正法眼蔵を学ぶ

発菩提心 Ⅳー 3

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エーまあそれはさておいて、「『彼一念』の『深広無涯際』なるがごとく、」たった僅かな思いでも、

それ位極めつくす事が出来ない内容を持ってる。そりゃ今って言う時間帯だって見て御覧なさい。

今の内容を皆さん方、ペンを一本上げるから全部書き尽してごらんって言って、今の事ですよ、今のこの内容を、ペンで全部

書き上げてごらんて。一生、生きている間中書いたって書き終わらないよ。知ってるでしょう。その位豊かな内容なんですよ、

たった今の様子。一本の草だって、一本の木だって、石ころ一つだって、瓦一枚だって、そうでしょう。


今日来る時、87になるおばあちゃん、最近雨が降ったもんだから、やっと、って言って、草を刈ってえび芋を植えた。里芋。

今植えたから、もう少したったら出来ますから又食べてって、私の生き甲斐なんですって言って、里芋作るの、そう言ってました。

87ですよ。縁のある人に皆上げてる。良いおばあちゃんだって言われる為にやってる訳じゃない。生き甲斐なんだよね。


「一草一石もし七尺八尺なれば、彼一念も七尺八尺なり、発心もまた七尺八尺なり。」実物と実物の表現が

ですね、違うって言う事は、実物を表現する事にならないんだよね。そう言う事でしょう。

実物を表現する時に、実物と違う事だったら実物を表現したことにならない。必ずその実物を表現する時に、実物と違わない事を

もって表現する。そう言う事でしょうかね。


一般的には言行一致とかって言う言葉も使われる。外に向かってどうあるべきかって言う精神を喋った。唱える人が自分の日常の

生き方が、その、人に向かって説いている事と内容がずれない生き方をするって言う様な事を貴しとするじゃないですか。

口では良い事を言っても、実際の生活は言ってる事と違うって言う様な事だったら、人は信用をしないし、ねぇ、喜ばないじゃない

ですか。評価が低くなるでしょう。


見てて御覧なさい。色んなの見てると、社会情勢の中でそう言うの見てると。皆よく知ってるんですよ。変だなって、どっかずれてる

んじゃないかって、見てるから評価が良くない。それが上に立つ人だったら尚更影響が大きい。

お釈迦様がもし言ってる事とやってる事が違う様な人だったら、今日まで誰も拝まないよね。


これ正法眼蔵をお書きになった道元禅師だって、もし自分が残されてる内容と普段生活してる内容が全く違う様な生き方をした人

だったら、誰もついて行かないよね。そりゃ誰だってそうじゃないですか。今挙げた里芋だってそうじゃん。見かけは良いけど、

食べたら、何だこんな味かって言う様な位見掛け倒しだとですね、捨てられちゃうよ。それで一生懸命良い物作るじゃない。


「しかあればすなはち、入於深山、思惟仏道は容易なるべし、」そりゃそうでしょう。山に入って沈思黙行して

仏道がどういう事かってやる方は、何もしなくても行きさえすれば良いから、比較的楽なんでしょう。

だけども、像を造ったり塔を建てたりする事は甚難なりとあります。材料を集めてきたり、技量を求めたり、求めなきゃならないし、

色んな事がないとお寺を建てるとか、塔を造る、仏像を刻むとか、こっちの方が難しいって言ってます。


円通寺に来てこうやって私がなんかやるのは、凄い簡単な事ですよ。この身体さえ此処に来てやればいいから、簡単ですよ。

で、お寺に帰って、庭をきれいにしようと思う方が大変ですよ。一日掃除してもしれてる。エーまあそう言う事で良いですかね。


「ともに精進無怠より」怠り無く「成熟すといへども、心を拈来すると、心に拈来せらるゝと、はるかにことなるべし。」

こっちからものに向かうのと、ものの方から自分自身が変えられていくって言う、そう言うもののあり方があるじゃないですか。

人と出合うと、自分の方で、その人に出合った時に、自分の方から変えて行くんじゃなくて、その人と出合うとおのずからその人に

よって自分が変っていく。


雨が降ると、こちらからどうもしないのに雨が降った様に全部変わって行く。修行としては、道元禅師はそっちの方を皆さんに

勧めてますよ、修行するのに自分の方から、雨が降ったら雨が降った様にして行くって言う事をやるよりもですね、

雨が降ると自分で何もしないのに雨が降った様子に変えられていく。そう言う在り方をものすごく皆さんに大事に勧めてる。

修行の在り方として。


これ楽じゃないですか。もうちょっと違った言葉で道元禅師がおっしゃられてる。「自己を運んで万法を修証するこれを迷いと言う。」

自分を立てといて、そしてものに向かって自分の思い通りにして行くって言う様なやり方をするのは間違っているとおっしゃってる。

迷い。修行として。そんな事をやって修行が完成されるって言う事はないって言ってるのでしょう。

「万法すすみて自己を修証する、これを悟りと言う。」本当に自分の内容が気づきたかったら、その様に過ごしたら良いんでしょう。


毎日そうでしょう。色んなものにこうやって出合った時に、自分の方で何にもしなくてもその出合った事によって、

必ずこれが変わって行くのでしょう。何でこれを守って、変わらない様に守ってる、そう言う必要があるんですか。

それだから色んな事に出合って上手く行かないのでしょう。要らない事でしょう、そんな、これを守る事は。

私の聞き方、そんなものがあるから、パン!(机を打つ)こうやってやった時に、気に入らないと、なるんでしょう。

ねぇ。これやってくれるかって、何でお前の言う事やらなきゃいけないんだって、角が立つのでしょう。


身体は耳に入ってきた通りに反応する様に出来てるじゃないですか。拒絶をせずに、素直に。

そう言う事が在りながら自分の考え方が拒絶させてる。で、気分を悪く自分でさせるんですよ、生活してて。

問題はそう言う事だけなんでしょう、生活してて。どうあったら良いかって言う時に。だってこのものはそう言う生活してるだけだから

ねぇ。一日二十四時間このものの活動してるだけですからねぇ。このものの活動してる中で、自分を立ててものに向かうと、

そう言う厄介な事が起こるけど、これ、自分の中に守るもの一切もたずに生活してると、見事にものと一緒になって上手く活動出来

る様になってる。「黒漆の昆崙、夜裏に走る」って言う様な事を言ってますね。暗い中で真っ黒い漆の玉がゴロゴロ、ゴロゴロ音も無

く姿もみぜずに展開するって言うんですね。


「かくのごとくの発菩提心、つもりて仏祖現成するなり。」つもりてって、本当にそう言う在り方だけが四六時中

行われてる事によって、縁に触れて自分の真相に触れるのでしょうね。「今の一当は古の百不当の力なり」って

どっかにそんな表現が道元禅師が書いておられる。カチーンて今真実にふれるって言う事がある。。今までに百回やったけど、

一度も当たらなかった力による。それ、つもりてって言うのでしょう。

松井秀樹が素振りを毎日、小さい頃、手にタコが出来る位って言う事がある。ああ言う選手が育ったりするのでしょう。

本当に積もりてって言う事、今、今こうやって居る事がずっとあるだけって言う事が、つもりてって言う事でしょう。


生涯って言ったって何やってるかって、今、今此処でこうしてる事以外に無いじゃないですか、生涯って。何時だってそうじゃない

ですか。自分自身の居る所で、この身体の在る所で、そこで過ごしてる今の様子があるだけじゃないですか。

それが如何いう事をしてるかは別ですよ、その時によって。単純に見たら、本当にこの身体の在る所で、その身体が其処で、

本当にその事をやってる以外にないじゃないですか。そうやって自分に親しく居たら良い。

だけど何処からか知らないけど、他人の事って眺めてますね。余所の事。


眺めてるのはだれですか。エー、自分がやってるんですよ。その眺めてる自分がやってる時に、誤解を自分でしてるんですよ。

僕の事じゃないって言って見てるんですよ。私のやってる事じゃないと思って見てる。向こうの事だって言う風に見てるんですよ。

眼はそんな事しませんよ。本当に自分の眼の様子だけですよ、こうやって。そう言う事をよーく生活の中で触れてほしい。

「かくのごとくの発菩提心、」そう言う自分自身に対する在り方があるじゃないですか。

そう言う事を抜きにしてですよ、修行が完成される事はない。


修行が完成されるって言う事は、もうひとつ言うとどういう事かったら、最初にちゃんとしてたって言う事に気づくって言う事じゃん

ね。それを知らないと、どうにかしないと本物にならないと思ってる訳じゃない。で、どうにかする為に色んな事を毎日やってる

から、一つも今の真実の様子に触れないじゃないですか。今の真実の様子ほっといて、何かしないと本物にならないと思う考え方

が有るから、色んな事してる。今やってる事と別の事をする。これが道から外れる由縁じゃないですか。


普通に言えば、こうやって、今お茶飲んでるにも拘らず、このお茶飲んでる時、味がしてる事は如何でも良いんだよね。

もっと美味しいお茶は無いかなと、この前飲んだあれは良かったとかって、そんな風にしているから、口に入れて味がしているにも

拘らず、味がしてる事なんか本当に問題にしない生活をしてるって言う事は、何杯飲ませたって、この人は生きてる間中に

お茶の味なんか味わう事がないと言う人でしょうが。


それに近い生活をしてる人が、もしこの中に居たら、改めるべきじゃないですか。修行はそう言う事じゃない。何でそんな風に

思っちゃったんだろうね、修行するって。それが通り相場ですよ。殆どの人に聞いて見ればわかる。大概修行ってそう言う事の様に

言ってますよ。よそ事をする事。今歩く時に、昨日の歩く事なんかほんとに用がないんだよ。今歩いてる事をちゃんとしさえすれば、

足りるんだ。


もうちょっと時間があるけど。正法眼蔵・発菩提心 第六十三 爾時寛元二年甲辰二月十四日在越州吉田県吉峰精舎示衆

 二月十四日ってお釈迦様がみまかりをする前日。涅槃に、亡くなられる前日ですね、説かれた。吉峰寺と言う所で。

永平寺の近くですね、比較的。大野、大野市にあります。後に弘安二年巳卯三月十日在永平寺書写之 懐弉 お弟子の懐弉禅師

がこれを清書された、と言う事ですかね。書き写されたと言っていいのかね。


こう言うものが有ると又勉強になるんだろうけど、正法眼蔵を勉強してるグループの人にこの前あった時に、面白い勉強の仕方

してるなと思ったのはですね、エー、どこどこの巻きにこう言う事がある、どこどこの巻きにこう言う事があるって言って。

それ如何言うことかねと言って、あっちではこう言ってる、こっちではこう言ってるんだけどって言うんですね。


何でこんな勉強になるんか分かりますか。正法眼蔵ってそんな風にして説かれた事は無いんですよ。お分かりの通りに。

聞いてる人はこの「発菩提心」聞いてる時、他の97巻か98巻かありますけど、知りませんが、他の事を聞いてる訳じゃないですね。

勉強する時に、いつもその一巻だけなんです。だけど後世になってこうやって95巻かなんか98巻99巻なんか出て来るとですね、

並べといて勉強するんですね。勉強の仕方が間違ってるなって。


あの本にはこう書いてある、あの巻にはこう書いてある、こんな事聞いた時に、両方が出てきて聞いた人なんか居ないんだよ。

エー、用がないんだ、そんな勉強。そんな風に道元禅師喋らないんだ。何時も今喋ってる事を、その時に聞いてる人にあるだけ。

これ学者の陥る典型的な落とし穴でしょうね。ものの事実ってそんな風に絶対なってませんよ。厄介になってるみたい。

勉強の仕方が違うんだよ。違うんですよ。そう言われれば、そうかも知れませんねって言ってました。

そう言われなくたってそうですけど。


何かあの忘れないうちに聞いときたい事があったら聞いて下さい。茶話会がありますけど。

質問 この最後まで読んで、示衆ってあるのは、これ法話の内容を記録したんですか。これは道元禅師が筆に書いたんですか。

答え そうでしょうね。これに書いたんでしょう。書かないと残らないもんねぇ。示衆って示しただけじゃ。


質問 これは誰かに話したことではないんですか。

答え 道元禅師がお話になった事を、文章として残したって言う事でしょう。

質問 道元禅師が書いたんですか。それとも話した事ですか。

答え 勿論話したんだ。示衆だから。皆さんに示した事を話しただけじゃなくて、文字に起こして残してある。そう言うものが台本が

あるから、それを懐弉禅師が又それをお借りして書き写したのが、弘安二年と言う事です。

もう一つは、12巻本と言うのが最近問題にされてる。それは道元禅師が亡くなる近くになった時に、ご自分の手で、正法眼蔵の12

巻だけをもう一回きちっと清書されたものがある。それが今一番大事にされてる。


質問 それが一番大事なものだと言うことですか。

答え 一番大事なものだろうと思うけども、命が永らえたら、恐らく全部を手を入れ直したんだろうと思うけども、時期が来たから遣

り残して逝っちゃったんでしょう。だから12巻しか残ってないと言う事でもあるでしょう。まあどれでも一巻で済むことですからね。


あのこれも持論なんだけども、話をするって言う場合はですよ、そこに来て下さった人に話をして、もう一回聞きに来て貰わないと、

大事な事が伝えられなかったって言う様な話はですね、不完全なんですよ。必ずそこに来て、その僅かな時間であろうが長い時間

であろうが、その中で全部必要な事が説かれていなかったら、話ってのは役に立たないじゃないですか。今すぐ此処で実践どうや

ったら出来るかと言う事が説かれると言う事が一番大事な事なんでしょう。今日は序論だから言う様な事じゃないですね、仏道って

言うのは。


質問 さっき学者云々と言われたのは、95並べてやるんじゃなくて、33、25、とかそれぞれで一応 完結してる。

料理作るんだってそう。昨日料理作ったら、昨日は昨日で上手くいこうがまずかろうが完結ですからね。止めようがないのでしょう

が。昨日の料理は昨日で完璧に終わりですから。で、今日は昨日の料理をやり直すって言う様な事じゃないですね。

人間の考え方ってそう言うものとは違う。


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  1. 2017/09/17(日) 13:49:08|
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発菩提心 Ⅳー 2

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「塔婆もし塵土に化すといはば、無生もまた塵土に化するなり。」具体的な事があげてあります。

「無生また塵土に化せずは、塔婆また塵土に化すべからず。」ものごとって、向こうとこっちって言う間柄で

成り立っているんでしょうけれども、必ず片一方だけで成り立つと言う事はない。ね。そう言う事です、これ。

山が見えるって事をひとつだけ取り上げて御覧なさい。山の様子だけじゃないですよ。必ず自分が山にこうやって触れた時に、

自分の今の在り様って言うのは、山に触れてる生活をしてるんです。そうでないと山が見えるとは言わない。鳥が鳴いても、

鳥が鳴いてるのが聞こえるって事は、自分の様子が鳥の声と一緒になってる。向こうだけで鳥が鳴いてるだけって言う様な事は、

聞いてる事にならない。聞く時に必ず自分も鳥の声の様に、その時になってるんです。そう言うもんじゃないですか。


そこで「遮裡」は、今此処でって言う事でいいでしょうかね。「是甚麼処在」これ何の所在ぞ。

皆さんの事ですよ。これどう言う事だろうって。「説有為説無為なり。」色んな言い方をするね。色んな言い方を

してます、説き方は。説き方は色んな説き方をしてもいいけども、自分が心底この答えで納得が行ってるかどうかって言う事を、

もうひとつ点検の箇所として挙げておきたいですね。


ものを研究するんでもそう。こう言う風に結論こうなってるって言う様な事を出された時に、結論として誰が聞いても立派な結論かも

知れないけども、自分がその結論出した時に、本当に心底自分で、その内容で疑いが自分の中に無いほどちゃんとしているか

どうかって言う事でないと、問題外じゃないですか。


だから仏道で、お悟りとかと言う事が問われるのでしょう。悟と言う、悟りと言うものは、自分の中で自分自身が遮裡、

これ何の処在ぞって、一体どうなってるのかって、自分自身に問いかけた時、自分自身がグラつかない程きちっとした様子が

あると言う事じゃないですか。それが自覚じゃないですか。自分自身の事を本当に悟ったって言う事じゃないですか。

自分自身の本当の様子に触れて、はっきりしないなんて言う事はないでしょう。


だけども、こんな簡単な事でも、パン!(机を扇で打つ)本当は中々分かって貰えない。いいですか。

パン!これ自分の耳のことで勉強して御覧なさい。本当は耳ってこう言う風に活動してるんですよ。

パン!もしこの事実が皆さん方、本当になるほどってお分かりになったら、お互いの文言でですよ、

会話をされたことで、悩む人は居ない筈ですよ、何故か。


パン!音がしてる時しか聞こえないんだよ、耳って。本当に。

だけど皆さん方、朝愚痴を言われたり、なんか貶されたら、一日耳元で何かそう言うものが語られている様に勘違いしてますよね。

どうしてそうなるんでしょう。勉強してないからでしょ。パン!自分の事なのに。どっか書いてある事を読んで、

ものを覚える事を勉強だと思ってるからでしょう。そうじゃない。この身体の本当の在り様をお釈迦様も勉強したんでしょう。

パン!音がすると聞こえる、音が無くなると聞こえない。これで救われるのでしょう。

音がしてない時に何を問題にするんですか。パン!あいつがこいつがって言うものも無いのでしょう。

パン!パン!眼だってそうでしょう。今こうやって物が見えてるけど、先ほど見た物なんて見てる人は誰も居ない

のでしょう。だけど皆さんの日常生活は、そんな風にはなってないでしょう。朝出がけに何か見た物が問題になって、

一日中それを問題にしてるでしょう。おかしいじゃないですか。何処を見てるんですか。何やってるんですか。

健全な眼だと思いますか、それが。それ眼の話じゃないからでしょう。考え方の上の話を取り上げてるだけであって、自分の実相、

真実の活動してるものに、一つも目を向けてないって言う事でしょう。


仏道を学ぶ、禅を学ぶ、修行するって言う事は一にこれだけなんですよ。自分自身の今の真相に目を向けてそれがどう在るかって

言う事に着目してる。それだけですよ、修行するって。初めからちゃんとそう言う風に出来てる事、自分の身体で学ぶんですよ。

これから身に付けてそう言う風になるんじゃなくて、皆そうなってるじゃないですか。パン!こうやって。

こうやって、バッ!(扇を開く)バッ!まあそう言う様な事が問われていますね。

伝えたい事は、一番はそれだけなんですよね。


今の世の中で禅ブームと言う様な事も言われてるんだけども、仏教にしても禅にしてもそうだけども、皆自分の今生活してる、

この実質の外にですね、何か学ぶ物が有る様に、殆どの人が錯覚してる。だからお釈迦様の教えを学ぶとか、道元禅師の教えを

学ぶとか言う風に思ってる。眼蔵を読んでもですよ、眼蔵って言うのは道元禅師の教えじゃないですからね。道元禅師がその時

語られたには違いない。だけど内容は道元禅師の教えじゃないですよ。真実がどの様に成ってるかって事を道元禅師が自分で

はっきりしてるから、その事を述べただけですよ。


何処を見たってそうですよ。曹洞宗の教えなんて言う風にはなってないですよ。しかし私達の仲間でさえも、曹洞宗の教えって、

道元禅師の教えと思ってるんじゃない。そう言うものを学ぶと思い込んでる人沢山居る。各自自己の眼睛の内容がそのまま道元

禅師の教えじゃないじゃないですか。お釈迦様の教えじゃないじゃないですか。自分自身の眼はどう言う風に物が見えるのか。

どう言う風に活動してるのか。道元禅師やお釈迦様のここと、どっちが正確ですか。正しい教えですか。


パン!(扇で机を打つ)良いとも悪いともそんなものが一つもなしに、こうなるでしょ。パン!

聞こえる時に。そう言う風に皆さん聞いてますか。パン!大きい音とか小さい音とか一切そう言うものつけずに、

音がしてるそのまましてるその通りに、こうやって居てみることが出来ますか。そうでないと、本当には聞いたって事にならない

ですよ。パン!でこれ聞くのに、パン!何にも時間も何もないよ。こうやった時に

、パン!カチって言うだけで、もうそれで終わりだよ。


エー、常識は違いますよ。向こうで音が鳴って、こっちで耳を澄ませて、何かそうしないとちゃんと聞こえない様に思っているでしょう

が、一切そう言う事無いですよ。パン!聞いたとも聞こえたとも、何ともない位、カチって言うだけで。

こんな風になってるんですよ、実物は。だけど常識は違いますよ。耳があってね、耳は音を聞く道具だから、音がすると聞こえる

んですよ。そんな事が、この時にパン!動きますか、そんな事が。一切そんな事。そんな事勉強した事一切ない

じゃないですか。パン!こうやって。どうしてそうなるかって、「是甚麼処在」こうなってるって

事でしょう。皆さん方の学んで来た事と違うじゃないですか。


幼い子達はだから、実物そのもので生きてるよね。大人になるほど実物そのもので生きてない。皆概念の中で生きていく。

概念化すると、ものが分かった様に思ってる。あれ偽装工作ですよ。全部。概念化するって。実物にはそう言う事一切ない。

そう言う事が本当に皆さんに、ものを学ぶ時に知ってもらいたい。


道元禅師って上手い事をやっぱり訳すじゃないですか。「仏道をなろうと言うは自己をなろうなり。」名訳でしょ。その根源は何処に

あるかって。お釈迦様がやっぱり亡くなる時に、私が亡くなった後どうしたら良いかと言ったら、自分自身を師匠として、学べば良い

じゃないかって。「自灯明」自らを灯とせよ。他を灯とす事するな、「法灯明」法を灯火とせよ、他を灯火とするなって、そうやって、

別れに臨んだ時に、質問に対して答えてるでしょう。自灯明の名訳ですね。


このものの中(身心)に自分の真相があるのでしょう。知りたい。他にはないでしょう、自分の真相って、ねぇ。自分の本当の様子が

どうあるかってのは、これ(各自の身心)を離れて勉強するなんて愚かじゃないですか。他にあるなんて思ったら、愚かじゃないです

か。ねぇ。誰に聞いたって明らかな道理でしょう。それだのに何か知らん色んな事を学んでるうち、これを(自分を示す)すっかり

忘れちゃって、誰かの言った事、素晴らしそうな事があると、書いたの読んでなるほどと思ったりなんかして、それどう言う事だろう

と思ってやってる。そう言う事じゃないって、道元禅師はこんなに正法眼蔵として残してある。よそ見をしてちゃわからん。


経に曰くって出ている。お坊さん達はきっとよく知っていますね。出家する時に、こう言う様な文言を色々唱えています。

発心の喝と言うのがありますが。出典は華厳経の中のものでしょうね。

「経云、菩薩於生死、最初発心時、一向求菩提、堅固不可動。(菩薩生死に於て、最初に発心せん時、一向に菩提を求

む、堅固しして動かすべからず。)」
出家をする時にですね、この生き死にのある人間の生活の中でですね、

あるいは悩みや色んなものがあるそう言う生死の、生死に於いて、坊さんになって本気になって修行したいな、そう言う思いを

起こす、そう言う時に一向に菩提を求むって言う事は、真実の様子がどう在るか、それを探求すると言う事ですよね。

その真実の様子がどうあるかって事は、自分自身の真相に違いない。それを本当に求めていく。その他の事に目もくれない。

一向になるから。


で、寝ても覚めてもって言う様な事が、堅固な様子でしょう。その位の志があってって言う事ですね。出家して。

その彼の一念の功徳、そう言う志の様子はですね、「深広無涯際なり」深くして広くしてきわまりない。

もうこれで終わりって言う事がない。そりゃ深いって言う事だってですよ、この位の深さって言う事で終われば、たかだかそれだけ

のものですよね。本当に深いって言ったら、何処まで行っても底が究められないって言う位のものが、本当に深いと言う意味で

しょう。行き着く位の深さじゃ大した事ないでしょう。何だ、それだけの深さかって言う事です。


広い方だってそうでしょう。うんと広いよって言ったって、何処までって言ったら、あの辺までって言ったら、何だそれ位かって言う事

になる。本当に広いって言ったら、何処まで行っても切がないって言う事でしょう。それだから人生は楽しいのでしょう。


「あきらかにしるべし、生死を拈来して発心する、」今の自分自身を問題にしても、他の事を問題にするんじゃな

いでしょ。自分自身の今の在り様を問題にして、それで、「よしやってみよう」って勇気を起こすのでしょう。

「これ『一向求菩提』なり。」菩提を求める。一向一揆って言うのもありますけども、そう言う事にも使ってますね。

他に目を向けないって言う事です。ひたすらにそれだけって言う事が、一向ですね。あっち向いたりこっち向いたりするのは、

一向とは言わない。


例えば、此処に時計があるけど、時計を見ようを思ったら、外の所へ目を向ける人はないね。必ず一向ですよね。

茶碗、必ずそう言う風になるんですよ。何時でも物を求めるって言う事は、人は必ずそう言う風になってますよ。虫の音がしたら、

聞きたい虫の音の方へ必ず向くのでしょう。何でああ言う風になるのかね。でああ言う風になるから、物がはっきりする事が出来る

のでしょう。ねぇ、知りたい事の方に向かなかったら、知りたい事があるのに、知りたい方に向かなかったら無理だよね。


仕事だってそうでしょう。本を読むのだってそうでしょう。映画を見るんだってそうでしょう。ケーキを買うんだってそうでしょう。

何だって良い、色んな事やってる生活の中で、一々そう言う風になってる。一向、一向ですよ。一向でない時は、どうしようかって

なるじゃないですか。一向に結論がつかない、言う様な事もあるのでしょうね。


「『彼一念』は一草一木とおなじかるべし、」一本の草や木と同じだって。彼一念がある。

「一生一死なるがゆゑに。」って理由がつけてあります。必ずその時にその事を本当にやる以外に無い、

って言う事ですよね。その時その事以外の事をやってる人は居ません、誰も。その内容がどうあろうがですよ、必ずその時に

その事をやってるだけです。他の事はやりません。


思うんだってそうでしょう。その時にその事を思う以外の事を思えません。その時その事が思えてるだけです。本当にそう言う風に

なってる時は、思いで人が苦しむ事はありません。だってその事を思ってる時、その事しかないから、ああじゃないかこうじゃないか

って思う事はしないんですね。その時にその事を本当に思ってるだけなんですよ。その事を知らないもんだから、次から次へと、

色んな事が思えるって言うんだけど、次から次へ色んな事が思えるって言うのも、次思った時、前の事に引っ掛ってる様な事は

しません。前の事に思いを寄せてたら、今の事なんか思えません。今の事を思うと、否応なしに、前の事からすっかり離れる様に

なってます。


物を見るんだってそうでしょう。これを見て、これ(別の物を指す)を見ようと思ったら、必ず離れる様になってるんです。

前の物なんか見てられないんです。パン!音だって、この音をパン!パン!聞こうと

思ったら、必ず前の音なんか聞いちゃ居られない。必ず離れる様になってる。思いも間違いなくそうなってます。

嘘だと思うなら、自分の事だから、よーく触れて御覧なさい。要は、よく知らないから、思いに悩まされてると思ってるだけです。

そんな事はありませんよ。


二つ事、いっぺんに思える人居ますか。エー同時に。そう言う人間が居たら、会ってみたい。同時に二つの事思う人なんか居ない

んだよね。どういう事ですか。同時に二つの事思わないって。苦しまないって言う証拠でしょう。悩まないって言う証拠でしょう。

邪魔にならないって言う証拠でしょう、色んな思いが出て来ても。並ばないんだもの、あっちとこっちの事って。

今思ってる時に、他の事が思えたら、今思ってる事じゃないのね。今思ってるって事は他の事はやらないのね。

これ位自分の事なのによく分かってない。


何ででしょうね。要は自分の本当に活動してる様子そのものに、自分の考えをつけずに、その活動をしてる生の様子に直に触れて

みないからでしょう。坐禅てそう言う風な過ごし方をするのでしょう。何を坐ってやるかって、自分の生の生きてる、実物で生きてる

この活動してるそのものに、本当にただ親しく居る、そう言う行じゃないですか。坐って何かをするんじゃない。


「しかあれども、その『功徳』の『深』も『無涯際』なり。功も『無涯際』なり。」とある。さっき話した通りですね。

それから窮劫って言うのがありますが、長い時間を尽して窮めると言う事を語としてそう言う言葉ですね。如来まあお釈迦様で

代表して良いでしょう。之「これを分別」それどう言う事だって分別する、

だけども「尽期あるべからず。」どこまでやってみても終わらない。尽きる事がない。


修行してある所まで行ったら終わるんだったら、後どうするんだろうね。修行終わって。人間が生きてる一生だってそうでしょう。

これで終わりって言う事はないのでしょう。。考え方が自分の中で、自分で自分はこれで終わりって思わせるだけであって、

活動の方は自分の思いとは別でしょう。そう言うのを見て下さい。


それが「海かれて底なほのこり、」って言う。海の水が枯れると本当はどうなるんでしょうね。

水が有るもんだから、海の底って言うんだけど、水が無くなると、あれ底って言わなくなるんだよね。不思議だね。

でもこうやって水が無くなっても、こういう風にありますよね。(空の茶碗を見せる)底とは言わない。こういうの底とは言わない。

こう言うな様子がある。水が枯れる。


「人は死すとも心のこるべきがゆゑに」ってある。この心って言うのは霊魂とか魂が残ると言う意味ではない

ですよ、人が死んで。間違えない様にして下さい。人が死ぬるって言うのは、この無常の活動の中の一端ですからね。

全てのものがこうやって変化している様子の中の一端の中に、人の生き死にがわずかに挙げられるだけです。

だから人が死んだ後でもこの活動が無くなる事はない。もっと普通に言えば、今と言うものは、人が死のうが、地球が無くなろうが、

宇宙が壊れようが、今と言うものが無くなると言う事はない。そう言うものは心と言われるのでしょう。三界唯一心。


心て、何を心って言うかと、何かここ(胸を指す)に、こうハートのマークを書く人が居るけど、そこらにある、そんな事じゃない。

パン!(扇で机を打つ)こうやってやると、こう言う風に活動する様に出来てるんです。

バッ!(扇を開く)こうやってやると、こう言う風に活動する様に出来てる。それはですね、こうやって私が扇子を

開いた時に、人間だけがこうなるんじゃないですよ。この影響は柱も襖も机もマイクも、全部こうやったら、こう言う活動を受けるん

ですよ。間違いなくそうですよ。別に生きてる訳じゃない。ここで一緒に生きてるから、必ずそう言う事、影響がある。

そう言う風に活動する様子を、暫く心を名づけてるんです、ね。


尽すことあたわざるなり。『不能尽』「のこるべきがゆゑに不能尽なり」死んじゃったら終わりって、そんな事は

ない。死んじゃったら終わりだったら、どうなるんだろうか。何時も問題になるのは、生きてる人の上の話ですからね、言っときます

けど。死んじゃったらどうなるって言う問題だって、そうじゃないですか。死んだ人が、死んだらどうなるって問題にした人が

いますか。聞いた事がない。皆生きてる人が問題にしてるんですよ、生きてる間。死んじゃったら、あんなのどうでも良いって、

そう思うのだって生きてる人の上でやってる話ですよ。


そう言う考えを起こすとつまらなくなるでしょう。もう死んじゃったんだから、あいつ何も言わないから、どんなにしたって良いじゃない

かって。そう言う考え方を自分の中で起こすと、人間はつまらなくなるねぇ。そう言う事でしょう。死んだ人の事をやったってしょうが

ない様に意言うけど、死んじゃった人のことやるんじゃなくて、生きてる人が亡くなった人の事をどう思うかって言う事を

やっているのでしょう。


まあ正しく自分がこの世に出てきた事を翻って尋ねてみれば、両親が居なかったら、生まれないんだもんね。

これ父母の恩を思うんでしょう。父母の恩を思わない人は、生んでくれなきゃ良かったって。生むもんだからこんなに苦労するって、

恨むけど、その恨む事だって、生んでくれたから恨む事だできるんであって、生んでくれなきゃ恨む事も出来ない。

父母の恩は大きい。何にも変えがたいって言われる所以でしょう。自分は選べないけどね、父母を、生まれるのに。

自分のお父さんお母さん、こう言う人なら良かったなって思うことはあっても選べない。


選べないけども、兎に角ね、そうやってその縁によって生まれて、そう言う両親を送ったり、同じように縁のある人達が沢山いる。

そう言う人が旅立って行った後、それを祀って上げたり思ったりするって事は、それ人の心の豊かさじゃないですか。

そう言うのも尽きる事はないのでしょう。


家族葬が良いって言う、ちょっと余談ですけど、家族葬が良いって言って、なるべく今省略してるけど、元々の人の別れの事を

日本の歴史の中で見てみると、どう言う風にしてたかって言うと、集落の中で一人旅立った人がいたら、その集落の中で、

皆でその人を送って行ったのでしょう。今なんでそれをやめたかって言うと、何かお金がかかるからって言うんでしょうね。

昔、葬儀って言うのは、そこに集まった人達が皆共同して何がしかのものを其処にだして、その集まったものでお別れをして、

そうやって終わって行った。だから長い年月をかけると、必ず同じようなサイクルで皆お世話になってるって言う、相互扶助の精神

がある。そう言うのが葬儀だったんだよね。


何で今はそうやって小さくするんだろうね。小さくした家族葬でやってもですね、亡くなって後で聞きつけた人がどんどん来る。

面倒臭くてしょうがないって言ってる人沢山いますよ。一回にやれば良かったって。ひどく世の中が乱れた時代でも、村八分って

言うような制度が残った時代でもですよ、人が死ぬる時と火事の時はですね、もうどんな事も度外視して一緒になってやったんだ

よね。この二つだけは。それ日本の文化ですよ。村八分。凄い豊かな精神ですよね。考えてみると。行列を組んで縁の有った人に

皆お別れをして、そして旅路につく。そう言う葬儀の時の行列を組んで、長い間お世話になりました。そう言うのもすっかり忘れちゃ

ったね。ただ自分達の考えだけでやってる。


これが次の世代に引き継がれていく訳でしょう。それ引き継がれて行く中に、この頃は少子化が多いから子供のいない人達のは、

誰も送ってくれる人が居なくなる。で、長寿社会になったもんだから、なお自分の同級生なんか殆ど居ない。

あれ孫やひ孫や色んな人が其処に集うとですね、どの位「不能尽」として尽きる事の出来ない文化や色んなものが継承できる

かって、大事な触れ合いの場なんだろうね。そう言う事も思うね。




  1. 2017/09/17(日) 13:26:42|
  2. 発菩提心 
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発菩提心 Ⅳー 1

2017.6.24 ご提唱

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160624発菩提心_01
160624発菩提心_02
160624発菩提心_03
160624発菩提心_04
160624発菩提心_05


「これによりて、仏祖の会下、おほく拈草木心の辦道あり。これ発菩提心の様子なり。五祖は一時の栽松道者なり、

臨済は黄蘗山の栽杉松の功夫あり。洞山には劉氏翁あり、栽松す。かれこれ松栢の操節拈じて、仏祖の眼睛を抉出するなり。

これ弄活眼睛のちから、開明眼睛なることを見成するなり。造塔造仏等は弄眼睛なり、喫発心なり、使発心なり。

 造塔等の眼睛をえざるがごときは、仏祖の成道あらざるなり。造仏の眼睛をえてのちに、作仏作祖するなり。

造塔等はつひに塵土に化す、真実の功徳にあらず、無生の修練は堅牢なり、塵埃に染汚せられずといふは仏語にあらず。

塔婆もし塵土に化すといはば、無生もまた塵土に化するなり。無生もし塵土に化せずは、塔婆また塵土に化すべからず。

遮裡是甚麼処在、説有為無為なり。

経云、

菩薩於生死、最初発心時、一向求菩提、堅固不可動。(菩薩生死に於て、最初に発心せん時、一向に菩提を求む、

堅固しして動かすべからず。)

彼一念功徳、深広無涯際、如来分別説、窮劫不能尽。(彼の一念の功徳、深広無涯際なり、如来分別して説きたまひ、

劫を窮むるも尽すこと能はじ。)


あきらかにしるべし、生死を拈来して発心する、これ『一向求菩提』なり。『彼一念』は一草一木とおなじかるべし、

一生一死なるがゆゑに。しかあれども、その『功徳』の『深』も『無涯際』なり、『広』も『無涯際』なり。

『窮劫』を言語として如来これを分別すとも、尽期あるべからず。海かれてなほ底のこり、人は死すとも心のこるべきがゆゑに

『不能尽』なり。『彼一念』の『深広無涯際』なるがごとく、一草一木、一石一瓦の『深広』も無涯際なり。

一草一石もし七尺八尺なれば、彼一念も七尺八尺なり、発心もまた七尺八尺なり。


しかあればすなはち、入於深山、思惟仏道は容易なるべし、造塔造仏は甚難なり。ともに精進無怠より成熟すといへども、

心を拈来すると、心に拈来せらるゝと、はるかにことなるべし。かくのごとくの発菩提心、つもりて仏祖現成するなり。」



えーどう言う事が云いたいかって言う事ですね。「これによりて、仏祖の会下、おほく拈草木心の辦道」する。

修行するに何を用いるかって言う事です。お坊さん達だから、特別な事が別にあるかって言うと、そうじゃないでしょう。

殆ど皆さんの生活と変わらないんじゃないですか。


ここでは草木の心を拈じて辦道するとあるから、円通寺さんの、朝庭掃きをする時に、草木の心を拈じる、それは木の葉が

散ってるのを掃くとか言う様なことも、そう言う具体的な事になるでしょう。それからそこに生えてる草を取るとか、

あるいは植木の手入れをするとか言う様な事が、それを通してそれをやっている時に、その事の中で修行をする、それ当たり前の

ことでしょう。お掃除こうしてる時に、ほかの事してませんから。そのお掃除してる様子の中で修行しなかったら、何時になったって

修行する場所がない、時間もない。


だけども考え方がちょっと違ってるとですね、これは作務の時間だとかって、で、白雲閣の方に行って坐ってる時が本物の修行だ

とかって、言う風になるかもしれない。坐禅こそはって。

食事を頂く時、人の生き様をよーく触れてみると、その事によってしか自分の本当の生き様がない。

人が一番欲しがってるのは、何かって言う事です。お釈迦様でもそうでしょうけど、人が一番欲しがってるのは、

今やってる事の中に、本当にどう言う風にあったら良いかって事でしょう。今やってる事の中で、自分自身がどうあったらいいか。

どうあるべきなのか。どっか他所で修行が出来るとか、完成するって言う様な事は全く論外でしょう。

どう考えたってそんな所で出来る訳がない。

「これ発菩提心の様子なり。」道を本当に求める人の在り様でしょう。


で、そう言う中で、黄梅山の五祖ですね、弘忍禅師は栽松道者と言われて、松を植えた。山に松を植えた。

ご当山では、方丈様からもお話を承ったんだけど、こちらに来れた頃に松食い虫が非常多くて、殆どの松が虫にやられたので、

それを殆ど伐採をしてですね、今の山の様になっておられる、と言うお話を聞きました。植えると言う事もあれば、切るって言う事も

あるでしょう。


臨済の義玄禅師は黄蘗山にですね、おられる頃に、そこに杉や松を植えられた。ひとつには山門の風致とか言う様な事が

言われてますね。松が育つと山のお寺の景色が良くなる。或いは、一つは後々の人がそこを尋ねて来る標榜になる。

円通寺さん何処でしようか、あそこの松が沢山植わってるあの山ですよって言うと、ああ、あそこですかって言って、

そう言う事ですね。


或いはその落ち葉を掻いて燃料にしたり、昔はそうやって過ごしたのでしょう。洞山と言う方の所でも同じ様に、劉氏を言う方が

おられて、松を植えられたと言う様な事跡が残ってる。

「かれこれ松栢の操節拈じて、」松やかしわでの木ですね。そう言うものの私達に及ぼす力でしょう。

操とありますが、松は一年中緑にして色を変えないのかね、操節。


パインツリー、パイナップル。パイナップルって何で言うのかなって、パインツリーだね。松ぼっくりだね。そっくりでしょう。

ちょっと大きいか小さいか。ああいう処から来てるんでしょうね。池の周りに松を植えると、飲料水にする時に、非常にきれいな水が

取れるって言う様な事で、アメリカなんかでも飲料水を蓄えている池の周りに沢山の松が植えてあるようです。

あるいは少し健康の面から言うと、松葉を取ってきて、それをミキサーなんかで粉にして砕いて青汁を作る中に入れるとか

あるじゃないですか。松って色んな意味で操節なんでしょうけど。色んな、私達に効能があるんでしょうね。


「仏祖の眼睛を抉出するなり。」仏祖の眼睛って、どう言う眼でしょうかね。皆さんの眼と違うのかしら。

もしあえて補足をするんだったら、皆さんが普段ものを見る時、どう言う風に見てるかって言う事を挙げてみると、

わかるかもしれない。


今日来る前にこんな話があった。その方はですね、普段二階建ての建物の上に住んでおられて、外側からこう階段が付けて

あって、上って行って二階の出入り口が或る様な建物に住んでる。軒先にですね、電気が、防犯燈か何か知りませんが、

電気つく様になってる。夜帰って来る時についてるのはそれ程気にならないかもしれないけど、時間外の時に電気がついてると、

お父さん何時も出かける時にちゃんと消してって言ってるのにって、今日も又つけてあるって、そう言う話をしてました。

よくしてた。これは凡夫の眼睛でしょうね。


仏祖の眼睛はですね、どう言う風になるか。或る時その人がこうやって帰ってきた時、電球がついてるんだけど、アッって言って

ですね、その時はですね、いつもと違って、お父さんまたつけっぱなしでって、そう言う事は全くついてないで、電気の様子だけが、

ついてる様子だけがこうあった。そう言うものに自分が触れたらですね、今まで何のかんの言ってたやつが全部取れた。

不思議ですね。真実と言うものはこれぐらい人を変えるんですね。


何処を手をつけて、何をしたか、何にもないんですよ、何かした気配は。同じ様にいつもついてる光にこうやって触れただけなんだ

けど、自分の見方らしいものが一つもついてない。そう言う様なものが仏祖の眼睛と言われるね。

仏祖ってそう言う様な生き方をしてる。だから人に、こうやって触れた時に、あっちの人は優れてる、こっちの人は愚かだって、

そう言う見方はしない。


だから非常に穏やかでしょう。全部容認出来るでしょう、そのまま。それ大慈悲心でしょう。慈しみの心。優しい眼差し。

ほっとするのでしょうね。だからじいちゃんばあちゃんが居る家はお孫さん達がほっとするじゃないですか。

目を釣り上げてお孫さん達相手にしないから。ああいうもの面白いと思うでしょう。


「これ弄活眼睛のちから、」本当に活きた眼を使うって言うのは、こう言う事でしょう。折角ついてる眼なのに、

自分の見解をつけたものの見方をするのは、活きた眼じゃないね。死んだ眼にしちゃうんだろうね。腐った眼にするんだろうね。

そう言うの皆さんに聞いてもらった時に、自分自身はどうやって普段過ごしてるかって言う事に目を向けてもらうって言う事が

正法眼蔵を読むと言う事ですよ。ああ、なるほどって、それで気がつくと、自分が変わって行くんです。


「開明眼睛なることを見成するなり。」自分の眼で物に触れた時に、本当にどうなってるかって言う事が明白に

なる。そう言う事が現成するって言う事でしょう。「造塔造仏等は弄眼睛なり」塔を造り仏を作ると言う様な事は、

眼睛を弄するなり。それはそうでしょう。塔でなくても良い、仏でなくても良いですけどね、物を作る時に、目が不自由でですね、

目によって見る事が出来ない様な目の力を失っている人でもですよ、こうやって(茶碗を両手でふれて物を作る仕草)こうやって、

この様にして作るのですよ。

その時見て御覧なさい。この眼は無いかも知れませんが、手に目がある、ちゃんと。お針をする。ちゃんと縫う。めしいでも。

写真を撮る。どうやって取るんだろう。撮るのはまあいいかも知れませんが、撮った後、自分の撮った写真がどうなってるかって、

どう言う風にするのかなって、未だに不思議に思います。そう言う方が居る。

兎に角此処では物を造る時、そうやって、物がどうなってるか見る力を使いますよね。そりゃ正しく眼睛の力を借りるのでしょう。

無理ですよ。見ずにやったら、物がどうなってるかわからずに、ものを作るなんて事はありません。


「喫発心なり、使発心なり。」喫茶店の喫です。お茶一杯でもいい。味噌汁一杯でもいい。喫す、口偏です。

喫、喫する。だから、多分口に入れる事でしょうね、文字として。口に入れると、何故かわかるんですね、入れたものの様子がね。

発心ってありますけども、発菩提心、発心。本当の在り様がどうなってるかって事が気が付く様に出来てる。

菩提心、菩提は道です。道という事はこの上ない在り方と言う様に訳しているでしょう。阿耨多羅三藐三菩提が原語です。

それが少し省略されて菩提心ですね。


「使発心なり」使うと言うことですね。使うと言う事は、活動をしてると言う事でもいいのでしょう。

皆さん方が一日中この身体の活動がある。そのどの活動によってどう言う時に触れるか、触れてものの真相が伝わるか。

歴史上お悟りを開かれた方々の様子、一杯色んな事が残ってる、ね。

桃の花が咲いてる頃に、桃の花は散るのは極当たり前の事で、誰でもが風が吹いてきて桃の花が散る位の事は見聞してる。

見てる触れてる、だけど殆どの人は、それによって悟るなんて事はない。ねぇ。不思議ですね。

それでも悟る人がいる、そんな事で。


 「造塔等の眼睛をえざるがごときは、仏祖の成道にあらざるなり。」造塔等の眼睛って、下には何か、

仏祖の眼睛と訳してある。「造塔等の眼睛をえざるがごときは」って言ったら、こうものに触れたら、

触れた様になるって事でしょう。皆さんの眼見て御覧なさい。自分の眼、どう言う風に働いているんですか。

いつも話してるから耳にタコが出来るかどうかは別としてですよ、今此処で実際に自分の眼に触れてみて下さい。

こんな風になるんですよ。(周囲を見回す)こんな風になるって事がどう言うことかわかりますか。こんな風になるって事が

どう言う事か、自分でわかりますか。自分の様子だから、私が説明しなくてもわかるはずなんだけど、

そう言う事が言いたいんですよ。「造塔等の眼睛をえざるがごときは」難しい?


考える事じゃないですよ。実際自分の眼でこうやって学んだらいいですよ。どうなってるかを。

眼がちゃんとそう言う様な働きしてますから。こうやって、ずーっと(ぐるっと周りを見回して)、こうやってやるとこうなる。

私が敢えて説明しなきゃならないかしら。ずれたためしがないって言う様な事も一つでしょう。一杯色んな事が上げられるけど、

必ずその通りでしょう。自分で何もしないんですよ。その通りに見ようとも何ともしないんだけど、こうやると必ずそうなってる。

必ずそうなってる。そのこうなってる内容を見ると、先ほど見た様子は何処にもない、と言う様な事も気づくでしょう。


本当に今の在り様だけですよ。微塵も先ほどの様子が無い。それもですね、自分でどうかした気配は何も無い。

こうやってやると、こうやってやると必ずそうなる。これが皆さん方の眼睛ですよ。仏祖としての眼睛。

そんなに素晴しく出来てると思わないでしょう。だから色んな心を費やして、考え方を費やして、ああしたらこうしたらって

言う様な事を持ち込むんじゃないですか。要らないんじゃないか、そんな事をすることが。使用しない事が修行と言う事じゃない

ですか。


それ(自分の考え方)をやったら修行にならないんじゃないですか。それ自分の都合で動かしてるだけでしょ。

自分の都合中心にしてやるだけでしょ。もの凄く小さいじゃないですか動きが。一人一人自分の都合をたててやったら、

そこで問題が起きるに決まってるじゃないですか。うまくいかなくなる。自分の都合を立てずにこの本来の眼だけで、

こうやって皆生活すると、こんなにうまく行ってるから、何にも問題ないじゃないですか。


正しくものがちゃーんと把握出来る様になってるでしょう。そうじゃないですか。他の事が出て来ないんだもの、こうやった時に。

今向かってるものだけがその通りにちゃーんとある。迷いも惑いも起こさない様にできてる。楽じゃないですか、それで。

それ、皆さん自分の眼ですよ。修行するのに他人の眼でやらないんですよ、修行は。他の人の身体で修行しないんですよ、

絶対に。自分の身体で修行するんですよ。自分の身体の様子の中、眼睛がどう言う風な様子があるか。

こう言う事がはっきりしないから、それがはっきりしなかったら、仏祖の成道と言う事がある訳が無いじゃないですか。

どうして良いか、どうあるのか、わからないまま生活してて、ものがはっきりするなんて言う事は無理でしょう。まあその位にして。


「造仏の眼睛をえてのちに、作仏作祖するなり。」造仏の眼睛、必ず向かったらその通りの事が眼の様子として

ある。何時でもそれだけですよ。皆さんの眼って、皆さん方のそとにある内容が皆さん方の眼の内容ですよ。

一日中見て御覧なさい。眼って言うのは、こうやって自分の外側にあるもの、こうやって見えてるだけじゃないですか。

一日中、目の様子って、それが皆さん方の眼の様子です。


その時に、必ず、造塔造仏ってある様に、その事がきちっと行われてるじゃないですか、その通りに。

瞬時のうちにその通りの事が、何だろう、造られるって言うんだけど、そのままその事がゴロッと出て来るでしょう。

3Dよりも凄いでしょう。ああ言うもので、物が出来るよりも、人間の眼もっと凄いでしょう。いきなり、こう木魚でも、

こうやって触れたら、そのまま木魚の様子が造るんじゃなくて、も既に向かったと同時にある。そう言う事、きちっと出来てる。


柱に向かったら、柱に向かうと柱の通り、天井に向かうと天井の通り、その通りの事が一々、「造仏造塔」

こう言う皆さん方の日常の在り方を得て後、得て後って言うのは気づいてるって言う事で良いでしょう。

自分の事、自分の事でありながら、殆ど気づかないのね、言われないと。

だから物を見て、何でそこでぐちゃぐちゃ言わなきゃならないか。色んな物を見た時に、気に入るとかいらんとかって言う事が

起こるって事は、自分の眼に関係ない事をやってるからでしょう。眼を見て御覧なさい。

気に入るとかいらんとか、一切言った事ないですよ。どんな物でもその通りになるだけですよ。


何とも無いですよ。それだからいいんでしょう。好きなものはちゃんと見えるけど、嫌いなものはいい加減に見えるって言う様な、

そんな眼だったら役に立たないんだよね。好きでも嫌いでも、否応なしにきちっとその通り。こんなに厳格にできる。

自分の思いなんかそこに差し挟む事が出来ない位、揺るぎの無い確かさがある。だからそれによって、作仏作祖する。

当たり前の事でしょう。そう言う事があるから、本当の事が自分でいただけるのでしょう。


「造塔等はつひに塵土に化す、真実の功徳にあらず、」そりゃ造った建物や何かはですね、時間がたてば、

まあどの位かなあ、二千年も崩れずに持つ様なものは、恐らくないでしょう。世界遺産として登録されているものって、

どの位の年月ですかね。どもあれも殆どは崩れてるんでしょう。そのまま残ってるものは殆ど無い。

もう少し経てば、必ず塵土に化す。「真実の功徳にあらず、」


ところがですね、皆さん方がそう言う自分の本当の在り様にこうやって気づいた時に絶対に崩れる事がない。

「無生の修練は堅牢なり、」さぼっていたってこの通りに、一生懸命見ようと思わなくたってこの通りに、

これ位堅牢ですよ。病気をしようがこの通り。30幾つでお亡くなりになった人の報道があるけど、それでも本当に堅牢ですよ。


「塵埃に染汚せられずといふは仏語にあらず。」必ず、必ずですね、何ものにも

汚されないって言うんだけれども、本当は違うんですよ。眼って言うのは、赤いものに触れると必ず赤くなる。白いものに触れると

必ず白い。そう言う風に汚染される様になってる。変わる様になってる。変わるんだけども、その変わった事の内容を見ると、

何にも汚されないんだね。それが面白いでしょう。


仏語の中に、不汚染って、何ものにも穢されない、汚れない、染まらないと言う様な言葉があるもんだから、そう言う言葉を間違え

て受けとるとですね、変化しないと思ってるのね。そうじゃないでしょう。実際にはどんなものにでも一緒になって、

一緒になるって言う事は、そのものに染められていく。それだから社会の中で上手く行くのでしょう。仲良くなれるのでしょう。


お前の言ってる事聞けるかって言って、絶対私の在り方はって言って、寄せ付けない様な、そう言う風な、何にも汚されないって

言って、此処にバリヤーを張って、こうやって居る様な生き方だったら、絶対無理です。使い物にならない。

本当の使い物になるやつは、自分らしい立てるものは全くそこに無くて、どんなものにでも、すっと一緒に同化してしまって、

行く力がある。それが人を救うのでしょう。そう言う事知って欲しいですね。


  1. 2017/09/16(土) 19:14:11|
  2. 発菩提心 
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発菩提心 Ⅲー 4

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5月_04_01
5月_04_02
5月_04_03
5月_04_04


次の段行きますよ。「釈迦牟尼仏言『優婆塞優婆夷、善男子善女人、以妻子肉供養三宝、以自身肉供養三宝、

諸比丘既受信施、云何不修(優婆塞優婆夷、善男子善女人、妻子の肉を以って三宝に供養し、自身の肉を以って三宝に供養

すべし。諸の比丘既に信施を受く、云何が修せざらん』」


在家の信者ですよね。優婆塞優婆夷。お受戒の時にはそう言う風な席札が有って、優婆塞優婆夷、男女席を同じゅすべからず、

と言って、東西に男性と女性の信者が別々に坐る様にしております。次の善男子善女人も同じ信者には違いないけども、

仏道の上においては、少し真剣度が違うので、優婆夷を上に上げてありますね。


妻子の肉とか三宝に供養し、自分自身の肉を以って供養する。三宝って言うのは仏法僧です。

仏って言うのは、先ほども申し上げた様に、自らの真相を自覚してはっきりした人、ものの真相、本当にどう在るかって事に疑いが

微塵も無くなった人、それ尊敬すべきでしょう。そう言う人どうでも良いって扱うようだったら、その扱う人がおかしいのでしょう。

人を敬う姿を見ていて、やっぱりうたれるねぇ。さっきのカラスのおばちゃん、私よりもずっと先輩ですよ。こんな若い私にですよ、

ちゃんと礼拝をして、在り難かったって言ってお礼を言うんですよ。私が本当に何もした訳じゃないよ。やったのは本人です。

妻子の肉を以って三宝に供養し、本当にそう言う姿が目の前で行われるじゃないですか。

肉を供養するって、別にここら切ってですね、差し上げるって言う様な風に取らなくてもいいじゃないですか。


雪山の話って言うのは、雪山童子の話なんかは当にこの身体を飢えた虎に与えて、諸行無常のこと聞きたくて、

身を腹の減った虎に与えたって言う、そう言う逸話ですね。

法隆寺の玉虫の厨子って言う国宝が、あれにその絵がこう描かれているって言う様な事もありますが。

後々の人の為、自分の身体を虎に食べさせて、その元気がでたら、その後をちゃんと聞かせて欲しい。

でも先に食べられちゃったら、書き付ける事が出来ないから、悪いけど先に聞かせてくれ、そしたらこの岩に彫り付けて、

それからだったら私の身体を自由に食べれくれって言って、そう言う風な約束をして、教えを虎から聞いたって言う様な、

そう言う話が此処にある逸話ですよね。


そう言う肉の施し方もあるけども、自身の肉を以って。もう少し平たく言えば、この身心を挙げて仏法を供養するって言う事で

しょう。本当にそう言うものに帰依していくって言う事でしょう。正しい教え、法として。誰もが侵す事の絶対出来ないもの、

それ一般的には真理とか事実とか言ってる事です。色んな言葉で置き換えても良いでしょう。

そう言うものをないがしろにしたら、話にならないでしょ。


それからそう言う正しいものを、本当に自分でも会得をしたいと言って修行をしてる仲間達を僧と言うんじゃないですか、サンガ。

今はこういう形(ご自身を指す)をしてる人達だけを坊さんを言う風になってるけど、最初のサンガは在家の人達ですよ、皆。

一番最初、出家なんか無かったですよ。お釈迦さまの考えを信奉していった人達が集まって、それをサンガと言ったんですよ。


それで一番質素な衣服を纏う様になったもんだから、袈裟をつける様になったんじゃないですか。

ご承知かどうか十分わかりませんが、一番質素なお袈裟って言うのは、兎に角、これは物凄く高級なものですけども、

死体を包んで墓場に持って行って、捨てた様な物とかね、鼠が噛んで着れなくなった様な物とか、何かで汚してしまったものとか、

兎に角もうそのままではそれが使えない様な物が、廃棄処分になるじゃないですか。そう言う廃棄処分になった物の中から、

きれいな所だけこうやって切ってですね、そしてパッチワークの様にして、この一枚の身体に纏うだけの大きな布を作った、

それが袈裟です。


それただ作ったんじゃ面白くないから、当時、お釈迦様族の釈迦族がやっぱり田畑を田んぼを、農耕民族が多かったので、

その田んぼの畦をデザインとして使った。だから五条衣とか七条衣とかって言う風に、田んぼの畦がある、そう言うデザイン。

でそう言うお袈裟がどう言う風に世の中へ伝わってくるかって言うと、中国では都を造る時に、お袈裟を地図にしてこうやって

広げた様な形で都を造った。それが日本でも平城京とか言う様なものが、お袈裟の町ですからね、京都は。見て御覧なさい。

五条、六条、三条、あれお袈裟の町です。そう言う色んな歴史がある。

そう言う一番質素な物をサンガと言われる人達が着る様になったから、今の様なお坊さん達って言うのが出て来たんでしょうね。


そう言う仏法僧の三宝を敬う、大切に思う。「諸々の比丘既に信施を受く、」そう言う生活をしてるから、

サンガとしての比丘、坊さん達がですね、多くの人から敬われて施しを受けている。

この正法眼蔵の様子は、これを聞いている対象は、正しくそこに居る出家のお坊さん達にこれ説いているんでしょうね。

道元禅師これを引いたと言う事は、この文章を引いたと言う事は。あなた方はそうやって色んな人達から信施を受けているのに、

どうして本気になって修行しないのかって、パン!言ってる。「云何が修行せざらん。」まあそう言う様な事です。


「しかあればしりぬ、飲食衣服、臥具医薬、僧房田林等を三宝に供養するは、自身および妻子等の身肉皮骨髄を供養し

たてまつるなり。」
各自自分自身の生活してる中から身を削ってって言う様な表現があるじゃないですか。施しをする。


「すでに三宝の功徳海にいりぬ、すなはち一味なり。すでに一味なるがゆゑに三宝なり。」

唐辛子に一味唐辛子ってあるじゃないですか。七味唐辛子もある。一味ってどういう味わいを言うのでしょう。

真味って言う言葉もあるでしょう。本当の味わい。その時に、それ以外の在り様が無いって言うのが一味でしょう。

それは食べ物だけじゃないですよ。生活してる全ての時に、本当にその時その通りの事があるだけだって言う事が一味ですよ。

それに人間は各自勝手な思いをつけるんですよ。そうすると色んな事がある様に思えるんです。

で、色んな事があるように思えると、その思いの方だけを相手にして、本当にその通りも事がそこで行われてる大事な事を、

全く目を向けなくなっちゃう。


修行を知らないという事になるんじゃない。修行のあり方を知らない人は、間違いなくそっちに行く。

実物を本当に知りたかったら、実物に用があるのでしょう。そんなの誰でも知ってる事じゃないですか。

だのに、実物を本当に知りたいのに、考え方を相手にするのね。それでものがわかる訳がないじゃないですか。

それ日常生活の中できっと気が付いてる筈ですよ。


「すでに一味なるがゆえに三宝なり。」内部を見ると、その三つがその中にきちーんと備わってるじゃない

ですか。「三宝の功徳すでに自身および妻子の皮肉骨髄に現成す、精勤の辧道功夫なり。」精進して勤めるね。

倦む事なく勤める。そう言う修行の在り方。「いま世尊の性相を挙して、仏道の皮肉骨髄を参取すべきなり」

何が私達が参考になるかって言うと、かって学ばれたお釈迦さまの修行ぶりが、どういう風な事をなさったかと言う事が

参考になって、私達もその様に修行するのでしょう。それが仏道を学ぶと言う事なんでしょう。


じゃそれは具体的にどう言う事かったら、お釈迦様の何かをやる事ではないと言う事でしょう。

お釈迦様があなた方右をみてごらんて言ったら、自ら今こうやって右をみるって言う事が、本当にお釈迦様の残された事を

学ぶって言う事ですよ。こうやってお釈迦様がやった通りの事がそこに出て来るでしょう。右をみてごらんて。

こう言う風になるんだって。それはお釈迦様がやるんじゃない。自分自身がその通りそうやってやる事なんでしょう。


「いまこの信施は発心なり。」心のない人はこんな施しは無理だろうね。

「受者比丘いかでか不修ならん。」相手がその様に、本気になって供養してくれてる物に対して、

こっちがいい加減でそれを受けて、そんな失礼な事はすべきじゃないって言う事でしょう。

それは別に坊さんだけじゃないでしょう。皆さんの生活だって同じでしょう。


頭の先から尻尾まで正しいって書いてある。「頭正尾正なるべきなり。」嘘偽りのない、自分にとって、

自分自身に対して、自分自身が嘘偽りの無い生活をするって言う事、それが自分を楽にするのでしょう。

誤魔化したり何かしてると、気にしない様にしようと思っても、気になるじゃないですか。

いい加減にやった事が気になるんじゃないですか。だれも自分を苦しめるんじゃなくて、自分自身の生活は、

自分自身がそうやって、チクチク、チクチクさせるんじゃないですか。


「これによりて、一塵たちまちに発すれば一心したがひて発するなり、一心はじめて発すれば一空わづかに発するなり。」

こう言う事があるから、どんなわずかな事でもいいから、本気になってやって、ものは変わっていくのでしょう。

「おほよそ有覚無覚の発心するとき、はじめて一仏性を種得するなり。」知るとか知らないとかって言う気づき

があるかもしれない。そんな事どっちでも良いでしょう。

心を動かすものが有った時、それによって人の心が動いていく様になるんでしょう。

それは気をつけていないと自分の中では、そう言うわずかな動きが起きた時に、自分の考え方や自分の思いで捨てていくよね。

もう大きくなってしまったからって言うかもしれないけど、人が育って来る間に、小さい時からずーと育って来る間に、

本当に色んな事が自分自身の中でやりたい事が色んな縁に触れて一杯起こってきた筈ですよ。

何もやる事がない、目的が見つからないなんて嘘でしょう。そんな事無いと思うよ。自分を見てないから気付かなかったんでしょう。


で、そう言うものが起こったにしても、周りの人が、一番ひどいのは、この前も言って何かやる様な事言ってたけど、

三日で止めちゃったじゃないかって、今度もやらないんだろうって言って、そうやっちゃけしかけるから、もうそう言われるとやらない

じゃない。そんな芽が出てきたもの、皆摘んじゃうじゃない、私達が。温かく見まもって育てたらいいんじゃないの。

悪い事しようって言うんじゃないんだ。


「四大五蘊をめぐらして、誠心に修行すれば得道す、」この頂いてる身体、身心ですね、「四大五蘊をめ

ぐらして、誠心に」
 誠の心を以って修行すれば、道は必ず得られる。

「草木牆壁をめぐらして誠心に修行せん、得道すべし。」一切の身の回りのものとこうやって一緒になって生活

してる。そう言う事の上においてもですね。今こうやって自分達の命があるのは、この取り巻きの全てのものと別に、皆さんの命が

ある訳じゃない。そう言う間柄ですからねぇ。「四大五蘊と草木牆壁と」だから同参と有るんじゃないですか。

あるいは同生とある。同心、同命、こんなに丁寧に道元禅師はものの在り様を示しておられる。

同心同機、「同機なるがゆゑなり。」


こう言うものもよーく味わって頂いたらいいんじゃないですか。この四大五蘊が、この各自自分自身の身心とですよ、今ここで生活

してる事と、皆さんが考えてる自分以外だと思ってる草木や垣根や壁、今と言う時間みたら本当に分かる様に、

一緒に生きてるんでしょう。別々じゃなくて。同生って同じ働きをするのでしょう。


石は叩いても痛くないって言う。机は叩いても痛くないかって、パン!(机を扇で打つ)そう言う問題じゃないね。

こうやってやれば机だってこう言う風になるのでしょう。パン!人間の様に声を発しないからパン!なんで叩いたんだっとか

言わない程度じゃないですか。同心。同命。いいじゃないですか。別の命じゃない。今と言う同じ命を共有して生きてるんでしょう。

ここと言う同じ場所を共有して生きてるんでしょう、今、ここ。一心同体って言って良いでしょう。

その辺にしときましょうか。勉強の目の付け所というものを、もう一度ね、触れてほしいですね。それだけ申し上げときます。


  1. 2017/09/11(月) 18:47:34|
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発菩提心 Ⅲー 3

音声はこちら ↓

発菩提心5月_03_01.
発菩提心5月_03_02
発菩提心5月_03_03
発菩提心5月_03_04




「尽十方界、真如仏性、おなじく法住法位なり。」法住法位って、そのものがその所でその通りにあるって

言う事でしょう。音ひとつだってパン!この音が何処にあるかったら、この音はパン!

この所にこの通りきちっと法住法位でしょう。他でこの音がパン!するって事はないのでしょう。

この音は必ずここで、パン!この通りするのでしょう。

パン!この音は必ずここでするのでしょう。皆さんだってそうでしょう。

必ず自分の行った先々で生活するのでしょう。その他に生活する場所が無い位、法住法位でしょう。

きちっとしてます。乱れた事は一度も無い。


「真如仏性のなかに、いかでか草木あらん。草木等、いかでか真如仏性ならざらん」ものを下手に学ぶと、

真如仏性の中に草木と言う様なものがあると思うのでしょう。草木自体が真如仏性なんでしょう。他にあるんじゃない。

よく聞く言葉なんかでも、お茶をやってると、茶禅一味って、どっちがいいか知りませんが、お茶をたてる時、禅の心の様にって、

要らん事じゃないですか。お茶をたてる時は、只お茶をたてるばかりなりって、それが禅の心なんじゃないですか。


だから禅をして、息を数えて、数息観、随息観、それを聞いて、何時も思うんだけど、この人坐禅知らないなぁって。

坐禅して何で随息観や数息観やるの、そう思いませんか。お茶を飲んでですよ、何でジュース飲むのよ。

お茶を飲んでるだけでいいじゃないですか。ジュース飲まなくたって

。お茶を飲みながらジュース飲むから、何やってるかわからなくなるでしょう。

坐禅しながら数息観、随息観やるって事は、変じゃないですか。


こうやって見てごらんて言う時に、何でこんな事を、こっち(別の物)見るんですか。これ見てごらんて言う時に、これ見るんですか。

見える訳がないじゃん、それじゃ。長い事参禅してますが、随息観やってます。

坐ってないの?って言うと、坐ってます、坐りながら随息観やってます。どう考えてもおかしい。

坐禅て言う事を知らないからでしょう。そりゃ、こうやってる(坐る形)事が坐禅だと思ってるからでしょう。

その程度だから、それだけで居られないのでしょう。


「諸法は有為にあらず、無為にあらず、実相なり。」ありとあらゆるものの様子見て御覧なさい。

有為とか無為とか、皆、普通の言い方をすれば、真実じゃないですか。皆さんが好きなもの、嫌いなもの、良いと思うもの、

悪いと思うもの、皆ひとつも嘘はないじゃないですか。今そこに展開されてる事実に間違いないじゃないですか。

取り除きたいって言う前にあるんじゃないですか。既に。

取り除きたい、邪魔だって思う前に在るって言う事は、確かさがあるんでしょうが。


実相って言うんでしょう。「実相は如是実相なり、」更にですよ、そこのとこ、よく味わって下さい。

「如是は而今の身心なり。」ですよ。本当の在り様は今、この通りじゃないか、一々ってこう言ってるわけ。

ね。その今、今、如是って言うのはどういう事かったら、今の一人一人の身心の様子そのものじゃないかと言ってる。


だからこうやってパン!(机を扇で打つ)参究するのでしょう。今の皆さん方の身心の様子でしょう。

今の皆さんの様子じゃない人いますか。こうやって(扇開いて)それは私に関係ないって、そう言う人いますか。

パン!「而今の身心」而今の身心でしょう。今の皆さんの身心の在り様でしょう。

如是ってかくのごとしって言うんですよ。かくのごとしパン!じゃないですか。エー。かくのごとしです。

パン!パン!パン!よくわからない。パン!パン!そんな事ないでしょ。

かくのごとしじゃない。嘘偽りひとつも無いじゃない。パン!パン!パン!如是実相。


「この身心をもて発心すべし。」こう言う風に出来栄えの素晴しい在り様で生きてる。

この事に気づく必要があるんじゃないですか。ああ !って。


「水をふみ、石をふむをきらふことなかれ。」縁は、あるいは材料、教材はどんなものでも良い。

人に馬鹿にされた様な言葉だって、皆修行になるんでしょう。引っ叩かれたって修行になるでしょう。

出来れば、そう言う事でない方がいいかも知れません。間違いなく、ねぇ。そんな荒っぽい事や。

「而今の身心」パン!どう言う事がこの身の上に触れる事があるかわからない。どれでも良いんです。

本当にどうあるかが問題なんですよ。パン!その時。如是実相として、自分の様子として。

その時に、パン!パン!どう在るか。


石頭希遷と言う人の所へ尋ねて行った。あそこは石が丸くなってるから、足元を気をつけないとすべるよっていわれて、いった。

そう言う所に住んでたんですよね。石頭山。丸い石が一杯出る様、それに苔が付くから、雨上がりなんかつるつるすべる。

だから気をつけて行きなさいよと言う様な話もある。


「ただ一茎草を拈じて丈六金身を造作し、一微塵を拈じて古仏塔廟を建立する、これ発菩提心なるべし。」

ほんのわずかな一茎草、一本の草ですね。茎をこうやって取り上げて、それで身の丈六尺もある様な、金色に輝く仏様を作る。

それ、日本で言えば、わらしべ長者の話なんかがあるじゃないですか。


あるいは一円に泣くとかって言う、一般の方々の中の話の中にもあるんです。

千円にするのに、999円、どうしても一円足りない。一円なんか大した額じゃないんですけど、その一円が無いと千円にならない。

これが合わないと今日銀行から帰れない。一円は面倒臭いから、一円ならって出しちゃおうかなって思って出して、帳尻をあわして

帰って、明日他の人がやった時に、一円多いって言う事になった時、これ又大問題ですよね。

要するに、額が少ないからどうでもいいんじゃなくて、正しく経理されてないって言う事が問題になる訳でしょう。

それがどの位大きな、後々ですね、問題を引き起こすか分からない事なんでしょう。

一般社会ではそう言う事問題にされるじゃないですか。

私達の方では、こうやって一茎草を拈じて丈六の金身を造作し、一微塵を拈じて古仏塔廟を建立する。


私がお付き合いしてた静岡の方。若き家康が今川の元でかくまわれてた臨済って言う臨済宗のお寺があります。

そこのお寺のお地蔵さんかな、何かを作る時に、その方が和尚さんに寄付をされた。ふるってるなあと思ったのは、

穴の開いたお金を紐に通して持って行った。

一万円の額を五円玉をこうやって数珠になるほどザーって、少ないけれどもって言って。ズシっと重いんだよね。面白いですね。

一万円札持って行って出したらね、フッとやったら飛ぶんだよね。

ところがね五円玉で一万円こうやって紐で通して持っていくとね、違うんだよね。


それは最近までそうだったんじゃないですか。給料なんかも手渡しだったでしょう。いつの時代からか振込みになったんでしょう。

あれで人生変わったんでしょう。世の中。私らの学校の時代は、教科書でもちゃんと子供に現金と引き換えにですね、一冊ずつ、

これ国語の本とかって貰って勉強した。今の子供たちはお金払った気配が全く無い。無償でものを貰っている様な感じで。

兎に角違うんだよね、物が動くと言う事は。あの、考え方はですよ、そこまで物を買って送るなんて言うよりも、

向こうで買った方が安いんですね。送料も要らないですね。そうじゃないですか、考え方って。

無駄な事をしているなって言われるじゃないですか。そうじゃないでしょ。


打ち明け話みたいな事をちょっとしてお茶を濁しますが。

少し私より若いかもしれないなと思うんだけど、私が修行してる頃、あの鶴見と言うご本山の所に、鶴見の女子高と短大と併設して

あって、そこに参禅クラブって言うのがあって、ご本山にそのクラブの子供達が引率の先生と一緒に坐禅に来る。

私がご本山で修行さして貰ってる時代もそう言う事があって、この前手紙が来た。終活って言うんですね。終活って言うのは、

もうそろそろ自分の人生が閉じると言う事でしょうね。それで手紙を、って言って届けてくれた。


一番最初に会ったのは、それで短大に入った。卒業してから、ご主人と結婚して子供が出来て、ずっと今日までの話をずーっと

書いてある。で、その、こう言う仏道と言うか、禅と言う、こうやって触れたお陰でって、今自分の人生の喜びを書いておられた。

ただあの電磁波って、何か外出れない位、脳がこう侵されているらしくて、会いに行きたいけども、最後にちょっと会って話しを

したいけども出れないですって書いてあった。で、じゃ本なら電磁波は出てないかなと思って、本を贈ってあげた。


そう言う一微塵だね、ほんとにそんなのは。ここらにある塵位の触れ合いの話ですよ。

それがある人によっては人生を変えるんだよね。私なんかそんな事、全然知らないで過ごした。そんな事。

手紙を見て、ああそうかなぁ。何が本当に人を動かすかわからないね。


「これ発菩提心なるべし」見仏の巻は済んだけど、「見仏なり」と書いてある。

自分の真相に触れると言う事でしょうねぇ。見仏って。自分の事だから一番よくわかっていて当たり前だと思う事が、人間は多分

一番疎かにされている。で、他にもっと素晴しい何かが有るって言う話の方には、皆くっついて来る。

それは道元禅師はだから、「他土の往生を願はしむ」、惑乱がこれより起こるって言って、当時の宗教界を

痛烈に批判してるんじゃないですかねぇ。ああ言う事を教えてるから、本当の事が分からなくなるんじゃないかって言って。

そう言う事をしてる。私もそう思う。本当に。


「聞仏なり、見仏なり、聞法なり。作仏なり、行仏なり。」言葉は知ってますよね。仏ってね、多分。

だけど、仏様のお声を聞いた事がありますか、生の。仏様の生の声、どんな声ですか。

そうやって尋ねた時に、先ず自分の頭の中仏様を描くのでしょう。描いた仏様を相手にするのでしょう。

本当の仏様を何で相手にしないんですか。本当の仏様は各自、自分自身の真相ですよ。よく分かっているでしょう。

仏って言う原語がその通りじゃないですか。自覚せることじゃないですか。何回もいいますけど。

自分自身の真相を自分自身で触れて、なるほどって言って目覚めた人なんでしょう。それを仏と言ってきたんでしょう。


それだのにいつの間にか自分とはかけ離れた所に仏様らしいものをこう描いて、そしてその描いた、自分の中で描いた仏様を

捜し求める様な愚かな事をするのでしょう。尋ね当たった時に、何に尋ね当たったかったら、自分の描いた仏さまを見つけただけ

であって、本当の仏様を見たんじゃないんでしょう。気に入った自分の気に入ったものを見ただけかもしれない。


つまらないと思いませんか。「見法なり、」ってあるけど、法って何ですか、法。どんなルールがあるんですか。

法は人が作ったルールじゃないですよ。

憲法は人が決めるのでしょうけど、仏法と言う法はですね、人が決めるんじゃないんですよ。

パン!(机を扇で打つ)こうやってやると、誰も決めないんだけど、こう言う風に聞こえる様に出来てる。

こうやって見せると(扇を開いて)誰がその様に見ようと、しようとも、考えようとも、そう言う事関係ない。

必ず、こう言う風にこの通りなる様に出来てる。ルールです。法ってそう言う風に出来てる、ルール。


それだけじゃ面白くないから、こうやって見せといて、(扇の一面を開く)こうやってやると、(扇の反対側を見せる)さっきのものは

無くなっているって風な、これもルールです。ねぇ。こうやってやるとこう見えて、こうやってやるとこう見える。

さっきのものが見えなくなる様に生活してる。これルールです。


これで気が付けば、人の生活してる中で、人を悩ます様な残りものが一切無しに生活できるって事でしょう。やってる訳でしょう。

皆さんの各自の眼。やってる事に気が付かないんでしょう。自分自身の生活の中でやれてる事に気が付かないから、

どうしたらそう言う風になるんだろうって思ってる事しかやらないじゃないですか。


思う事の方に、手を付けて何かするんじゃないって、ずっーと申し上げてるのはそう言う事です。

自分の中で間違いなく誰しもがやれてる事実ですよ、これに学ぶのです。そうするとコロッと行く。

そう言うものが法を聞くと言う事じゃないですか。聞いただけじゃつまらないから実践するのでしょう。作仏、行仏。

あれ食べたら美味しいよっって聞いただけじゃ何の味もしないから、買いに行って或いはそこへ行って、実際に食べると

なるほどって言って、良いじゃないですか。




  1. 2017/09/10(日) 18:52:49|
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