FC2ブログ

他心通 Ⅳ

 音声はこちら ↓

他心通_Ⅳ_01
他心通_Ⅳ_02
他心通_Ⅳ_03
他心通_Ⅳ_04

 「国師かならずしも老僧にあらず、老僧かならず拳頭なり。」慧忠国師は必ずしも老僧ではない。目の前に居る慧忠国師を指して、老僧と言うのではない。今申し上げてる様に、対象物として向こうに有る様に思ってる物が、皆自分自身の今の様子ですからねぇ。他人の事じゃなくて、自分自身の様子がそうさせてる。「老僧かならず拳頭なり。」と言わせる所以でしょう。「老僧かならず拳頭なり。」と言う事は、向こうの事じゃなくて自分自身の在り様がそのままですね。脚注には真実の人って、拳頭を真実の人って訳しておられます。自分自身の様子です。
 そこに柱があるって、こうやって言ってるけど、自分自身の様子でしょう。高橋さんも来ておられる。自分自身の様子ですよ。名前を挙げて、何か向こうの人の様にこうやって言ってるけど、全部一人一人自分自身の今様子ですよ。「おい、ちょっとそれ取って」って言って、そうすると何かこう言う色々動くけど、全部自分自身の様子ですよ。エーどっかで騙されるんだよね、知らない内に。自分の事じゃないって言う風にきっとなってる。だけど口が酸っぱくなるほど、耳に蛸が出来るか烏賊になるか分かりませんが、兎に角何回も何回も話していますけど、本当に一切他人の様子は無いのです。生涯そうやって、このもの(身心)の自活動をして終わってるんです。
 で、騙される人はその自活動の中に自分と他人の様子を立てて葛藤するわけです。単直に言えばそれだけじゃん。なんで俺を馬鹿にする、そんな言い方はないだろう。だけど耳に聞いてみるとですね、馬鹿にしたって言う様な事は無いし、そんな言い方って言うものも無い。あれは皆聞いてる人が自分の中でつけた言葉でしょう。そう言うものの見方をするから、自分の中で、お前何言ってたって言う風にしか受け取れないから、腹の立つ材料を自分の中で思い起こすのでしょう。だけど不思議だねぇ。そうやって自分の中で腹の立つ様な材料を思い起こすと、火が付いてくるんだねぇ、その思いに。居たたまれなくなって来る。「あいつ会う度にあんな事俺に言う、本当に。」問題はそれだけだからね、本当は。自分の中でそうやって思った事が自分を苦しめてるだけですよ。
 それ余りひどく言うと、じゃ向こうはどうでも良いかって言う風に思われるのでちょっと心外ですけれども。勿論一人一人がそう言う風に生きていくとですね、人をそうやってけなす様な事は無くなって来る訳じゃない。自己責任て言う風に言うとですね、向こうはどうでも良いって言う風に取られるから、そう言う狭い範囲の話じゃない。自己責任と言う風な、狭い話ではない。自分の中でそう言うものを起こして問題が起きてるって言う事だけを知って貰えば良い。その証拠にやってみれば分かる。どんな事が思えても、それを相手にしないで、思えた事にこうやってそのまま居て、思えただけで皆終わって行くじゃん。それ自分で手をだすと、そのまま終わらない様になって行くじゃん。そう言う事だけをこうやって勉強したら良い。「老僧かならず拳頭なり。」って言う位、本当に自分自身の様子ですよ。
 エーそれで「大耳三蔵はるかに西天より来たりといへども、」遠くインドからおこし頂いたけれども、「この心をしらざることは、」こう言う仏道の真意、自分自身の真相を知らない言う事は、「仏法を学せざるによりてなり。」インドに居て、仏教の発祥国だから、色んな何だろう、経文や戒律や論理の展開された物が残っているのでしょう。だから玄奘三蔵さんもあの頃中国を後にして、お隣のインドまで長い旅をして、そして沢山のそう言う経文を持ち帰って中国で翻訳をされて、一応こう言う事が仏法の内容として有るって言う様な事が翻訳された、中国語で中国の人に紹介されたって言う事になるのでしょう。で、この大耳三蔵はインドの方で、そう言う中で勉強した方です。だけども何で仏法を学ばなかったのかねぇ。
 私が思う中でですね、こう言う方が居る。話をしてですね、論理を展開して、なるほど、ああそう言う事だったらこうなるんだって言う事が、論理の上で理解されないと実践出来ない人がいる。不思議な人がいるね。もし仏道でそう言う事をやってたら、無理ですよ。悟るって言う事はどう言う事ですかって、こう言う事だ、ああ言う事だ、なるほどそう、それが悟るってこう言う事だって分かってから修行をする、そう言う人ってないじゃないですか。もし分かったら用が無くなる。学問じゃ分からないんですよね。ここにあるお茶の味はって、飲まずにお茶の味は分からないって言う事でしょう。仏道を学ばない人は実践しないんだよ。ここだけ(頭を指す)で勉強する。
 考え方を止めてごらん、そしたら楽になりますよって、そうかなぁ、考え方を止めたらああなるこうなる、そうするとこうなるから楽になるかなぁ。まあ本当にこうなるんだって分かるとですね、分かった様に思って、やらない。沢山居る。離してごらんて、離してみると、(扇子を手から離す)離すって言う事がどう言う事なのか、他人から聞かなくても良く分かるじゃん。離したらどうなりますかって言うと、ああなるこうなるって、思考を相手に一生懸命やるのよ。それは絶対仏道の修行ではない、学んでる人では。
 こうやって部屋を一回り見て、こうやって見てみると、どう言う風になるかよく分かるでしょう。人間の生きてる様子って、毎日生活してる、物に触れて生きてるんだけど、どう言う風に生きてるかって、こんな風に生きてるんですよ。執着なんか絶対しないんですよ。どんな物を見ても。しないと言うより出来ないんですよ。次の物を見るって言う事になると。否応なしに前の物から自然に離れる様になってる。そんなに上手く毎日物を見て生活してるのに、あいつが俺を叩いたとかあいつを俺をって言って、何か有った事が離れないでいるってのは何ですか。そしてそれがどうしたらすっきり出来るんだろうって考えて、どう言う風にして修行するんですか。
 本当はこうやって修行するんでしょう。これ実践だから、やってみると、ああなるほどこんなになってるんだって、別に何もしなくてもちゃーんと分かる。自分が思ってる事と全く違う位、みごとに出来てるって言う事でしょう。今すぐ手を付ける以前に出来てるから役に立つんでしょう。これ何日も何年もこうやってやっと出来る様になったら、何時使えるって。この様子って今既(気づいた時)に出来てるから、皆この様にこうやってやってみると(目を開いて部屋を一巡りさせる)、皆そんなになってる。これから修行してそうなる必要が無いほど、自分の様子としてこう言う生活をしてるって言う事、これが自分の真相に目を向けて自覚するって事じゃない。これに気が付くと一気に終わるじゃない。
 こう言う事を大耳、大きな耳、どの位象の様にこんなパタパタするのかしら、大耳三蔵、よっぽど何でも耳に入る位大きな耳なんだろうね。こうきっとね、意味合いとしてはね。一つも漏らす事無い位、聞ける大きな耳って言う事かも知れないね。それ位大耳三蔵って言うネームはですね、きっと素晴らしい名前なんだろうと思うけども、それでも仏道を学ぶって言う事を知らない。道元禅師はここを厳しく言うんですね。
 「いたづらに外道二乗のみちをのみまなべるによりてなり。」常識的な、普通の自分を立てておいて、物を向こうにおいといて、そしてどうかする様な、そう言う世界でものを学んでいるだけだ。二乗って言うけど、一乗って言うのは、ただ何時でも今の様子があるだけですよ。一乘。二乗って言うのは、今の様子の中に必ず過去の様子とか未来の様子をこうやって引き寄せて生きてる人。乗り物が二つ有るから、どっちへ乗ったら間違い無く進むだろうと思う位選択をしなきゃならない。だけども誰も一乗の世界に本当は居るのでしょう。法華経にも説いてある。必ず唯一乗、今の様子以外に生活する場所が無いんだもん。他の所で何かした試しが無い。こんな事は何百回となくここで話して来てる。そしてしかもこの自分の身心と言う、このものの在る所でこのものが活動する以外に無いって言う位、これははっきりしてる。それ仏道の様子です。一般の教えの中にはそう言う事は説かれない。必ず自分と自分以外のものを分けて最初に見てる。時間でも。
 「国師かさねてとふ、」慧忠国師が「『汝道、老僧即今在什麼処』。ここに三蔵さらにいたづらのことばをたてまつる。」いたずらの言葉って言うのは考え方で取り上げた話って事です。事実でなく。「国師かさねてとふ、『汝道、老僧即今在什麼処』。ときに三蔵ややひさしくあれども、」暫く、その三回問われて、三回目にですね、今まで二回答えた事が慧忠国師に本当に受け入れて貰ってないなって事を少し感じ始めている。だから、「ウーン何て言ったら良いか」って言って居る処が、ややひさしくあれども。それでも「茫然として祇対なし。」結局考え方の上でしか物を見てないって言う事でしょう。本当に自分自身の今の生き様そのものにこうやって居たら、こんなへぼな事はしない。
 そこで、「国師ときに三蔵を叱していはく、『『遮野狐精、他心通在什麼処(遮の野狐精、他心通什麼処にか在る)』。」かくの如く叱られたけれども、三蔵なお言う事なし。気が付かなかった。そこまで言われても、自分の話を、対面して話をしてる内容がズレいて、ああって、自分の様子がズレてる事さえ気づかない。だから謝る事も無い、出来ない。通じる道がない。「通路なし。」「祇対せず、通路なし。」これじゃあ他心通にならない、と言う事でしょうね。
 道元禅師と言う方のご文章を本当に拝見して読んでると、道元禅師が常日頃ご修行している中に、どう言う風に生活しておられるって言う事が、目の当たりにこう見える気がしますね、こうやって。本当にこうやって過ごされた人なんだと、道元禅師と言う方は。

スポンサーサイト



正法眼蔵 三十七品菩提分法 第一部あとがき

 井上貫道老師の三十七品菩提分法提唱は、二○一六年一月から十一月まで、円通寺講話会(岡山県倉敷市玉島)にて行われました。
 三十七品菩提分法は、主に小乗仏教の悟りを得るための方法であるとされています。日本では大乗仏教でこれが取り上げられる事は希です。道元禅師は、釈迦の説かれた教えとしての仏教があるだけで、大乗と小乗の違いは、異なる時代と文化で教えられた故であるとして、二つの仏教を区別されませんでした。
 道元禅師はこの三十七品菩提分法をとりあげ、修行の在り方を説かれています。それは小乗仏教の修行の方法とは異なった展開になっています。身心を対象として観て修行によって良くする方法と異なり、この身心は既に天然自性身であり、修行は本来備わっている本性を、自己の身心に学びあきらめる道とされています。
 井上貫道老師は、道元禅師のこの教えを嗣がれ、禅の根本「正しく法の生滅を観る」只管打坐の修行の在り方を提唱されています。それは私達の身心すなわち六根の活動作用のまま、自分の見方、考え方、感情、思いを差し挟まずにいることであり、道元禅師の真意を具体的な事実で示され、訳されて行かれます。三十七品菩提分法について、「仏法を伝える為に三十七も方法を挙げて説かれていますが、どれか一つでも実践をして下さい。一つの方法の中に、それ以外の三十六のもの全てが含まれています。」と述べられます。
 三十七品菩提分法は四念住、四正断、四神足、五根、五力、七覚支、八正道と三十七の表題で示されています。この第一部は四念住、四正断、四神足の構成となっています。四念住は観身不浄、観是受苦、観心無常、観法無我です。四念住を例に上げて、提唱内容を紹介します。
 観身不浄について、一般には身を不浄と観て煩悩を起こさない様に、と説かれますが、道元禅師は違った展開をされます。
 「『観身不浄』といふは、いまの観身の一袋皮は尽十方界なり」今の観身、身体を見ればですね、全体皮で包まれている、臭皮袋って言い方をします。これの中に臭い物が一杯入ってるって言うんですね。えー?って思いませんか。是(この身心)が全てだって、中々思えないでしょう。この部屋にこれだけの色んな物があるって言うことは、誰がやるのですか。他の人がやりますか、誰か。必ずこの一袋皮と言われるこの身体が、こうやって感じ取ってる訳でしょう。尽十方界、皆、自分自身の様子でしょう。他の人の様子なんか一つも無いんですよ。それ位この一袋皮、尽十方界なんですね。
 「これ真実体なるがゆえに、活路に跳々する『観身不浄』なり。」生き生きした様子でしょ、活路って。生活って言うのも、生き活き(イキイキ)と書くじゃんね。「不跳ならんは観不得」不跳ならんは観ることを得ず。何時までも前のことに留まって居る様では、今の様子がはっきり観ることが出来ないという意味ですね。前のものを問題にしてる間はパン!本当に音に触れることは出来ない。 「正当観は卓々来なり」本当に自分自身のこう様子を見ると言う事が大事なんでしょう。卓々高く立つ様とかすぐれた様とか言って訳してますけども、大事な事だといってるんです。自分を本当に観るって言う事が。それだけで十分なんですね。だって、この上で問題が起こるんだから。この各自分自身の、この身心の上で問題が起こるんだから。他処で問題が起こった事ないんだから、生涯。問題が起こるって必ず、この自分自身の上で問題が起こる。他の人の身体の様子ではない。そんなのは百も承知でしょう。
 「身はこれ不浄なりと観ず」私達も学校に行って習った時に、この不浄観て言うのをですね、どういう風に先生方が、教えてるかって言うと、此処に美味しいご馳走があるとするとですね、人間はその美味しいものを食べる事に執着するから、物に。だからそういう時に、障子の桟に付いている塵を指で集めて取ってご馳走の上に乗せて食べるって、そうやって不浄観っていうのは、そうやって教えられた。人間も、あの人は綺麗な人だって惚れるようなことが事が在った時に、何だ愛欲かな、そういうものにこう引っ張られるのはいけないから、綺麗な人を見た時は、身体の中は糞(いばり)だらけって、そういう風に思えと言って、そうするとその執着しなくなるって。そういう風にこの観身不浄って言うのを習った。
 多分学校でそういう風に聞いたと思うんだけど、全然違うんですよね、道元禅師のは。そう言う綺麗とか汚いとかって言うことの話をしてるわけじゃない、とこう言ってるんですね。これが此処の大事なとこなんです。「夜半見明星の道理」夜半て言うんだけど、明け方でも良いでしょう。お釈迦様は明けの明星をご覧になられた。明けの明星っていうのは、午前何時ごろかしら、まだ夜が明ける前ですね。明星は金星です。金星は他の星よりも、ちょっと人間の肉眼で見た時に明るく見えるし、大きく見えるからよく目立つ星です。見ている時は見るという事はない。見ている人も出てこない。明星が瞬いているだけです。自覚も無い。そういうことを観身不浄と言うんだって。まさしくそれを読んでみると、どこに身は不浄だって観るなんて、そういう綺麗とか汚いって事は一切問題になってないね、確かに。これ大事な事ですね。
 「浄穢の比論にあらず。」観身不浄というのは一般に考えておられる様に、綺麗とか汚いって言う、相対的なものの見方の上の話ではない。「まさに拈処に通路ある道理を参究すべし」って言う事は今やってるものを取り上げて、その中に勉強する本当の道があるということを学びなさい、とこういってます。私達は、己事究明と言って、自分自身が本当にどうあるかって事を学ぶんです。これさえ学べば全て学べるんです。」
 『観受是苦』について、
 「『受はこれ苦なりと観ず』と読むのでしょうね。まあ平易なことから少し話してみたいんだけど、受は是苦なりと観ず。他人の話を耳にした故に問題が起きる、って云う様な事が皆さん方普段やってることです。この自分の身体に人の喋ってる事が聞こえて来なければ、その人が何を言っていても問題は多分起きない。聞くと起きるんですね。
 その内容を見ると『自受にあらず、他受にあらず、有受にあらず、無受にあらず』と説明してある。向こうの物をこっちに受け入れるとか、あっちの物をこっちに入れるとか、自分のものをとかって言う風な事ではない、と言う事が全部ここに書いてある。有るとか無いとか。これは簡単に言えば最初から受け入れると言う様な、向こうに物があって、こっちに人が居て物を見るって言う様な構図に成っていないと言う事です。どうでしょう、理解いくかしら。基本的には皆さんが考えている様な在り方でないと言う事です。もっと平易な言葉を言えば、最初から全部ちゃんと備わっていると言う事です。何一つ欠ける事の無いほど完璧になってると言う事です、最初に。別々になっていないのです。
 苦しみの中で、最初に仏教で挙げてあるのは生老病死って、それを四苦、四つの苦しみと言ってます。その最初は、生まれると言う事が苦しみの最初に挙げられてある。えっ生まれる事が苦しみなのかって、それはそうでしょ。生まれたから死ぬるのです。生まれたから老いていくのです。老いの苦しみ。生まれて来たから、病にかかったりして、傷を負ったり色々するのです。もっと別な事を言えば、生まれて来たから生きていくために、皆さん、遮二無二苦しんで生きて、生活して、生きるために苦しんでるんでしょう。自分だけならまだしも、家族が居たりすると、尚そう言う事が出て来る。まあ一般にはそうやって苦しむんですね、それで。」
  「『自己に問著すべし』一体苦しみって何だって言ってるんですね。『作麼生是苦』苦しむ、苦しむって言うけど、一体何だろう、苦しむって。その苦しんで居る時に、色々考えている事を全部止めてしまって生活しても、何も失うものは無い。あれを考えてなかったら生活が滅茶苦茶になって、失われたものが一杯出てくるって、そんなことは一切ない。皆さん方余分な事考えてない時楽でしょう。ずーっと抱えてた方が楽しいんですか、苦しみを。それを相手にしてる方が生き甲斐のある人生なんですか。そのために長い時間を使うんですか。終わった事手をつけて気に入る様に直すんですか。そう言うの修行とは言わないね。」
 観心無常について、
 「『観心無常』心無常を観ず。ここで心と言う字が使われているけども、皆さんが常識的に、心って何かものを思うって、そういう風な意味合いの文字ではありません。心と言うのは一切のものを指すんですね。全てのものを指す代名詞です、心て。無常って言うのも皆さん良く知ってると思うけど、常なし。生活自体をよく見てもらえば、もう明白ですね。全部、身体中何処を見たって、先程の事やってる人は一人もいない。そういう風に出来てるのですね。
 何処にこだわるんでしょうかねえ。何処に捉まって悩むんですかねぇ。悩むものが無い、残って無いよ。問題にするものが無いんだよ。それが無常の様子なんですよ。本当に観て御覧なさい。きれいな言い方をすれば、一度も経験したことの無い事ばかりを、人はするって言うことです、生きてるという事。」「無常と言われる真実は、本当に後にも先にも無い、今の在り方だけで貫かれてるんですね。昨日のこと思い出すことは出来るけど、昨日の事は今日やれない。明日の事を思う事はあるけれど、明日の事は今出来ない。本当に今やってることが、今やってる所で今あるだけです。これ最高の境地なんですよ。それで何も言う事ないでしょう。」と、今の在り様以外に無く、今、ここ、私、の在り様が観心無常であると説かれています。
 観法無我は、「『観法無我』法はものですね、ルールでいいでしょうかね。全てのものの成り立ち、決まり、活動法、ルール、大きなものと小さいものがあって、こう言う風に見えるのは、ルールですね。これはこれ、これはこれって、こう言う風に見えるんですね。誰も決めるんじゃないんだけど、きちっとこう言う風に。犯すことの出来ない在り方なのですね。それにはですね、決まりがないとある。無我。中心になる何かものがない。」
 更に、『狗子仏性無なり、狗子仏性有なり』を上げて、 「犬ころに仏性が有るとか無いとか言う話なんだけど、有るとか無いとか言うものは人間にとってですね、面白いですね。無(ム)って言うと、無(な)いっていう風に読むんでしょう。先ず卑近な話をすれば、無ムって言う音声があるのにも拘らず、ムって言ったら無(な)いって言うんです。聞こえない様なこと言うんでしょう。えっ!ムって言ったら、聞こえてるにも拘らず、無いって。文字を見て、ムって言ったら、書いてある字があるにも拘らず、無いって言う。それ位可笑しなことしてるんですよ。有るって言う字が書いてあっても、無いって言う字が書いてあってもですね、そう言う事が行われているだけなんですよ。それが心の様子なんですよ。有という字に向かうと有、無という字向かうと無っていう風なものがちゃーんとその通りに頂ける様に、人はなっている。それが心と言われるものの働きなんですね。」
 「『一切衆生無仏性なり、一切仏性無衆生なり。一切諸仏無衆生なり、一切諸仏無諸仏なり。一切仏性無仏性なり、一切衆生無衆生なり。 』まあざっと一杯色々書いてくれてあります。何故こんなに似た様なことを沢山書くかって言うと、人間には癖があって、素直に中々ならない。これ一つずつその書いて在るとおりにこうやって触れて行って御覧なさい。必ずその通りに変わって行きます、書いて有るとおり。
 だけど、何だ同じ様なもの沢山並んでるな、これ一体何だって思い始めると、もうこの書いてある事を学ぶ事とは全く違うことやってますよね。自分の頭の中で描いてる事を相手にしてるだけであって、この文章に書かれている事を問題にはしていません。 色んな日常の中で現象が起きる。色んなものに触れた時に、その現象に触れた時に、現象と言う事実に触れた時に、その事実を本当は大事にすべきなんだけども、事実に触れたらすぐ、それは何だって言う風に扱い始める、人間は。それは何だって扱い始める時には、もう事実は抜きです。考え方で捉えたものだけが相手になってるんです。」と、その事がその通り伝わる事の大事さを話されています。
 最後に、「『釈迦牟尼仏言、一切諸仏菩薩、長安此法、為聖胎也(一切諸仏菩薩、長に此の法に安んずる、為聖胎なり)』こう言う風に生活をしていく。こんな安楽なことはない。しかも聖胎ですね。ひじりの身体と言っていいのか。これがお釈迦様がやられた修行です。ものは本当に分からないと、同じ様に生活していて居るけど、全然違うんですね。それで、生き様も全く変わって来るんですよ。何してるか分からん、人の様子だから分からないかも知れないけど。何十年も付き合ってる人が周りに沢山居るので、良くわかる。そう言う人たちが変わってくるの。全く人生が変わって来る。やってることは別に今までと変わった生活している訳じゃない。毎日同じことやってる。事実を相手にするのと思いを相手にするのでは、同じ物を見て居る様で、全く異なる世界なんですね。」
 この様に、道元禅師のご文章に沿ってその真意を正しく説かれ、実際の修行のあり方を示唆して下さるご提唱だとおもいます。


他心通 Ⅲ

音声はこちら ↓

他心通_Ⅲ_01
他心通_Ⅲ_02
他心通_Ⅲ_03
他心通_Ⅲ_04
他心通_Ⅲ_05


 「大証国師の大耳三蔵を試験せし因縁、ふるくより下語し道着する臭拳頭おほしといへども、ことに五位の老拳頭あり。」今話して来た様に、この慧忠国師と大耳三蔵の二人の間で、帝が、本当に大耳三蔵と言う方が他心通を得てるかどうかって言う事を試験させた、そう言う因縁があって、それに対して今読んで来た様に、昔から色々な方々がそれに対してご意見を述べておられると言う事です。その中にここは五人挙げてあります、五位の拳頭あり。代表的なものとして、五人の様子をここに取り上げたと言うんですね。で、この方々の言い分はさすがに皆はっきりしている、内容が素晴らしいには違いない、と評価を一応道元禅師がしておられます。
その後、「しかあれども、この五位の尊宿、おのおの諦当甚諦当はなにきあらず、」あとと言うことですが、「国師の行履を覰見せざるおほし。」本当に慧忠国師が何をされようとしてるかって言う処をみる力がちょっと欠けてるのじゃないか。どうして私がそう言う事が言えるかって、「ゆゑいかんとなれば、古今の諸員みなおもはく、」ここではこの五人の事で良いでしょうかね。
「前両度は三蔵あやまらず国師の在処をしれりとおもへり。」一回二回三回同じ様な事を聞いておられますけれども、一回二回は三蔵が答えた事を聞いて、所謂良しとしておられる。『老僧即今在什麼処(老僧即今什麼処にか在る)』って言う事に対して、ちゃんと示していると言う風に理解をしておられる。「これすなはち古先のおほきなる不是なり、晩進しらずはあるべからず。」そうじゃないじゃないかと。一回目も二回目も、『老僧即今在什麼処(老僧即今什麼処にか在る)』って言った時に、ちゃんと答えてないじゃないかって、そう言う事、後で学ぶ我々も、そこの処を見逃しては駄目だと、道元禅師は先ず指摘をされておられます。まあちょっと後で色んな事が出て来るから、それ置いときますが。
 「今五位の尊宿を疑著すること両般あり。」で改めて今五人のつけた話ですね、関連したかす方々の、これに対する話を挙げたけども、その方々の内容を見ると、大きく問題になる箇所が二つあげられる。一つはですね、慧忠国師が、『老僧即今在什麼処(老僧即今什麼処にか在る)』って言う問いはですね、何を本当に大耳三蔵に聞いているか。それは他心通をそこで示せと言う事でしょう、あるんだったら。本当に他心通が有るんだったら、その他心通をそこで使って答えると言う事が、国師が問いを発している内容だけども、それには十分答え切って居ない。
 それからもう一つはですね、「国師の身心をしらず。」これは最初に申し上げた通りです。皆さんも多少感じていると思うんだけど、自分と自分以外のものが有るって言う風に、殆どの人が理解してるんですね。これ、こうした自他を分別して見ることは中々取れないね。どんな学問的に理論を展開してもですね、理論の上ではある程度理解行くんですよ。今って言われる時間帯に皆居る訳ですから、別々な事が絶対無いって言うのが理論的に分かるじゃないですか。どんなに沢山の物が有ったって、今って言う上に全部ある訳でしょう。これは今でない、これは今だって、そう言うに別れる処は何も無いでしょう。それだけど終わった時には、これは誰ですかと言ったら、自分の様子だとは言えんね、矢っ張り私じゃないって言う風になるんですね。
 本当に自他って言うものだけは、中々頭では自他が隔てが無いって言って、考えの上で理解が行ってもですね、実際になるとすぐ自他の見が起きる、見方が。こうやって見る時には、向こうとかこっちとか言ってないよね。否応なしに一緒になってるから、こうやって見える様になってる訳でしょう。だけど、瞬時の内に向こうに障子が在ってこちらに私が居て、こう言う風に見える様になってるって言う風な、考え方で取り扱った話しか人間の中で展開されてない。
 こう言う様な事が、道元禅師が言いたいのですね。「国師の身心を知らず。」と言う事は、自分自身の本当の様子も知らないと言う事言いたいのですね。二四時間自分の活動してる様子だけでしょう。他の人の身体で何かやるって事無いじゃないですか。一応ね、一応話として、皆さんが頭で理解して頂けるかな、どうですか。一生涯そうでしょう。生まれてから死ぬ迄の間、この身体一つでこの身体の活動がずーっと在るだけ。そうは思わないでしょう。だって、見た事も無い国がある、今年は夏休みになったら海外旅行に行こうとかって言う位までやってる訳だから、色んな物がある、自分の事の以外に。今挙げた様な話だって、皆自分の中で、ああその国には未だ行った事がないなぁって言う中での話しだけじゃない。それが自分の中で行った事が無い国があるなって思わせてるだけであって、そう言う活動してるだけですよね。これを、「国師の身心を知らず。」自分自身の身心を知らずと言いたい。一応此処で道元禅師は国師の身心を知らずとおっしゃっておられるけど、真意はそう言う事でしょう。お互いに自分自身の身心と言う物はどう言う風な在り様で活動してるか。
 それで更に入って行きますが、「しばらく国師の三蔵を試験する本意をしらずといふは、」で一番目ですね。「第一番に、国師いはく、『汝道、老僧即今在什麼処』といふ本意は、三蔵もし仏法を見聞する眼睛なりやと試問するなり。」本当の自分の在り様が自覚出来ている人だったら、こう言う質問をしたらって言う事ですね。こんなつまらない事言わないじゃないか。「三蔵おのづから仏法の他心通をありやと試問するなり。」仏法の他心通です。これは読む時に、注意をすべきです。一般に言う他心通と仏法に言う他心通は、本当に違う。一般に言う他心通は先程ちょっと挙げた様にですね、神変不可思議な特殊な能力の様な、蚤が空を飛ぶ位の高さに人間が飛ぶ様な話になったりする様な力ですよね。ああ言うのを神通力といいますから、一般に言う神通力はそう言う事です。仏法に言う神通力って、お茶が飲みたいって言った時に、こうやってお茶注いで、こうやって、どうぞって、そう言うのが仏法の他心通、神通力です。何でもない。なんでそう言う事が神通力かって、不思議ですね。心が通じるのでしょう。通じないとどっか行っちゃうからね。
 「当時もし三蔵に仏法あらば、」本当の眼が開いていたならば、「『老僧即今在什麼処』としめされんとき、」言われた時に、「出身のみちあるべし、」ちゃんと答える力があるんじゃないか。どんでもない答え方をしてるでしょう。何ですか。川の話を挙げてそこで舟が浮かんでる様な話をして、その舟が競いあって流れてる様な物を取り上げて、あなたと私って言う様な事でしょう。慧忠国師と大耳三蔵二人の事上げて今こう言う風にここでこう言う事が行われていますって言う様な物を取り上げてる様な話しか目が行かない。本当に眼のある様な人だったら、そんな事は言わないでしょう。『老僧即今在什麼処』って言って、どんなお答えが良いか知りませんけど、ちょっと手を見せてくれますか、国師にちょっと手を見せますかって言う様な事は、これは『老僧即今在什麼処』言われた時に、老僧が何処に居るか良く知ってる人でしょう。本当に。いやお疲れ様です。今日は済みませんね、私の為にわざわざ出て来てくれて、そう言う力があってしかるべきでしょう。ね。色々な事が有ると思います。
『親會の便宜あらしめん。』かつて親しくって言う事ですね、親會。下には真実と一体となったやり方って書いてあります。今ここで触れ合って居る様子です。私は何処に今居るのかって言って、ここに触れ合って居る様子ですからね。あの、そう言う事が当然行われる訳でしょう、いきなりね。それから「いわゆる国師の言われる『老僧即今在什麼処』は『作麼生是老僧』問著せんがごとし。』」って道元禅師が言い換えておられる。慧忠国師ですね、『作麼生是老僧』慧忠国師ってどう言う人って言う事でしょう。なぜ慧忠国師どう言う人かって言う問いに置き換えて道元禅師がいるかって、目の当たりにこうやって触れてる訳でしょう、今、即今。私は今どこにあるって、こうやって訊ねてる処、目の当たりこうやって触れてるんでしょう。そしたら目の当たりに触れててこのものが皆さんに分からない訳ないじゃないですか。今の様子がそのまま有るんだもん。探るんじゃ無くて、これから。もういきなりこの私の様子そのものがそのそこに提起されてる訳だから、それに触れるのでしょう。即今いずれの処にか在るって言った時に、必ず今そう言う風に触れるのでしょう。それが本来の他心通でしょう。それ位自他の隔ても無い、ツーツーのやり用があるんじゃない。一点の隠す物もないほど全部そのままですよ。それ皆さんだって毎日そうやって色んな物と触れてる筈ですよ。だけどそこに自分の考え方がふっと入るもんだから、そうするとズレて行くじゃん。
 こんな事を道元禅師がおっしゃっておられる。もう一つ、まだ。道元禅師って言う方は凄い、何だろうねぇ、この洞察力って言うか、ものに参ずる力って言うものは凄いね。絶対に逃さない、人を他所に。そらさない様にちゃーんと連れて行く。「『老僧即今在什麼処』言うのは、「『即今是什麼時節』と道著するなり」。今どうなってるのか。(大きな声で)パン!聞いてるんだって、こう言ってる訳です。目の前に居る私の事を、って言葉上は言ってるもんだから、普通はそう言う風に捉える訳じゃないですか。対象になる人のことを聞かれたら。それが普通の神通力です。仏法の神通力は違う。何時でもいきなり自分の様子でしょう。他人(ひと)の様子に出会った事無いんだよね。そうでしょう、他人の様子に出会った事ないでしょう。全部自分の様子なのに、自分の中で、それはあっちの人の様子だって言う風に置き換えて扱うから厄介になってるでしょう。どうでもよくなるじゃないですか。そんな時間なんか無いですよ。私達何時でも。二四時間、何処で触れたって皆自分の生き様そのものですよ、生き活きとしてる。生き様そのものです。『即今是什麼時節』ねぇ。
 「『在什麼処』は『這裏是什麼処在』と道著するなり。」いずれの処にかあるか言うのは、今です。這裏です。あなた今何処にいるのかって言ってます。『這裏是什麼処在』是はこれ、自分で良いでしょう。『這裏是什麼処在』あなた方一人一人の様子でしょう。これ何の処在ぞ。だって他に扱うもの無いもんね。喚んで什麼とかなすですね、「喚什麼作老僧の道理あり。」喚んで何をか老僧となすかね。目の前に慧忠国師って言っておられるけど、目の目に慧忠国師って言う方がおられて、ここに大耳三蔵が居て、こうやって触れあってるんだけど、エー、「喚什麼作老僧」って言う表現をしておられる。目の前に居られる慧忠国師を老僧と喚ぶのか、それとも、もっと砕けて、味気の無い話をしてしまえばですね、私が今、こうやって慧忠国師に触れてるって言う事が、老僧を見てるって言う事になるんでしょうねぇ。  この自分が慧忠国師に触れると言う事が無かったらですね、老僧は出て来ないじゃん。色んな事でもそうだけど、此処に柱が有るって言ったって、こう柱が出て来るって事は、必ず自分が今そのものにこうやって触れてる様子が柱を見させる、或いは柱をそこに出現させる訳でしょう。ゲロゲロって音が聞こえるって言うのは、自分が今音に触れてる様子がその音を出現させるのでしょう、この中に。もし自分が触れてなかったら(自分を抜きにしては)、音は聞こえない訳ですね。自分が居なくても鳴いてると思う人は居るかもしれないけど、思うのは勝手だけど、自分が居なかったら鳴いてるのは聞こえませんよね。そう言う風な事ですね。「喚什麼作老僧」
 言ってみれば、自分の在り様が老僧を出現させたり、声を出現させたり、蛍光灯が出て来たり、味が出て来るのでしょう、こうやって。皆このものの様子の中で出現するのでしょう。摩尼宝珠です。如意珠といわれるゆえんです。向こうの事じゃないと言いたいです。日常問題になるの見て御覧なさい。全部自分の中で取り上げた事だけですよ。どんな事でも自分の中で取り上げてる事だけが、今自分の中で有るとか無いとか言わせているだけですよ。取り上げてない事に関しては、有るとも無いとも言えないじゃないですか。気にならないんだもん。取り上げた事だけが有るとか無いとか言って騒ぐでしょう。良いとか悪いとか、あの人があんな事言ったとかって、あそこであんな事があったとかって言わせてるのは、全部自分が取り上げてる、自分の中で取り上げた思いですよ。もう既に済んでしまった。しかもそれを取り上げて元に戻すとか、やり直すとか絶対に出来ないって言う事を知っていながら、それをつつくんですね、人間て。まだああなりたい、こうなりたい、ああなったら良かった、こうなったら良かったって。それが何か人を幸せにする、解決する道だと思ってる。そっちじゃないでしょう。
 『老僧即今在什麼処』って今の自分自身の真相がどうなってるかって言う事を本当に見極めるって事が救いの根源でしょう。ケロケロって言うだけだけど、迷いも無ければ悟る必要も無いし、憂いも無ければ争いもなければ、ねぇ。こんな静かな、涅槃寂静というけども、一つも自分で手を付けない、こんなに清々しいすきっとしていきなりそのままで終わってる世界がある。これが『老僧即今在什麼処』って言う一人一人の真相でしょう。考え方が始まるとですね、こんな処には人は目を向けないんだよ。それで坐禅と言われるものが仏法で大切にされて来た訳でしょう。坐禅と言うのはだから人間の考え方の上のものじゃない。そう言うもの扱う時間じゃない。今、今、自分自身の真相そのものに、考え方で無しに直に居るって言う事です。そう言う過ごし方をするから、非思量と言われてるじゃないですか、初めっから。人間の思慮分別でない、超えてる、そう言うものを全部。そうでないと、この事は本当に眼が向かない。先輩達が皆そう言う事を通過してやって来て、考え方ではここに届かないと言う事を知って仏道に帰依して、この事の素晴らしさを実践して、嫌って言うほど良く知ってるじゃない。



他心通 Ⅱ

音声はこちら
 
他心通_Ⅱ_01
他心通_Ⅱ_02
他心通_Ⅱ_03
他心通_Ⅱ_04
他心通_Ⅱ_05

 
 後にですね、あるお坊さんが趙州従真禅師にこの事を尋ねられた。この話をどっかで知っておられたんでしょうね、聞いて。それで、『大耳三蔵、』第三度ってあるけども、三たびって言う事でしょうね、『三たび国師在処見ず、未審、国師什麼処にか在る』三蔵様は慧忠国師の何処にいるかって事を見ぬく力が無かったけども、趙州禅師あなたはって言う事ですね。『未審、国師什麼処にか在る』それに対して、『在三蔵鼻孔上(三蔵が鼻上に在り)』これって味わってみる趙州禅師のお答えだと思います。そうですね、一番最初にちょっと本題に入る前に触れた様にですね、皆この趙州禅師がおっしゃってる様に、『在三蔵鼻孔上(三蔵が鼻上に在り)』と言われる様にですね、自分自身の上の様子なんですね。
 繰り返し繰り返し申しますけども、一日中位の短い時間をこうやってみてみると、人が何をしてるかって言うと、自分の活動している様子ばかりなんですね。本当に。あすこにああ言う物がある、あすこにああ言う人が居る、そう言う事、他人の身体の中で一切やった事が無い。でも自分以外の人が居ると思ってる。ここが面白いですね。全部自分の中でやってるにも、自分の中の事なのにも拘わらず、自分の中の事で自分と他人をちゃーんと分けてる。それで日常生活が問題が起きるんですよね。あいつ何を言ってるんだって、そう思ったのは私ですからね。あいつ何をあんな事言ってるって、そう言う風に見たのも私です。他の人が見てる訳じゃない。だけどそう言う見方を起こす。と、自分の中で忽ち相手が出来て闘う、敵を作るんですね。ゲームが始まる、頭の中で。
 今子供達が色んなゲームで戦をやってるでしょう。殺したりなんかして。点数をやったりする。あれと同じ事を、皆さん大人の人も自分の中でやってる。あれが始まるとですね止められない。ほんとに、自分の中で。時々間違う人が出て来る。それは何かって言うと、自分の頭の中でやってる事を、現実にそこに反映させるもんだから、そうすると大変な事件が起こる。ゲームの中では殺してもすぐ生き返ってくるんだけど、ね、自分の考え方の中で闘って滅茶苦茶に相手をしても何とも無いでしょう。自分の中でやってるだけだから。本当にその人とやってる訳じゃないから。自分の中で思い起こした事を自分の思いと闘わして争ってる。それでも気分悪くなるんですよね。その内に本当にその事がある様に思えると、向かって行く様になる、その人に。或いはその人に大声かけて罵倒を浴びせる様になる。それがもうちょっと酷くなると手を上げたりする様になる。暴力振るう様になる。やってる事は何か言ったら、自分の中に思った事を、自分で相手にしてるだけなのにね。まあかようにですよ、『在三蔵鼻孔上(三蔵が鼻上に在り)』向こうに、自分の目の前に国師が居るのではなくて、国師そのもの様子は自分の上と言って良いでしょう。
 扇風機がここにあるんで、向こうに有る訳じゃないよね、別に。見てる人の、この扇風機に触れてる人の様子の上に扇風機が各自有るのでしょう。一緒になって動いてますからね。だけど頭はどうしても、私はここに居る、扇風機は向こうに有るって言う風にしか、無理だねぇ。何で別々になるんだろう。本当に同じ時間に、今こうやって居るにも拘わらず、向こうの扇風機が回ってる様子が、こっちで扇風機を見てる様子って別々にある訳じゃないでしょう。こうやってやる時に。それは分かるでしょう。時間てそう言うものでしょう。今の時間て言うのは向こうで扇風機が回っててこっちで見てるって言う風な、別々のものが今の様子の中にある訳じゃないでしょう。必ず一緒でしょ。二つある訳じゃないでしょう、向こうで回ってる様子とこっちで見てる様子って、二つある訳じゃないでしょ、別々に。そんな風には絶対ならないでしょう。それは頭の中で考えた上の見方ですね。実際にはそんな風になってないでしょう。
 (蛙が鳴く)ケロケロあれ蛙なのかしら、ケロケロ。(カラスが鳴く)カアーカア―って色んな物がありますけど、音でも皆さんよーく知ってる。聞いてみると分かる。向こうで鳴いてるカラスの声がこちらで聞こえるって、それ常識です。ものを知らない人は常識なの。本当にカアって言う時の様子にこうやって自分でみてごらん。向こうで鳴いてるカラスをこっちで私が聞くって言う様な構図にはならない。これが皆さんに本当は知ってほしい事なんです。皆さんに知って欲しい事。こう言う様にして人は生きてるんですよ。誰もそう言う風になってる。だけど何時からか知らないけども、向こうでカアって言うとこっちでカアって聞こえるって、そう言う風にしか学んで来なかった。そこに大問題があるだけ。
 仏法って何を勉強するかって、そう言う自分の達の真実です。本当に生きてる生き様がどうなってるかって言う事を自分ではっきりさせると、「なるほど」って事になるじゃないですか。そう言うものがここで暫く趙州禅師、『在三蔵鼻孔上(三蔵が鼻上に在り)』って言う様な表現をしておられる。でこの尋ねたお坊さんはその趙州の答えを聞いてですね、鼻孔上、鼻の上に、こんな処にあるんだったら、どうしてそれが見えないのか。ここら辺に(鼻を指す)ありゃ、大体見えるんでしょう。(笑)壁の向こうにあるんだとちょっと何があるか見えないけど、ここら辺にあるんだったら、見えるもんね。どうして見えないのかって聞いてみたんでしょうね。答えがふるってる。『只為太近(只太だ近きが為なり)』。パン!(打掌)こうやって音を立てて聞く時に距離ないでしょう。こっちで音がしてそっちで聞こえたって言う距離がないじゃん。時間的にズレがない。パン!そう言うのを近いと言う。『只為太近(只太だ近きが為なり)』。だからこうやった時に、聞くと言う事がない。聞くと言う事を用いない。パンて言うだけだ。音がしたなんて聞いてられない。こうやってやると、パン!と言う、イキナリ。
 眼でもこうやってると、見えるって言う事言わない、イキナリこうなる。そう言う風なのを近きにあり。近いもんだから、近いって言う事は一緒に居るって言う事ですからね。離れてれば見るって言う事があるじゃない。例えば自分の眼を自分で見る事が無いって言う様な事でしょう。自分の顔を自分で見る事がない。自分の顔をもし見ようと思うと、しょうがないから何かに写してみるしかない。エーだから人間は自分の顔を見る時は、殆ど写した顔しか見た事がない。直にその物をそのまま自分で見た事はない。だけども不思議だね、これ自分の顔だって分かるんだよね。でもこうやって自分の顔を見るって言う事はある。(手で顔を触る)こうやってやると、自分の顔が良く分る。どう言う風に、こうやってやると、この手で触ってる様子がそのままあるって言う事かねぇ。まあそう言う様な事が出て来ますけど。面白い表現するね。
 また他のお坊さん、他の所にですね、仰山慧寂と言う方が居られますけど、その方の所にあるお坊さんがこの問題を提起されて聞いておられます。それぞれお答えがありますね。仰山さんはそれに対してですね、『前両度是渉境心、(前の両度は是れ渉境心なり、』三回同じ事を問われたけども、一番目、一回目二回目、それは景色とか風景とか対象になる様な世界を眺めて、今慧忠国師の居る様子をこうやって表現している、と言う風におっしゃっておられる。そして最後三回目の時には、『後入自受用三昧、所以不見(後には自受用三昧に入る、所以に見ず)』。自受用三昧って言うのは、さっきからずーっと話して居る様に、本当に自分自身の様子ばかりなんですね。一日中。一つも他人の事をこれはやらないものです。これが分からないんだよね、どうしても。初めから自他を分けた生活をしてますからね。そう言う風に学んで来た。
 だけどもずーっと遡ってみると、人間は自他の境を最初につけていずにこの世の中に生まれて来た。その証拠には生まれたとも何とも知らない。自分がこの世に生まれて来たとも何とも知らない。それ位ですね、境が無い。自他の境が無い。しかも眼がついていてですね、物が多分見えている。お母さんやお父さんや周りに、生まれて来ると、やがて見える様になる。目が開いて。その時もですね、物を見てるって言う、そう言う感覚と言うか意識と言うか、認識と言うものが自分の中に無い。無いけども、こうやってやった時これに(物を見せる)触れると、これに(別の物を見せる))触れた時に、赤ちゃんの反応を見てると、私達はああ明らかに物が見えてるなって言う事が分かるんですね。或いはこうやってトントン音を出す。聞こえてるなってわかるんですね。聞こえてない人と聞こえてる人の様子が違いますから。これ大事な事ですね。生まれた時にこう言う生活をしている事を皆しっておかないと、三歳位になる迄聞こえないまま育っても気付かない。良く見えないまま育っていても気付かない。そうすると医療的に手遅れになる事や、早くやれば回復出来るものも手遅れになる事もあるでしょう。
 元々はそう言う風にしてですね、自分と他所の物とを分けた生活をしていないんですね。それでいながらちゃんと分かるんですね。不思議な、不思議だねぇ。こう言うものが本当は他心通と言われる原点でしょう。分け隔てをしない様な生き様が自分の中に今もある。それを自覚が出来ると人は救われて行くね。何もしなくても良い。自分と他人を分けた上からしか物を見てないから、何処かで調整しないと、コントロールしないと上手く行かないんですね、人間の社会では。だけども、パンパン!聞く時にですね、自分で何にもコントロールしないんだけども、パン!必ずその通り聞いてちゃんと一切問題が起きないで、パン!こうやって終わる様に出来てるじゃないですか。物を見てもこの通りこうやって。
 だけどこれが人間相手」になると、人間同士になるとどうしてこう言う風にはいかないのかって言うと、それは自分がこれは私、あれは私じゃないって言う風に見た上から扱うからです。本来こう言う風な扱いはしてないですね。自分が見てるとか言う事無しに物と一緒になってる。普段歩いてる時に物を見ようと思って歩かないんだけど、何時も見えてる世界いるでしょう。ねぇ。ああ言うもんですね。歩く。あれ全然見ようと思ってないですよ。何時も見えてる、世界の中に最初から。その見えてる中から特殊に自分で取り上げて、あんな物が見えたとか有るって、有るとか無いって言う前に、ちゃんとこの通りなってるんですよ。そう言う処が私達が自分の生き様の中で見過ごしてる一番大事な事じゃないですか。今、今、どう言う風になってるかって事。今はこう言う風になってると。『老僧即今在什麼処(老僧即今什麼処にか在る)』。必ずそう言う風になってます。向かう場所は無いんです。尋ねる場所は無い。作る用が無い手を加えて。
 白雲守端と言う人、次へ出て来ますね。この人は誰かに尋ねられた訳じゃない。ご自分でこの事に対してこんな事を言ってますね。『国師若在三蔵鼻孔上、(国師若し三蔵鼻孔上に在らば、)』これは趙州の言われた様に国師が鼻の上、近くに有るならばって言う事でしょう。『有什麼難見。(什麼の難見か有らん。)』見るのに何も難しい事はないじゃないか。『殊不知、国師在三蔵眼睛裏』殊に知らず、国師、三蔵の眼睛裏に在ることを)』。本当は鼻の上にあるんじゃなくて、眼の中に有るからそれで見る事が難しいのだと言う風に、守端禅師はおっしゃっておられる。それは先程申し上げた様に、自分の眼を自分で見るって言う事が難しい様にって言う事で言えば、まあ理解は出来るでしょう。
 パン!後で聞くって言う事は無いからですね。後で聞くんなら、パン!音を見る事が出来る。その事と一緒に居る時はですね、見る事が出来ないじゃない。手だってそうでしょう。こうやって手くっつけて、こうやってくっついてる所どうなってますかって、見る事できませんよ。離すと、離すと見れるかと言ったら、不思議だね、見れないんだね。音だってパン!そうでしょう。音がしてる時に聞けるかと言うと、聞くんじゃなくて、パンていってるだけです。じゃあ音がし終わった時に、それを聞けるかと言ったら、無理ですね。音がしてないから。だけど人間は音がし終わった時に、あ、今音がしたって、そうやっちゃ聞いた様な事を言ってる。不思議ですね。
 今鳥が飛んだって言って、飛んじゃったあっち行っちゃった後に、ああ今飛んだとか、飛んで行ったって。見てませんよ、見てる時には鳥が飛んでるなんて言って、そんな事言ってる暇が無いよ。それ、何を言いたいかって言うと、人間の思慮分別に渡る様な事がそこに入らないです。もっと丁寧にそれを言うとですね、問題が一切起きない生活をしてるって言う事です。で終っちゃってから、皆さん方、今のは何だって取り上げる、そう言う生活をしてるんですね。それで問題が多いです。本当に生きてる時に皆さん問題ないでしょうが。
 それは仕事をしている時でもそうでしょう。仕事を本当にしてる時に、問題にならないでしょうが。必ず問題になるのは、後で取り上げた時ですよ。あーだった、こーだったって。仕事をしている最中には、言ったら悪いけど、他に気にかかる事が無いんですよ、無いから今やっている通りのことが出来てるんです、実物は。実物には余分思いが無いのにも拘わらず、思い浮かんだ事を実物の様に取り上げて、それをどうかしようって自分で思う、それが苦労させるんじゃない。
 仏道ってそう言う事だけです、本当に皆さんに知って貰いたいのは。自分の事で自分に一番近い、離れた事のない時間帯ですよ、それは。鼻孔上にあり、眼睛にあるとか色々言われるけども、それ位自分自身の事なんだけども、自分自身の事に対して人間は一番疎い。離れた物だったら、少し離れた物だったら見る力がある。不思議ですね。これ落とし穴ですね。本当に。こんな処にブラックホールがあるとは思わないじゃないですか。
 もうちょっと別な言い方をすると、こうやって今の在り様って言うものは、在りながら何処にもその今の在り様を留めた事がない。だから探し用が無い。尋ね用が無い。尋ねる用がない。一方から言うと今の様子がなくなった事は無い。内容は全部変わって行くのにも拘わらず、今の様子は無くなった事はない。でその内容は今申し上げた様な過ごし方をしてるんですね。こんなに出来の良い、極上の在り方です。人が手を付ける事が一切無しに展開されてる。 
 もう一人玄沙の志備と言う方がこれに対しておっしゃってる。「玄沙、徴三蔵曰、」徴は呼び出すと言う事ですね。慧忠国師と問答を交わした色んな経緯があるけども、今度は玄沙は自らこの大耳三蔵と言う方が本当にどれだけ力があるのかって言う事を試しておられる。これ親切な人ですよね。『汝道、前両度還見麼(汝道ふべし、前の両度、還た見る麼)』ああ言う風に何回も慧忠国師の『老僧即今在什麼処(老僧即今什麼処にか在る)』って言って何回も問われたけど、お前分かるかって言ってるんですね。これに対して何も答えが無い。ここに書いてない。どうなったのでしょうね。
 雪竇重顕と言う方はですね、『敗也、敗也。』と言っておられます。手も足も出んなあって言う事でしょう。大耳三蔵と言う方は、玄沙にそうやって言われてですね、手も足も出ない。完敗。飲む方じゃないですよ。完敗。少し位返せれば良いけど、完敗。手も足も出ない位に。グーの音も出ない位って言う事でしょう。そう言う何人かの話がずーっと道元禅師によって色んな所からこの最初の問答に対してのやり取りの流れとしてですね、関連質問みたいなものですかね、挙げてあります。これからもっと更に、今挙げたものを今度は道元禅師がご自身でこの方々を試験されてます。言い分に対して。突っ込んでおられます。ここが道元禅師の真骨頂でしょう。それちょっと休憩してからやりたいと思います。




他心通 Ⅰ 正法眼蔵 第七十三

音声はこちら ↓

他心通_Ⅰ_01
他心通_Ⅰ_02
他心通_Ⅰ_03
他心通_Ⅰ_04
他心通_Ⅰ_05



岩波の四巻本になっている眼蔵ですが、三巻まで一応読んだので、今日から四巻め、四巻の正法眼蔵第七十三に入ります。一くだり読みます。和訳になっている方を見て下さい。

他心通。
西京光宅寺慧忠国師者、越州諸曁人也。姓冉氏。自受心印、居南陽白崖山党子谷、四十餘祀。不下山門、道行聞于帝里。唐粛宗上元二年、勅中使孫朝進賚詔徴赴京。待以師礼。勅居千福寺西禅院。及代宗臨御、復迎止光宅精藍、十有六載、随機説法。時有西天大耳三蔵、到京。云得他心慧眼。帝勅令与国師試験。(西京光宅寺慧忠国師は、越州諸曁の人なり。姓は冉氏なり。心印を受けしより、南陽白崖山党子谷に居すこと、四十餘祀なり。山門を下らず、道行帝里聞ゆ。唐の粛宗の上元二年、中使孫朝進に勅して、詔を賚せて赴京を徴す。待つに師礼を以てす。勅して千福寺の西禅院に居せしむ。代宗の臨御に及んで、復た光宅の精藍に迎止すること十有六載、随機説法す。時の西天の大耳三蔵といふのもありて到京せり。他心慧眼を得たりと云ふ。帝、勅して国師試験せしむ。)
三蔵才見師瓶礼拝、立右于辺(三蔵才に師を見て、便ち礼拝して、右辺に立つ)。
師問曰、『汝得他心通耶(汝他心通を得たりや)』。
対曰、『不敢』在
師問曰、『汝道、老僧即今在什麼処(汝道ふべし、老僧即今什麼処にか在る)』。
三蔵曰、『和尚是一国之師、何得却去西川看競渡(和尚は是れ一国之師なり、何ぞ西川に却去いて競渡を看ることを得んや。)』
師再問、『汝道、老僧即今在什麼処(汝道ふべし、老僧即今什麼処にか在る)』。
三蔵曰、『和尚是一国之師、何得却去天津橋上、看弄猢猻(何ぞ天津橋上に在って、猢猻を弄するを看ることを得んや。)』
師第三問、『汝道、老僧即今在什麼処(汝道ふべし、老僧即今什麼処にか在る)』。
三蔵良久、罔知去処(三蔵良久して去処を知ること罔し)。
師曰、『遮野狐精、他心通在什麼処(遮の野狐精、他心通什麼処にか在る)』。
三蔵無対(三蔵無対なり)。

僧問趙州曰、『大耳三蔵、第三度、不見国師在処、未審、国師在什麼処』(僧、趙州に問うて曰く、『大耳三蔵、第三度、国師在処見ず、未審、国師什麼処にか在る』
趙州云、『在三蔵鼻孔上(三蔵が鼻上に在り)』
僧問玄沙、『既在鼻孔上、為什麼不見(僧玄沙に問ふ、『既に鼻孔上に在り、什麼と為てか見ざる。
玄沙云、『只為太近(只太だ近きが為なり)』。
僧問仰山曰、『大耳三蔵、第三度、為什麼、不見国師(僧、仰山に問うて曰く、『大耳三蔵、第三度、什麼と為てか、国師を見ざる』)
仰山曰、『前両度是渉境心、後入自受用三昧、所以不見(前の両度は是れ渉境心なり、後には自受用三昧に入る、所以に見ず)』。
海会端曰、『国師若在三蔵鼻孔上、有什麼難見。殊不知、国師在三蔵眼睛裏』(国師若し三蔵鼻孔上に在らば、什麼の難見か有らん。殊に知らず、国師、三蔵の眼睛裏に在ることを)』。
玄沙、徴三蔵曰、『汝道、前両度還見麼(汝道ふべし、前の両度、還た見る麼)』
雪竇明覚重顕禅師曰、『敗也、敗也。』


まあその辺まで読んで。一般に神通力って言う様な言葉を聞くとですね、西遊記などの孫悟空の様な神変不思議な力があって、普通の人では出来ない様な、そう言う様なものを神通、そう言う風に大体見ているのだと思います。
で、ここの表題になっている「他心通」、人の心を見抜く力って言うんですね。仏教で六神通と言う六つ位神通力を挙げていますが、仏教の中だけが六神通と言って、最後に漏心通と言うのを挙げてあります。悟りの世界と言う事になっているのかしら。漏れる事の無い様子と言いますかね。
 今、ざっと読んだ処では、大きな耳、大耳三蔵と言う名前になってるんです、そう言う方がインドから京の国戻って来られた時に、他心通を得て帰って来たと言うので、それで帝がですね、他心通力が本当かどうかその力を試験をすると言う事になるのでしょうね。南陽の慧忠国師って言う方と問答をやる訳ですが、そのやり取りがざっと今読んだ処に挙げてある。そしてその後に何人かの立派な方々が名前を連ねて、これに関して質問をされたものに答えてるものが挙げて有ります。
 中に入る前にですね、本題に入る前につらつら、つらつらって言うと変だけど、よくよく見てみると、他人の心の中を見るって言うんだけど、皆さんも生活していて触れて見ると良く分かるけど、あの人何を考えてるんだろう、あの人何を思ってるんだろう、こう言う風な事がした時に、これはお分かりの様に、もう既にお分かりだと思うけど、あの人何を考えてるんだろう、何思ってるんだろう、言うのは私の今やってる働きであって、向こうの人の様子を伺ってる様にちょっと聞こえるし、思えるんだけど、ねぇ。言葉としてはそうじゃないですか。向こうの人あの人って言ってますから、向こうの人の様子を伺ってる様に見えるじゃないですか。やってる事は向こうの人の様子だと殆どの方が信じておられるけれど、違いますよね。
 何回も多分話してるんだろうと思うんですけど、何時から向こうの人の様子と自分の様子って言うものが、こうやって分けて考えられる様になったんでしょうかね。あっちの人何考えてるんだろう、全部自分の中でやってるんだけど、自分の中の事なのに、向こうの人の様子と私の様子って言う風に、知らない内に自分が、自分の中で別な、自分以外の人の事を何かやってる様に思う様になった。不思議だね。もう殆どそう思ってるんじゃないですか。毎日の生活してて。だけど、よく見てみると、全部自分自身の様子ですね。他人通って多分そう言う事なんだろうね、本来他人通。人の、他人の心の中を見通すって言うんだけど、それ以外にやらないからね、しょうがないじゃん、人が。出来ない。あの人の坐り方は、あの人の本の読み方は、見た人がそう言う風に、見た物に対して色んな評価をしてる。でも向こうの人の様子を見てると思ってるんだね。ここら辺が難しい処なんだろうね。まあ言いたい事はそう言う事です。他心通。
 ざっと今読んだ処、そんなに問題は無いでしょう。慧忠国師と言う人の略歴が挙げてあります。姓は冉て言う事が、さっきもあげたんだけど、ゼンとかネンとか漢字では。サンと言う読み方は漢字には無い。有名なのは孔子やなんかの弟子に三人位、冉と言う姓の有名な人が居られますね。まあそれはそれでいいでしょう。
 大事なのは心印を受けしより後と言う事で、慧忠国師って言う方は、お悟りを開いて、その証明を受けて仏法の受け継ぎ手として過ごす訳ですが、その後ですね、南陽の慧忠国師って言われる様に、南陽の白崖山と言う所に住んで居られたので、上の方に南陽の慧忠国師って言う風にして、彼処にいる方って言う事ですかね。そう言うように呼ぶ様になった様ですが、そこに四十年おられて、山門を下らずと言う事は、お寺を離れた事が無いと言う事です。住職って言ううち、住持職って言う風に言うんですけども、住持職。住職だから、お寺を離れると住持職で無くなるんですね。不在ですからね。お寺にずーっと居るのが住持と言います。住職。これはどの役職でもそうだけど、一旦その役職に就いたら、その役職を疎かにしないと言う事ですね。ないがしろにしないって言う言い方がそう言う風に言わせるでしょう。
 その生き様がですね、「道行聞于帝里」帝の耳にも入る。こう言う方が居られるよって言って。そこで粛宗と言う帝の上元二年に、帝がですね、勅して、「詔を賚せて赴京を徴す。」勅を持たせて、召し抱えるって言う事ですかね、お招きするって言う事ですかね。どう言う風な厚い待遇を帝から受けたかって言うと、一つには千福寺と言う所に住職として任命しておられる。そして後に代宗の亡くなる、臨命ですから命が無くなるに及んで、即位してその後今度は光宅寺と言う所に、光宅と言う所にお寺を建てて、そこにお迎えになってそこで又十六年位説法をされた、言うのが略歴です。慧忠国師の略歴。
 で、その時にですね、インドから大耳三蔵と言う人がこられて、都に来られたのでお会いしてみると、他人通、慧眼を得たりと言う。他人通を得て智恵の眼を開いたと言う様に、ご本人がおっしゃったのかね。で、帝が使者を使わして、大耳三蔵と慧忠国師、お二人の間で問答を交わすと言う事です。まあここは別に、ここ迄で別に問題無いでしょう。その位の事が分かれば。
 どんな事が交わされているかって言うと、最初に大耳三蔵法師がですね、慧忠国師を目の当たりになさった時に、礼拝をして右に立たれた。これは一応この当時の礼儀です。お会いした時の。何だろう、相手を敬う姿ですね。右に立つか左に立つかによって違うわけです。右に立つと言う。左を上肩とします。高い方、位置が。だから何故そう言う風にしてるかと言うと、お袈裟をかけるのに左にこう持って行って右は肩を脱いてるので、右の方が下位ですね。だから慧忠国師よりも俺の方がって言って左には立たないって言う事が、奥ゆかしい処だと言う風に読んで貰ったら良い。天皇陛下、皇后陛下、お二人が立たれる場合、日本ではどうなってるか、参考にしてみると良いでしょう。
 そこでですね、第一問目、先ず慧忠国師が問われるのに、「あなたは他心通を得たと言うけれども、本当かね」って聞いてます。今日招かれたのはその事でこれから話をするから、先ず聞いてみたんですね。そしたら『不敢』と言ってます。まあ下にも有る様に、「いいえ」って言う様な、日本語では「いいえ」って言う様な意味です。遠慮してですね、「はいちゃんと他心通得ました」って、そう言う風にあからさまにですね、私は得ましたよって言う風には言わないで、「いいえ」って言う位に言いながら、本当は得てますよって言う様な心積りのある返事ですね。これを当時は『不敢』と言うふうにして中国では使ってた様です。
 さてですね、それだったらと言う事で、本当に他心通を得てるかどうか調べる訳ですね。老僧って言うのは慧忠国師ですね。自分を指す。「あなたに質問するけどいいですか。」『汝道、』私が質問した事に答えて下さい。「私は今どこに居ますか。」みなさんこうやって、私が「今どこにいますか、」ったら、それぞれお答えがあるでしょう。その答えがですね、「あなたはこれ一国の師、」帝にお話をされる様な国師ですね。国を動かす様な、帝に対して導きをする様な位置の人だって、国師。『何得却去西川看競渡(何ぞ西川に却去いて競渡を看ることを得んや。)』競渡って下にもある様に、競艇と書いてあります、訳して競艇。西川と言う川に行ってですね、それで二艘の船を、或いは二艘以上でもいいですが、舟を並べてですね、どっちが早く向こうの岸に着くかで良いかね、と言う様な事をやるのをまあ競艇を言うのでしょう。何でこんな、大耳三蔵がこんな答えをするのか。まあ第一問を見てもですね、皆さんが見ても的外れだと思いませんか。
 それを置いといて、又聞くんですね。今はどうか。今は何処に居る。同じ様に、『和尚是一国之師、何得却去天津橋上、看弄猢猻(何ぞ天津橋上に在って、猢猻を弄するを看ることを得んや。)』どっちも猿ですね。猢も猻も。大きい猿、小さい猿と言う事です。調べてみるとそう言う字です。子猿、下の猻は子猿です。訳して猿回しの芸とあります。橋の上に在ってですね、お猿が、大きいお猿と小さいお猿が、そこで何か芸をしてるのを見る事を得んやって言う様な、なんでこんな事になるのですかね。
 さらに同じ様な質問が続きます。『老僧即今在什麼処(老僧即今什麼処にか在る)』。人間て面白いですね、同じ質問を三回位重ねられるとですね、何となくおかしくなって来る。質問をして答えた後にですね、良いとも悪いとも言われないです、これね、一問目も二問目も。それで良いとも悪いとも何にも言わない。聞きっぱなしで同じ質問を三回も繰り返されるとですね、人間て不思議ですね、どう言う風な事が一般に起こるかって言うと、自分の中に疑義が起こるんですね。疑いが起こる。ああじゃないか、こうじゃないかって思い始めて来ます。難しい様な知らない様な字を言われて、そこに書いてごらんって言って、もう一回書いてごらん、もう一回書いてごらん。もう一回書いてごらんて言うと、どっか違ってるんじゃないかって思う、思いませんか。よっぽど自信が無い限りは、そう言うものですね。面白い。
 三度目の様子を見ると、今度は黙ってるね。「良久」久しく暫く黙ってる。「去処を知ること罔し。」言われたんだけど返事が出来ない。それを見て慧忠国師が初めて、『遮野狐精、他心通在什麼処(遮の野狐精、他心通什麼処にか在る)』。野狐精ってちょっと相手の人を、何だろう、誉めてない言葉ですね。誉めてない、けなしてる言葉。大耳三蔵と言われる、いわゆる三蔵って言えば、経律論に精通した立派な学者です。玄奘三蔵とかね、皆さん知ってる三蔵法師。皆さんからは立派な人だって言われてるけど、なんだ大した事無いなって言う様な表現です。しかもですよ、自分で他心通を得たって言うんだけども、人の心の様子がどうあるかって事が、一つも言えないじゃないかって。そう言っておられます。これに対して一言も返す言葉が無い。ギャフンって言いますかね。まあそれが今日の勉強の教材になってる。