言う事を追求していくんですね。

何でその経論の学生って言う風に言うかって言うと、この自分自身をちょっとないがしろにしてるんですね。書いてある事を勉強するんです。本当は経論に書いてある事を勉強するって言う事は、この事(自分を示す)勉強する事でなければ、嘘なんだけども、ここに書いてる事を、ああこう書いてあるああいう事を書いてあるって言って、それを読み取って意味がわかれば良いって言うのが経論の学生なのね、経論を勉強する人。

本当に経論を勉強するようになれば、必ずそんな事から離れて、この自分自身を観る様になる。そうでなけりゃ経論の意味がないじゃないですか。

梅花  Ⅴ-4

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えーそれからもうひとつ、太原の孚上座のお話が、悟道の時に作った詩が出てきます。昔は、悟る前は「憶昔当初未悟時(憶昔当初未悟の時)」角笛ですね、胡笳って言う。

胡笳の一曲「六律にかなわず」って言う事があります。人が亡くなった時、喪狩り笛を吹くと言う様な事かね。ああ言う時の喪狩り笛(蘆の草笛)はですね。音階に例えば、ドレミファソラシドの音階とか色んなものがある。琴なんか六律ですね。六段階の音。いずれにしても、そう言う音階に載せる事の出来ない様な悲しい響きを為すと言う意味ですね。これも多分そうですよね。


「一声画角一声悲(一声の画角一声悲なり。)」どういう事を言いたいかって言うと、響いている音だけでなくて、
その響いてる音を耳にして、自分で色んな事をそこに思い起こして、悲しさを募らせていくって言う事がある。芭蕉葉上愁雨なし、ってありますが、芭蕉の葉っぱの上に雨が降った時に、憂いを含むと言う事は無いって言う句ですね。芭蕉葉上愁雨なし。だけども、時の人聞いてあたかも、ハラワタを立つ、断腸、その芭蕉の葉っぱの上に雨が、こう降ってる音を聞いて、人の別れを思った時に、いたたまれないほどになるって言う句なんですね。それ皆人間の感情の話でしょ、情感。

ここも、未悟の時って言うのは、本当にその笛の音をそのまま聞くって言う力が無かったと言う事です。笛の音にはですね、悲しいとか楽しいとかって言う風になってないですよ。それがわかりますかね。聞いた人が自分の聞き取り方の上で、悲しい声に変えた、変えるんですよ。


食べ物でもよく話すように、食べ物にうまいまずいは無いんです。その味がするばかり。だけど、その味がするばかりだけど、その味がするばかりじゃなくて、自分で美味しいとか不味いとかって言う風につける。花を見てもそうです。花が美しいとか汚いって言う風に花は咲いていません。その通りに咲いているだけです。だけど、それ見た人が、美しいとか汚いとかって言う風につけてる。そこら辺の事、私達は結構曖昧なんですね。ちゃんと見てるつもりなんだけど、ちゃんと触れてるつもりなんだけども、そうじゃない。自分というものが知らないうちにそこに入ってる。

仏道をならうというは自己をならうなし、自己をならうというは自己をわするるなりとあります。さっきも話したけど、自分の本当に無いもの、それ自体に触れている、付け足しもしないし、取り除きもしない、一切手をつけず、その事実だけで本当にその事実がどうなってるかって言う処に、こうやって触れるって言う事を、私達は結構してません。だから花を眺めると、美しいとか汚いとかすぐ談ずる。食べると美味いとか不味いとかって言う事の方が先なんです。その前に、そう言う事の入らない味わいって言うのがあるでしょう。事実があるでしょう。何人も犯す事の出来ない、峻厳、微動だにもしないほど確かな事実がそこに展開されているでしょう。

だから法が大事にされるんです。法をみるものは、仏を見るんです。初めっから人の上の教えじゃない、仏法って言うのは。仏様の教えです。人間の教えじゃない。同じですよ、人がやってるには違いないんだけども、人間の上に、自分らしいものを通して触れていく事と、そう言う事一切なしに直に触れている在り様との違いがある。そこには迷いも苦しみも無い程確かな事が展開されている。それを自分で見届けると豊かになるでしょう。ああ本当に大丈夫だと、このままで。

ここは転句のとこで、「如今枕上無閑夢(如今枕上閑なる夢なし)」今はそんなもてあそぶ様な事はしてない。本当に。ここでは「一任梅花大少吹(一任す梅花大少に吹くことを)」って。ここで吹くっていうのは、笛にかけてるんでしょうね。笛も吹くと言いますから。本当は咲くと言う意味でしょ。縁という意味と殆ど同じです、吹くと言うのは。本当にその梅の花の咲いている様子に無条件で触れている。確かさと言っていいでしょう。今までの疑義が全部っ飛んでしまう位、凄い確かさがそこに展開されているって言う事を、自分の悟った時の様子として詠ったんでしょう。

それで、475頁にその孚上座の事が、所謂夾山の典座に開発せられて大悟したという因縁のものが、補注に出てます。475頁の補注です。孚上座はもと、とあります。


ざっと見てみると、「大原孚上座、揚州光孝寺にありて涅槃経を講ず。」「孚上座はもと講者なり」とありますように、涅槃経の講釈を、内容を講義をしてる人だったと言う事ですね。「游方の僧あり即ち夾山の」ですね。旅をしているお坊さんがおられて、たまたま、涅槃経を話している時に、そこに足を止められた。それは雪が深くてですね、雪にはばまるとあります。寺にありて、だから雪が深くなったもんだからしょうがない、そこに泊まる事になった。そして泊まった時に丁度、この孚上座がですね、涅槃経の話をされていたので、ご自分もそこに連なって、お話を聞いたと言う事です。

それで、話がどんどん進んで行く。「講すること三因仏性、三徳法身」そう言う所に、涅槃経のそう言う所になって、その講釈をしておられるでしょうね。「広く法身の妙理を談ず」。「典座忽然として失笑せり」孚上座が話をしているのを聞いて、思わずこの夾山の典座という方がですね、失笑だから、笑ってしまった。人が真面目に話してる時に、クスって笑うって言うのは、凄いまあ失礼な事かも知れない。或いは喋ってる方としては気になるね。もの凄い気になる。「孚、乃ち目顧して」目で顧みて、その笑った方ちょっと見た。お話が終わって、その夾山をお呼びになった。「講罷りて禅者を請ぜしむ」

まあ、何処からお見えになったとかって言う様な事で、お話になるのですよ、向き合って。その中で問うて「某素智狭劣、文に依りて義を解す。適来講次、上人失笑せらる。某必ず短乏せらるる処あるべし。請ふ、上人説かんことを。」私は話はしてるけども、本当は大した者じゃない。かろうじて、そこに言葉があるから、その言葉を解釈をして話している。そうしている中で、あなたが笑われたから、私の話を聞いて笑われたから、きっと何か私の話している中に、問題点があるんだろうと思うんで、どうぞ、そう言う間違った処があったら教えて貰いたい、指摘をして貰いたいって言って話してます。偉い人ですね。普通話をした人は、人がそんな事言ったら、黙って聞けって言う位、怒りとばすかも知れないけど、自分の事よく知っておられる。

それで典座曰く、「座主問わずんば敢えて説かじ。座主既に問ふ、即ち言わずんばあるべからず。某実に是れ座主の法身を識らざるを笑ひしなり。」私は別に失礼な事をした訳じゃない。あなたが話した、法身の話を色々解釈されているのを聞いていて、全くこの方は法身という事を知らないなあって言う事があって、それでつい笑ってしまったって、こう言ってます。あなたがその様に私を、私が笑ったのを見て、こうやってお招きして、それが私のどっか非があるかって聞かれるから、そこまで言われるんだったら言いますけど、って遠慮しながら言ってますね、夾山。

それに対して、「此の如く解説するに、何れの処か不是なる」私はあの様に話を、法身の内容を説いたんだけど、何処があなたが指摘するよう駄目な処、過ちがあるんでしょうかって、あくまで法に対して親切な勉強ぶりですね、大原の孚上座。それに対して夾山と言われる典座、職をしていた方、「請ふ、座主更に説くこと一遍せよ」もう一回話してください。孚曰く「法身の理は、猶ほ太虚のごとし。竪に三際を窮め、横に十方に亘る。八極に弥綸し、二儀を包括す。縁に従ひ感に赴く。周遍せずといふこと靡し。」って再び説いたんですね。

典座曰、「座主の説不是なりとは道はず、只だ法身量辺の事を識得して、実にまだ法身を識らざること在り」言う事はですね、それらしい事はちゃんと言っておりますけども、まあ、もっと酷い表現をすればですね、本当にあなたはその事を見て来ないのに、見て来た様な嘘を言ってるじゃないかと、こう言う事です。本当に見なくたって、書いてあるものを勉強すれば、私達だってそうでしょ。大体の事は今だって言えるでしょ、勉強して。そう言う指摘です。頭からバチャッとこう否定したい処がこの夾山と言う人の、何だろうね、懐の深さですかね。

さすがあなたはよく勉強しておられて、法身の事をこうやって説いて、上手にお説きになる。それは間違いだとは言わないけれど、あなた本当に法身の真相そのものを、自分で見届けた事があるのでしょうか。誰か人の言ってる話を鵜呑みにして話してるだけ
じゃないのかって、こう言ってる訳ですね。きついとこですね。それでも通るんですよ。通りますよ、それで一般には。だけど仏道の修行するって言う事では、そんな事では許されない。自分の中にも疑義が残るでしょう、人から突かれなくても。


えー、それを聞いてですね、孚上座が言われるのに、「既に然も是の如くならば、禅者当に我が為に説くべし。」だったら、本当の様子をぜひ伺いたい。この時、それだけ指摘した方の夾山が自分にその体験が無かったら、こりゃわやですね。話にもならないんだけど、ちゃんとしてるから、それに対して対応するんでしょう。

典座曰「若し是の如くならば、座主暫く講を輟むること旬日、静室中に於て端然として静慮すべし。心を収め、念を摂し、善悪の諸縁一時に放却し、自ら窮究看すべし」要するに本当に坐禅をしておらん、とおっしゃっております。考え方じゃない。事実を、本当に坐禅をして事実がどうなってるか、事実に学んで見なさい、とこう言っておりますね。

ここにも出て来る、「善悪の諸縁一時に放却し」とある。要するに自分の考え方で評価しない、ものに対して良いとか悪いとか。花で言えば、美しいとか汚いとかって評価をせずに、本当にそこに花があるんだから、その花の在り様そのものに、自分の評価を一切入れずにふれてごらん、と言う。そうすると、花の様子がよくわかる、とこう言う事でしょう。

坐禅の時もそうです。色んな事が坐禅している時に、自分の活動があるけど、それに対して人間と言うのはすぐ自分で評価をする。例えば、何か思いが出てくると、思いに手をつけるなって言われてるから、手をつけない様にしなきゃいけないって、そう言う風な事やったりするのでしょう。ほっとけって、ほっとけば出て来ても、そのままほっとけ、あるいはそのまま流しとけば、って言うと、そのままほって置く様な、流して置く様な、そう言うに扱うんでしょ。人間がやってる善悪諸法を一時に放却してる状況ではありません。皆手をつけてる様子ですよね。

知らずに手をつけちゃうんですよね、そうやって。教えられてる事を基準にして。何もしない様にって言えば、何もしない様に守る。
そう言う事じゃない。何もしないって言う事は、そう言う事さえもしないのでしょう。手をつけないって事は、手をつけない様にする事じゃないのでしょう。

ここら辺が本当によく話してみないと違うんですよ。真面目に一生懸命そうやってやってるから、ずれてくるんです。自分では言われた通りの事でキチッとやってると思ってるんです。それは諸縁を放捨してない。自分の考え方が、あくまで聞いたものに対して、自分の考えで受け取った受け取り方で、修行してるって言う事が、この辺のとっても大事な事でしょう。

「極めつくしみるべし」本当に事実がどうなってるか、徹底自分の見解を入れずに触れてごらん、とこう言うのでしょうね。そして言われる通り「孚、一に所言に依り」夾山がおっしゃった事に拠って、「初夜より五更に至り」「鼓角の鳴るを聞きて忽然契悟せり。」一晩朝になるまで坐ったのでしょうね。そして明け方に太鼓がドーン!と鳴った。それによってアッって気がついたんですね。 

「便ち去って禅者の門を叩く」だから昨日教えてくれた夾山の所に行って、自分の心境を告げたんでしょう。叩くだから、先ず行ったんですね。行ったら、典座「誰だ」って言う事です。戸を叩くやつは誰だって言う事です。孚云「私です」。で典座咄して曰く「汝をして大教を伝持し、仏に代わって説法せしむ。夜半什麼としてか酒に酔うて街に臥する」この夜中にまだ夜が明けない頃に、丁度お酒によって町の中で寝てしまう様な、いう様な事挙げてますね。ちょっとたしなめたんですね。

普通だったら、夜が明けて、ちゃんと衣服を整えて、そして香をたいてお拝をして、そして参禅をする。これがまあ当時の在り方です。それだのに、まだ夜中寝ている頃に叩き起こしてって言う事ですね。非礼なんでしょう。そう言うの丁度酔っ払った奴が所かまわず喚いてる、夜中に入ってきたって言う様な表現をしております。だけどそれにはそれなりの意味がある。そんなに急を要するって言う事は意味があるのですね。そこら辺が次の様子なんでしょう。

孚云、「自来の講経は生身の父母の鼻孔を将って扭捏せり。今日より已後は、更に敢て是の如くならじ。」今迄は本当にいい加減な事を自分でさも本当らしく話して来たけど、もう二度とそう言う間違った事は、これから先しません、とこう言ってる。まあそう言うのが、一段の、碧巌の方にも出て来るのでしょうかね。それがここの「孚上座はもと講者なり。夾山の典座に開発せられて大悟せり。」今そう言う風な因縁話があって、その話がそこに展開した事ですが。

「これ梅花の春風を大少吹せしむるなり。」まあここでは、夾山の典座和尚さんに教えを乞うて、一晩坐って、朝の太鼓がドーン!と響いた。その事に拠って本当の在り様が手に入ったって言う事ですね。これが梅花の春風、春風が吹いてきて、梅の花が咲いたと言う事でしょう。そう言う風に普通は読むのでしょう。春風が吹いてきて、梅の花が自ずからそこで、何輪か知りません、大少ですから、花がさいた。太鼓の音に触れただけでそう言う事が、どうして悟ったか、理由は無い。ダーン!(大きな声で)それだけですよね。

それまでは、太鼓の音をまさしく聞いてた人なんですね。ああ、太鼓が鳴ったって、その位にしかやってない。そう言うのを、お父さんお母さんの身体を借りて、この世に出て来た生身の体と言うのでしょう。そう言うでっちあげた教えられた話。人から聞いて教えられた話であって、自分で本当に触れた自分の内容ではない。皆さんがドーン!とやった時に、どうですか。誰の力も借りなくても、その太鼓が一声鳴った時に、どうあるか。そう言う体験をしているに違いない。だけども従来の自分を見る癖がありますから、何だ、今、太鼓が鳴ってる、あれは何の合図の太鼓だとか、そう言うな事だけで生活してる。

まあ修行で寺に行くと、鳴り物が基本ですから、まずそうやって教えられるから、幾つ鳴ったらどうだとか、何時鳴ったらどうだとか言う事を覚えて、そう言うものの上から太鼓の音を聞く癖がついてる。それはここで言う様に、人に教えられた聞き方でしょう。
そうじゃなくて自分でなければ絶対聞く事の出来ない真相があるでしょう、一人一人。だって生涯人の耳を借りて聞かないのですよ。言っときますが、音を聞くのに、片時も人の耳を借りて聞いた音はないのですよ、生涯。だったら、騙される事ないでしょ、聞いて。何で聞いたものが、腹が立ったり騙されたりするんですか、自分自身がやってる事で、自分自身が騙される様な愚かな事がありますか。

眼だってそうでしょ。自分自身の持ってる眼以外のもので、見た物は私達は無いでしょう、生涯。一切他の人の眼を借りて、物は見ない。借りなくてもちゃんと見えるのだからいいじゃないですか。他人の見てるものと、自分の見てるものとで、何で争わなきゃならない。まあそう言うな事も出てきますね。

時間もうちょっとあるんですが、どうしましょうか、一応梅花の巻き、終わってる。 (終)

梅花  Ⅴ-3

音声はこちら ↓

梅花 Ⅴ_03_01
梅花 Ⅴ_03_02


次の句ですね。五祖法演禅師のものとして、まあこれ丁度今頃の事考えてみたらわかるでしょ。東風のほうから寒風が吹いてきて、日本の国に寒い風が来て雪が例年よりかなり積もっております。そう言うな事ですね。北風。「朔風和雪振渓林(朔風雪に和して渓林に振ひ)」まあ、そう言う位でいいじゃないですか。

そして雪が降り積もると、万物を隠し、「万物潜蔵恨不深(万物潜し蔵るること恨み深からず。)」何もかも雪の中に、こう閉ざされてしまう、その中でただ山の上に咲いている梅だけが、その雪の中に紅一点と言う様な事ですかね。或いは「千山白漫々孤峰何によってか不白なる」。そう言う句もあります。見渡すかぎり山が真っ白なんだけど、どうしてあそこの山だけが黒いのかって言う。そう言うまあ公案でしょうね。そう言うものを見せております。

それは雪が幾ら深く降ったって、梅ノ木が雪に覆われず出てる事もあるでしょう。ここではあの梅と言ってますが、本当はお互いの事でしょう。そう言う北風が吹いて、雪が舞いそしてあたりを全部埋め尽くす中に、どんなに埋め尽くしても、自分自身は隠れる事はないですね。真っ暗になっても、自分自身は隠れて分からなくなることはありません。不思議なもんですね、自分自身て。人から聞かなくても大丈夫ですね。自分自身の様子って。真っ暗で、私何処に居る、なんていう人は居ないんじゃないですか。見えないから何処にいるって、そんな事ないでしょ。所謂見えなくてもはっきりしてるんですよね。分かると思うよ。

「唯有嶺梅多意気(唯嶺の梅のみ有りて意気多し)臘前吐出歳寒心(臘前に吐出す歳寒の心)」て言うのは、「ウ、ワー!だんだん寒いなー」(大声で)って言ってる様な状況でしょうかね。身に徹して寒い。一番よく分かる。他人の事じゃないもんだから、自分自身の様子なもんだから、誰に尋ねなくてもよく分かりますね、寒いって言う事が如何いう事か。説明なんか何も要らんねぇ。

まあそう言う事でいいと思いますが、道元禅師は「しかあれば、梅花の銷息を通ぜざるほかは、『歳寒心』をしりがたし。」
本当にこの身の在り様以外に、生涯生きていたってないじゃないんですか。此処に説かれている様に。誰でもそうでしょ。短い時間を言えば、朝から晩まで一日の様子を見て下さい。本当にこの一身、自分自身の在り様だけが、ずーっと朝から晩までずーっとあるだけですよ。その在り様が展開されてるだけですよ、各自。ここでは歳寒心といってます。

「梅花の少許の功徳を『朔風』に和合して雪となせり。」物と本当に一緒になって、ありとあらゆる千変万化しながら、ずーっとこうやって生きております。たまたま此処では、北風が寒い寒気を日本に連れて来て、そして上空のものを冷やして、そこに雪を降らしていく。私達もそう言う中にいると、それと一緒になって、その寒気の中で、雪の降る中で生活しています。

「はかりしりぬ、風をひき雪をなし」その「ひき」って言うのは、永平寺の本山版によって改めたとあります。元はシキって風をしきって。風をひきって言うと何かインフルエンザにかかったみたいに読むかも知れませんが、そう言うシキって事じゃないでしょ。風と共にって言う事でいいでしょうかね。一緒になりながら。

座布団をひき、ひくとかって言う意味ではないでしょうね。雪をなす、風を連れて来て、寒い風、北風を連れて来て雪を降らすと言う様な事でしょうかね。「歳を序あらしめ、」秩序の序、此処ではなんですか、一年に四季の順序がある。まあ雪が降る頃を、私達は冬と大体位置づけてるんですね。一年の中で。寒い時を冬と言って来たんですね。だから暦の上と実際がずれて来る。実際と言うものはずれませんね。暦はずれても。実際はずれません。寒い時は寒い、暑い時は暑い。

日本の様な国にはその四季があるもんだから、その中で色んな文化が育ってですね。私の家内なんかでも、和服の着こなしを勉強してるんだけども、つまらないとこでこだわってるんだなと思うんですが、暑いのに、今こういうものだって言って、着るんですね。暑かったら、もっと薄いのでいいと思うんだけど。寒くてもおなじですよね。桜の花のついてる模様とか梅の花がついてる模様とかって言うのは、なんだか聞いてみると、咲く前に着るって言ってますね。その時期の時には、その花のは着ないとか。何でって言ったら、負けると言うんでしょうかね。実際に、桜が咲いてる所に、桜の花の模様がついてるものを着ていったら、絶対その実物の桜に負けるのでしょうね。だからそれよりも先取りをして、少し前に着るって言うのが大体、作法だって言う風に決めてあるらしい。厄介な事になって。そう言うのもここらで言う「歳を序あらしめ」るのでしょう。

「および『渓林』『万物』をあらしむる、みな梅花力なり」。本当にこのもの無ければですね、この自分がなければ、ありとあらゆるものがあるという事が出て来ないんですね。不思議ですね。このものが消えると、一切のものが一緒に消えるんですね。ところが、人間の頭では、そう言う風に納得出来ないですよ。人間の頭って言うのは、私が全部、死んじゃって無くなったって、円通寺は無くなる訳はないなって、そう言う風に認識するんですよね。で、そう言う認識をした上で、お互いに話をする時に、あれも死んだけども、円通寺は無くなってないじゃないか、ホラ、人が死んだって無くなりゃしないぞって、こう言うんですね。そうすると、皆も、ウンそうだねって納得してるんだけども、自分が死ぬと言う事になると、一切が無くなるんですよ。

大地有情と一緒に出てきたんだ、これ、生まれる時。これが生まれたら、大地有情が全部出現したんだ。これが亡くなると、一緒に全部消えるんです。そう言う風に、これ活動してます。考えてる事と事実は随分違う。皆、梅花力と言われてますが、本当に各自の在り様でしょう。各自そう言う風になってる。だからすっきりするでしょう、終わったら人生。生まれて来る時もそう。