正法眼蔵を学ぶ

発菩提心 Ⅰー 3

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「おほよそ発菩提心の因縁、ほかより拈来せず、菩提心を拈来して発心するなり」で、その説明が続きますね。

「菩提心拈ずといふは、」と言う表現になってます。「一茎草を拈じて造仏し、

無根樹を拈じて造経するなり。いさごをもて供仏し、漿をもて供仏するなり。一摶の食を衆生にほどこし、

五茎の花を如来にたてまつるなり。他のすすめによりて片善を修し、魔に嬈せられて礼仏する、また菩提発心なり。」


何に拠って菩提心を起こすかって言ったら、手当たり次第、どんな事でもいいんだけど、その事に拠って、よしやってみようって

思う心が起こると言う風な事でして色んな例を挙げてありますね。


先ず最初に、「一茎草を拈じて」ってあります。一茎草とありますから、一本の草の茎を取り扱ってますが、

ここに仏様を作ろうと思う時に、一本の木を拾って来て、そしてそれを切り刻んで仏像を作る、言う様な事でもいいでしょう。

或いはそこら辺にある土を掘ってきて、水で柔らかくして粘土の様にして、それで形を作って仏様を作る。


小便地蔵と言うのがありますが、小さな子供が土を捏ねるのに、おしっこをかけて、それで土を柔らかくして、そして仏様を作った。

それ小便地蔵って言う。お地蔵様を作った。仏様はそう言うものありがたく、こうやって拝んでおられる。

浄心、きれいな疑いのない、清らかな、心から、本当に心がこう動いて行く、そう言うものに対しては、それを物凄く大事に

しておられる。菩提心を起こす。藁しべ長者と言う様な話も日本ではある。まあそれは皆さん知ってるから、それでいいでしょう。


「一茎草を拈じて造仏し、無根樹を拈じて造経する」って、まあこの無根樹の話は補注の中に出て来るのでしょう

が、日本ではですね、私が記憶してる中で、竹取物語、所謂かぐや姫の物語の中に、お婿さんを選ぶ時に、何か難題を吹っかける

んじゃないですか。3つ位。こう言うものが出来たら、嫁さんになっても良いとかって言う様な、何かあったよね。

あれに似てるんです。この無根樹って言うのは。エー後ろの方、ちょっと読んでみるとわかるんだけども、持ってない人はないね。

この補注の方だから。495頁の処の後ろの方に無根樹って言うのが書いてある。補注。

「上堂に挙す、七賢女は並びに是れ諸大国王の娘なり。賞華の節に遇ひて、百千人衆、各々所游の処に奔趨して楽を取らんと

以為り。」奔趨って、走って集まってくると言う様な意味でしょうかね。楽しみを取らんと思えり。

ずっと意訳をしてもう一回みますと、七人のその賢い女の人が居たんだけど、その人達は皆、立派な大きな国の王様の娘さんだと

言うんですね。その人達が春になって華が咲く時に、その桜見物みたいな事でいいでしょうかね。


エー大勢の人達が集まって来た中に、一緒にそこに居られて、で、楽しい時間を過ごそうとした。だけども、その七人の賢い女性の

中の一人の人がですね、言われた。「あなた達よ」と言う。後の六人に対して、ですね、「諸姉妹、我れと汝達と亦た衆人と同じく塵

寰に遊賞して其の世楽を取るべからず。」あの人達、何百何千と集まって来てる、ああ言う人達と一緒に花見をして、

そう言う楽しみ方をするべきではない、って言われたんですね。「却て諸姉と同じく屍陀林に游ばん。」

要するに、死骸の置いてある林に、我々は行こうって、この花の咲いてる所じゃなくて墓場の様な所、昔の、何だろう、

焼き場の様な所へ行こうって言うんですね。そしたら、その言われた方の外の六人の人達ですね、

諸姉曰く「あすこはあんまり良い所じゃない、汚くて、人の屍がずーっと並んでる所、嫌だなーって」言っております。

あんな所に何が良い所があるのって、此処の方がずーっといいんじゃないかと言いたいんでしょうね。


で、先ほどの一人の女性はそれに続いて、「いや、皆一緒に行こうよ。」と言って、きっと向こうに良い事があるよって言って

勧めて、それで7人のその賢い国王の娘さん達は、そちらの屍のある林の方にこう行く訳ですね。

果たせるかな、そこには屍が転がってる。それを見て、「人、什麼の処にか向かって去る。」

そう言う事をこの一人の女性が言われたら、仲間の女性達が、それをしっかり見届けて、「諸姉諦観して、是に於て悟道す。」

とある。深く何か気づかされたのですね。


皆さんだってそうでしょ。人が亡くなって、その骸がそこに横たわっている所に触れた時に、どれだけ多くの事を人は学ぶでしょう。

一番きつい事は、私自身は今こんな事をしてていいのかって言う事に、一番気づかされるんじゃないですか。

今までこうやって生きて来たけど、本当にこれで大丈夫なのか、自分自身、やらなきゃならない事があるんじゃないか、

生きてる間にもっと。そう言う事が切実に伝えられるのは、骸の前に立った時じゃないですか、皆さん。


一休禅師と言う方は狂歌と言うものを作っておられる。「今までは 人のことだと思うたに 俺が死ぬとは こいつたまらん」

そう言う歌を作ってる。ねぇ。沢山の人が死んで行くのを送って来たから、あああれも死ぬ、これも死ぬ、あれも又死んだなぁって

言ってたんだけども、そう言う中でですね、死ぬって言う事は、おれも死ぬんだって言う事に気づいた時に、今までの様に

うかうかして眺めてる様な訳にはいかんなーって言っておられるじゃん。一人の人が生涯かけて過ごしたものが、終焉を迎えて、

そこで私達に語りかけるの、そう言う事でしょ、これまで。


まぁそこで、道を悟ったのですが、「乃ち空中を見るに、天華散墜し讃めて言く、」悟った娘さん達にですね、「善哉、善哉」

「女曰く『空中に雨華讃嘆する、復た是れ何人ぞ。』」それに対し「空中に曰く『我れは是れ天帝釈なり。』帝釈天だと。

「ちなみに」あなた方七人の娘さん達よ、道を悟ったのを見てですね、で、諸々の眷属と共に、ここに帝釈天の一族がずーっと

群れて来てですね、皆さん方のその道を、本当の在り様って言うものに気が付いたって言う事を褒めたんだと、

こう言っておられる。それに比べ、あっちで千人位の人が花見で浮かれてるけど、あの人達は哀れだなあって、楽しんでそうに

見えるけど。言う様な事をここにずっと言っておりますかね。

「唯願わくは聖姉」、すぐれたお姉さん達、「所須あらば」求めるものが有ったら、もし欲しいものがあったら、何でも言ってくれ、

生涯あなた達が不自由ない様に、生活できる様に皆差し上げるよ。そこまで言ってくれる、凄いねぇ。皆さん、そう、悟ると

そうなるらしいよ。


そしたら、そのお悟りを開いた方がですね、そうは言ってくれるけども、これと言って、あなたに求めるものは、考えてみても中々

思い当たらない。殆ど足りてる。敢えてもし言うんだったら、次の三つを所望したい。一つは根の無い樹ですね。

それから陰陽、太陽とか月の、陰陽ですね、陰陽の無い土地、あるいは山に向かって声をだしてもこだまが返って来ない様な山、

こう言うですね、三つのものを所望したって、ここに出てる。その中にあるのが、今挙げた無根樹ですね。それでいいでしょうね。

無根樹。そう言う様なものに近いものが、竹取物語に、私が記憶の中にどっかにあるんですね。もう一回読み直してみると、どっか

出て来ると思うんです、そういうものが。まあ出典はそう言う事ですね。

竹取物語では

 1)石作皇子 「仏の御石の鉢」

 2)車持皇子 「蓬莱の玉の枝」根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝
 
 3) 右大臣阿部御主人「火鼠の裘(かわごろも) 焼いても燃えない布
 
 4)大納言 大伴御行「龍の首の珠」
 
 5)中納言 石上麻呂「燕の産んだ子安貝」

を持って来れば、結婚の約束を果たそうと伝えた。


エー、あるいは砂ですね。砂(いさご)を以って仏に供養した。仏様が托鉢に回って来られたら、小さな子供がですね、

砂浜におられたのか、その砂浜の砂を両手に掬って、応量器の中に、托鉢の器の中に。良寛さまがあそこにこうやって、応量器を

持った良寛さまが、あすこ(円通寺)の本堂の脇に立っておられますけど、ああ言うお鉢の中に、ずずーっとですね、砂をいれた。

常識的には、こんなものを差し上げたって食べられる訳がないじゃないですか。で、とんでもない奴だって言う事になるんでしょう

けども、子供がですね、子供が、仏様が托鉢に来た時に、何も差し上げるものが無いって、差しあたってこうやる、どうぞ、

こうやって、その清らかな心って言うものは大切なものだとこう言ってるんですね。


私も時々、最近はそう言う事は無くなったけども、お経に行くと、ちいちゃい子と遊ぶとですね、帰りにですね、なめてた飴を

ですね、くれるんですね。有難いなってくれるんです。もう、これ最高のプレゼントなんだね。普通はくれないよ、自分がなめて

美味しいものは、他人に。そう言う事がある。そう言うものをこうやって受けとって、ちゃんと対応して上げると、子供は喜ぶ。

多分、そう言う子は、大きくなって必ず何か変わるなぁ。所が大人の方はそれに対応出来ない。ねぇ。不思議ですね。

そうすると、子供のこの素晴しい心はそこで、いえてしまってる。育たないな。


「あるいは漿をもて供仏す」ってこれも後の方にあるから、また読んどいて。あの、ざっと言えばですね、

とぎ汁の様なものを、貧しい家の方がですね、たまたま、もうお米を研いだ後の汁だから、捨てに行こうとした時にですね、

お釈迦様が托鉢をして来られた。托鉢に来られたけれども、私は何も差し上げる物がない、もしこんな物でも良かったらって

言って、お釈迦さんにそれを話したら、それを快くそのとぎ汁を受けてくれたって言う話なのね。これによって、この人はですね、

発心するんですよ。凄い動機でしょう、機縁て。人が心を本当に動かすって言うのは、こんな事があるんだよね。

驚く様な事じゃないですか。


「一摶の食を衆生にほどこし、」これは食べてるものの一口位をちょっとおにぎりの様にして握って、

こうやって上げたって言う。人間て自分が今食べてても、誰か物を貰いに来た人が居ると、中々上げられないものですね。

食べてる物があるんだから、まだ上げられる物があるんだけど、それを止めるなんて事はよっぽどでないと出来ない。

でもそう言う風な事に出合うと人は変わるのね。何だろう、人の真心って言うのが、人の本心が見えるんだろうね。

屈託のない、拘りのない、執着のない、憐れみの深い、分け隔てを持たない人の触れ方。


物を乞うて歩いてる様な人は、大体人から差別されて生きてますからね、虐げられた様なものの見方をされてる人、殆どですよ。

そう言う人はね、特にこう言うものに触れたら、心は動くねぇ。兎に角色んな事で発心するんです。

そう言う事がいっぱいこう挙げてある。


「五茎の花を如来にたてまつるなり。」これなんかでもそうです。何かお花を、仏様が来るから、

皆何か仏様が来たら差し上げようって言って、花を持ってる人がそこにいた。そこに一人の人が通りかかった時、

皆何してるんですか、いや仏様が来るから、私も何か差し上げようと思って、これもってるんですって言った時に、その人は、

私にその花の一つも譲ってくれないかって、10円100円1000円一万円一億、言う位、要するに有り金全部はたいてでも良いから、

その花を一本分けてくれないかって言う様な事になるのですね。

そうやって得た花を仏様に差し上げて、上の方から花びらをパラパラと撒いた時に、その方々の花びらは大地に落ちずに、

仏様の体にピタッとついて、落ちなかったって言う、そう言う話が出てくるんです。

要するに、他の人の差し上げた花よりも、内容がですねぇ、尊いと言う事でしょう。


貧者の一灯と言う様な事も同じ様な事で挙げられてますね。貧乏な人が、何か供養したいと思った。供養する物がないから、

自分の髪の毛を切って売って、そして油を買って、何分か燃える位のわずかな油しか買えなかったんだろうけども、

その油を買って、仏様に蝋燭の様に火をつけて供えたら、この蝋燭が誰の火よりも長く消えずに保ったって言うのが、

貧者の一灯ですよね。何を意味してるかって、大体わかるでしょう。


要するに、物質的言いえば、そんなものはすぐ燃えて終わちゃいますよ、間違いなく、少ないんだから。

だけども、その心って言うか、真意っていうものはそう言う尊い大事なものがあるって言う事を言いたいのでしょう。

発心てそう言うものですよね。何によって、本当に自分がやろうって、本気になってやろうと言う気持ちが起きるかわからない。

一杯ありますね。


「他のすゝめによりて」人から勧められてやる事もある。それだっていいじゃんね。良い事を行う。

「魔に嬈せられて礼仏する、」って言うのもある。悪魔の様なものが囁いて仏様に供えたら、何か良い事が

あるよって、それを信じて捧げてもですね、それでも功徳がある、本気になって。悪人に勧められても、善い事をすれば、

やっぱり善事なんでしょう。


「しかのみにあらず」これだけじゃないと言っております。まあ一杯続きます。

「知家非家、捨家出家、入山修道、信行法行するなり。」本当の住処は、今自分の家だと思っている様な

ものは、本当の住処じゃないよって言うのが、家は家に非ずと知るって言う事でしょう。本当の住処は、皆さんの住処は

このものの在る所ですよ、何時も。このものの在る処、これが誰しもの、本当に失われない住処ですよ。

そこで如何いう風に生きるかです、何時も。こうやって家を捨て、ねぇ、家を出る、そう言うものから本当に離れて、

自分自身のこの身心と何時も一緒にいる、そこを生活の根拠地として、大事に生きて行くって言うのが、出家をした人達の姿です。


「山に入り道を修す」良いでしょう、そう言うのもある。それから「造仏造塔するなり。」

仏を造ったり、パゴタみたいな塔、スツッパかそう言う様なものを建てる。塔。或いはお経を読んだり、仏を念じたりする。

或いは人のために説法するとか、あるいは師を尋ねて道を問むろうとか、更には坐禅する、結跏趺坐する。

或いは先ほどの様に、チーンとやって、一緒に手を合わせて三宝を礼拝する。仏法僧の三宝です。真理に目覚めたものを、

先ず大事にする。そして世の真理を大事にする。そして世の真理を学ぼうとしている集いを大事にする。

それが仏法僧の三宝ですね。


或いは手を合わせて、南無釈迦牟尼仏とか南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とかって、仏様を一言で良いから口に出して

唱える。それは心が無ければやりませんよね、本当に。悪戯でも良いから、やれと言うんです。真似事でもいいから。


まあ、「かくのごとく八万法蘊の因縁、かならず発心なり。」だからどんな事によって、人が目覚めていくか

わからない、よしって。いきなりその事で変わるんです。


人の歩いてる姿をみて、お釈迦様の時代ですよ、町にお坊さんが歩いてる姿を見て、その歩いてる姿をみて出家した人いる。

あんなに、あんなに清清しい歩き方をしている人はいない。どう言う人に付いて修行してるんだろうって、付いて行ったら、

お釈迦様の下にたどり着いたって言うんです。で、そのまま出家した。色んなのがいる。色んなものがありますよ。


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  1. 2017/07/26(水) 19:35:05|
  2. 発菩提心 
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発菩提心 Ⅰー 2

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次の所ちょっと行きますよ。大証国師、南陽の慧忠国師という方、中国の達磨さんから六代目の大鑑慧能禅師の教えを

受け嗣いだ人ですね。その人が言うのに、「牆壁瓦礫、是古仏心」字をひとつずつ拾っていけば、

垣根とか壁とか瓦とか、焼物ですかね、礫、それらがですね、古仏の心だと言われている。

何で心って、そんな壁や瓦や石ころの様なものを、心だと思ってる人は誰もいないよね。不思議に。

それは物質だと思ってるじゃない。しかも、自分以外のもの、向こうにあるものと思っていませんか。


だけど、本当に瓦に向かうと、瓦に向かった様にころっとなる。壁に向かうと壁に向かった様にころっとなる。

そう言うものを心の様子と言うのでしょう。しかもですよ、ここに挙げている牆壁瓦礫って言う物は、その物が人に何か意地悪を

する様な気配は何も無い。人がただそのものに触れた時、自分の中で色んな思いが起きるだけであって、ねぇ。

物の方に人の見方や考え方は付いてないって、時々話させて貰ってるけど、実物の方には人の見方や考え方ついてません。

人がその物に触れた時、各自自分の中で、その物に対する見方や考え方をつけて、ものを汚していく、歪めていく、

それをしないんです。古仏の心って言うのは。本当にその時に、その通りその事に触れて、その通りになっていく。


実際は私達は生活の中で、必ずそうなってますよ。ただそこを見ないでけですよ。そう言う風になって活動してる事を。

自分で見ないだけ知らないだけですよ。自分の思いなんか跳び越えて必ずなってますよ。ニコッと笑った、相手がニコッと笑った時

に、好きとか嫌いとか超えて、ニコッと笑った様に必ず変わるんですよ。ブスっとした顔で居る時と、ニコッとした顔になった時、

必ず否応なしにかわるんだよね。誰も何もしないんだよ。そう言う風に出来てる、心というのは。


そこで、「今の牆壁瓦礫、いずれのところにかあると参詳看あるべし。」つまびらかに見てみるって言う事

ですね。ここでは一応牆壁瓦礫って言うと、何かどっかに、そう言う垣根や壁や瓦や焼き物、そう言う様な、どっかにあるって

言う風に捉えがちだけど、これは何を指してるかって言ったら、その内容は、今こうやってる一々の事がその通りじゃないかって

言う事を言ってるのですね。


味で言えばですよ、口に入れたものが舌の上に乗っかった時、その通り味がする。そう言う風にいずれの処にかあるって言う。

舌の上にそう言う事が行われている。手で物を持つ時、放す時、使う時、一々その通りの事がその通り行われている。

色んな音がする時に、必ずその音とずれて聞くと言う事がない。音がしてる時でないと、その音は聞く事ができない。

不思議ですね。音がしてる時以外にその音を聞く事は出来ない。そう言うと難しそうだけど、その音がしてる時しか聞いた事が

ない。別に不思議な事じゃない。で、音が止むと、何もしないのに、耳に何も残らない様に生活がちゃんと出来てる。

それ嘘じゃないでしょう。


だけれども、これはさっき聞いた音って言う風にして取り上げる訳でしょう。それはどう言うものかと言ったら、こうやって頁を

めくった時に、さっき見てた頁の事を問題にするのでしょう。そんな読み方をする人居るのかしら、本を読むときに。

こうやってめくっといて、さっきの頁の事って、そんな読み方をする人は居ないと思うけど。

でも生活は皆さんそうやって生活してるじゃない。変じゃないですか。


「是什麼物恁麼現成と問取すべし」パン!(両手を打合わす)どう言うことだろうって言って

おります、道元禅師が。パン!音がした時に音がした様になってる。それで十分なんでしょう。

うるせえなぁって、言わなくて良い事じゃん。そう言う聞き方はしないのでしょう、人間の耳と言うのは。

うるせえなぁって、そう言う風な聞き方はしないでしょう。聞こえた後に、それに対してそうやって、もしやるとしたら付けてるので

しょう。その頃にはめくった後だから、もう音はしてない。さっきのものは見えてない。

だのに有る様に思ってる、まだ。だから整理しなきゃならない、片付けなきゃならない、邪魔にならない様な生き方をどうしたら

出来るだろうかって。すっきりした生き方をどうしたら出来るだろうかって。常にそうやって頭で追求してるけど、

実物の方に目をむけると、何だそんな事をしなくても、願ったり叶ったり、もう私達がそうありたいなと思う通りの事が、

ちゃんと実行されてるって驚くんじゃないですか。


自覚をするって、きっとそう言う事が起こるでしょう。何だ今まで考えてた事とこんなに事実が違うのかって、自分自身のことなのに

吃驚するのでしょう。言ってみれば当たり前の事ですよ。簡単な事ですよ。だけど、この簡単な事、当たり前の事が、

気が付かないために、どれだけ人は苦しんでるんですか。要するに勉強する時、目の付け所が全く違うからでしょう。

自分の事を本当に知りたいのに、自分に目を向けないんだもん。わかりっこないじゃない。

これがどうなってるか知りたかったら、これに目を向けるのでしょう。あたり前の事でしょう、勉強するのに。


「是什麼物恁麼現成」本当にこれはどう言う事なのだろうかって、今自分の生活してるこの在り様。

思った時だけ、そう言うものが人の上にある、思いとして。思っていない時には思ってない事もない。

思いって言うのは出て来ないと気づかないものですね。で出てくると、気づくんだけど、気づいた時には出ない様にするなんて、

考える方がおかしいんじゃないですか。無理な話でしょ。でも知らない人は、こう言う思いが止んだら良いとか、こう言う思いが

出ない様になったら良いとか、そう言う風に思ってますよ。そう言う修行をしようとしてますよ。無理ですよ。


出ない間は気が付かないし、出た時にはもう手の付け様が無いじゃないですか。終わちゃったんだよ、もう。

消す事なんか出来ないよ。無くす事なんか出来ないよ。じゃその思いが出てきたら、人は邪魔になるのか、苦しむのかったら、

思いが出ても人は悩んだり苦しんだりする訳じゃないですよ。嘘だと思うならよーく見て御覧、色んな思いが出て来る。

出てきたものに対して、それを取り上げて、こんなもの、嫌なもの、煩わしい事、そうやってそのものに対して、そう言う見方を

自分がする事が問題になってるだけじゃないですか。


だから次にも出て来るんだけど、「古仏心というは」古いと言う字が書いてあるもんだからね、いにしえのって

言う風に読むんだろうけども、そうすると、物凄い昔だと思うんでしょう。「空王那畔にあらず」物凄い昔のことで

すね、「空王那畔」そう言う事ではない。「粥足飯足なり、」粥足飯足なりて、ある。

何時でも満ち足りている。


こうやって、パン!(両手で打合わす)音ひとつ聞いても、どこにも過不足が無い様に聞こえるじゃないですか。

つけたり削ったりしなくてもいい様に、パン!ちゃーんとこうやってなってるでしょう。物を見たってそうでしょう。

必ずその通りその事が、つけたり削ったりする事無しに、その事で。ところが人間のものの見方や考え方は違うんですよ。

自分の中に条件を付けて見てますから、その自分の中に持った条件に合わないと、そのものに対して、何だって、そうやって

あんまりじゃないかとか、余分じゃないかって、そう言う風に思うんです。


不思議な動物ですね。じゃ自分の考えをつけないでそのものに触れた時に、どうなるんだろう。

それじゃ生きて行かれないないのかしら。そんな事は無いでしょう。食べ物で言えば、そこにこれ位しか物がなかった。

三人で食べる時に腹いっぱい食べられるかも知らんけど、20人も来たら、これしかないのかって言うんだろうけど、無いなりに

それで皆でわけて食べて済む事なんでしょう。そうやって過ごして来たんでしょう、色々、ちょっと古い人達は。エー。

ところが人間の考え方は、腹いっぱいでなけりゃ気がすまないって思ってるから、不平をいうんですよね。


狭い所に閉じ込められて、食べる物も十分に与えられずに生活してる時、そのわずかの物を一人占めせずに、そこに居る人達と

皆で分け合って過ごすって言う事が、豊かな生き方をさせるんじゃないですか。

大きなものに触れれば大きく見える、小さなものに触れれば小さく見える様になってるだけでしょう。

小さなものに触れたのに、大きく見える様になったら、変ですよ。

希望的観察としては、小さなものに触れても大きく見えた方がよさそうでしょ。汚いものに触れても綺麗な風に見えた方が

よさそうじゃないですか。人間の考え方って言うものは。


だけどこれが、人間の考え方の様になったら大変な事ですよ。そう思いませんか。気が付かないんだよ、でも。

人間の考え方でそうやって、色んな事を思う時、こうあったら良い、あああったら良いと思うから、そう言う風になった方が良いと

思ってる。1って書いてあるやつが、人から借りる時は0.1ぐらいになった方が助かるんでしょう。ねぇ。

だけどそんな事やったら大変なんだよ、本当に。そう言うのをみると、必ずその時にその事がその通りにある事で、

足りてるんですよ、皆。 だけどこれ人間の考え方をちょっと離れてみないと、この足りてる事が中々信用できない。

本当に信用できない。人間の考え方の様になる事が素晴しいとしか思ってないから。


だから極端な例を何時もあげるけども、信号機なんか三色あそこにこうやって付いてるけど、赤になった時に、青に見える様に

なったら大変なんだよ。ねぇ。早く青になって欲しいかも知れないけど。

赤を見たら、パッと青になったりなんかしたら大変な事ですよ。赤は赤の通り見えて、それで十分なんだ。

他の色に見えないので、それで足りてる。


そう言うな事がこうやって、粥足飯足って言うんですね。草たり水たりて言うんです。一々その時その事できちっとしてますよ、

と言う事です。そっちの方を人間は大事にしないんだね。自分の思いの方が大事だ。

自分の思いを満たす様になると、幸せになったと思ってる訳じゃん。幸福って言うんでも、殆どそうでしょう。

隣の子は落ちてもうちの子は受かってくれたら良いって、入学試験でも思ってる訳じゃん。

それ幸せな世界を作ってる訳じゃないじゃないですか。


「かくのごとくなるを拈来して、坐仏し作仏するを、発心と称ず。」こう言うものの本当の原点、真相、

そう言うものによって、どうあったら良いかって言う様な事をして行く、それが発心すると言う事。

なるほど本当にそうなってるのかって。て言う様な気づきがあるんでしょうね。


  1. 2017/07/25(火) 19:27:38|
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正法眼蔵 六十三 発菩提心 Ⅰ-1

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17.3.25
正法眼蔵の第六十三、頁は321頁、発菩提心と言う巻を勉強します。少し初めに読みます。

「発菩提心 西国高祖曰、『雪山喩大涅槃(雪山を大涅槃喩ふ)』。しるべし、たとふべきをたとふ。たとふべきといふは、

親曾なるなり、端的なるなり。いはゆる『雪山』を拈来するは喩雪山なり。『大涅槃』を拈来する、大涅槃にたとふるなり。」

「震旦初祖曰、『心々如木石』いはゆる『心』は心如なり。尽大地の心なり。このゆゑに自他の心なり。

尽大地人および尽十方界の仏祖および天・龍等の心々は、これ木石なり。このほかさらに心あらざるなり。

この木石、おのれづから有、無、空、色等の境界に籠籮せられず。この木石心をもて発心修行するなり、

心木心石なるがゆゑなり。この心木心石の力をもて、而今の思量箇不思量底は現成せり。心木心石の風声を見聞するより、

はじめて外道の流類を超越するなり。それよりさきは仏道にあらざるなり。」



その辺まで読んで。下にも注釈があります様に、もう一つの表題の付け方としては、発無上心というタイトルの付け方があります。

菩提心を起こすって言うんですけども、平たく言ったら、何ですかね、自分の生活の中で折に触れて、やってみようって、

そう言う気になるって言う事でいいですかね。


で、無上心って言うのを見ると、この上ない在り方、菩提心もそうですね、悟りと言う様なものを求めていく。

高い目標を掲げると言って良いんでしょう。或いは、本当に幸せになりたいって言う、そう言う願いからね、

色んな表現があるでしょうけれども、縁に触れて、よし、やってみようって、ちらっとでも、そう言う心が起きるって言う事が、

ものを始める原動力ですからね。そう言う様な事があるに違いない。


何で、この最初のお釈迦様のこう言うものが、ここに発菩提心の処に出てくるのかって、思うかも知れませんが。

お釈迦様がおっしゃられるのにですね、ヒマラヤを大涅槃に喩うと言うのでしょう、雪山。で、その内容は、しるべしとあります。

「たとふべきをたとふ」普通、譬と言うものはですね、何だろう、何か分からない似た様なものを持ってきて

例える、って言う様なのが喩えなんでしょう、普通使う時、例え。

で、ここでは、雪山を持って来て、雪山と言うものがどういうものかって示すって言う事ですね。

こんなのは普通例えと言わないですね。そのものを持って来て、そのものを示すなんて言う事は、例えにならないんだけど、

ここはそう言う内容になってる。


一番それがものを譬えるのに正しく伝わる。それはそうでしょう。そのものを示すのに、そのものでやったら、間違いなくそのものが

全部わかるでしょう。他のものを持って来て例えるとですね、ずれるじゃないですか。幾ら良いものを持って来てやってみても。

その方が、一般には分かり易いと思ってるんだけども、道元禅師はそうじゃないっていうね。やっぱりそのものがそのものを示す

のに、こんな良い方法、これ以上の良い方法は無いじゃないかとこう言ってる。


で、ここでは、大涅槃と言う事が、あの雪山と大涅槃となってるから、そこが皆さん方の、ちょっと解り辛い処でしょう。

安らぎの世界ですよね、大涅槃て。一番の安らぎはそのものを持って来て、そのものを示すのが、一番分かり易いでしょう。

頭を使わなくて済むでしょう。見たらそのまま分かるじゃない。富士山に向かったら、富士山がどういうものかって、いきなり

分かる。そう言う事があるから、一番の安らぎなんでしょう、大涅槃なんでしょう。どうもしなくても良い。

こんな勉強と仕方があるんだね。


「たとふべきといふは、親曾なるなり、」かって親しし、と言うんでしょうか。

離れない、そのものから一つも隔たりを起こさないほど、親しくそのものの実相、そのものの様子を、そのままイキナリ示す。

こんな上手な譬えは無いじゃないかって。「端的なるなり。」これ以上明快な答えはないっていう様な事を、

道元禅師がずーっと述べておられるね。


「いはゆる『雪山』を拈来するは喩雪山なり。」そこにそうやって書いてあります。ヒマラヤをって言っていいのか、

雪山ね、雪の山。それが本当にそのものを持って来て、雪の山って雪山てどう言うものだって言うのを示すのに、雪山を持って

来るのが、それは一番喩えとしてピッタリする、こう言うのですね。同じく大涅槃、心底人が救われてる安らぎの世界、

それはその安らぎの世界をそのまま取り上げて見せるのが、安らぎってどう言うことか、一番はっきりするのでしょう。

まあこんな事が最初にあげられている。これが菩提心を起こすって言う事に、どう言う風に繋がってくるかね。

この後に展開して行くでしょう。


もうひとつは中国に禅を伝えた達磨大師のお言葉が挙げてあります。「震旦諸祖曰、『心々如木石』。

いはゆる『心』は心如なり。」
ここにも同じ様に書いてある。心は心の如し。それはそれに間違いないと言う事でしょう。

皆さんが一日中の生活をみてもそうでしょう。必ずその時にその事を本当にやってるだけ。

言っときますけども、頭の中で取り上げて、あーでもないこーでもないって、考え方を扱ってる話ではないですよ。

誰しもが実際に生活してる時の一々、こうやって触れてみるとよくわかる。その時に間違いなく、その事を本当にやってるだけ。

他の事はしてません。


具体的なものを、ちょっとここで挙げてみたって、目を開けてこの部屋の中こうやってずーっと一回りする時、

必ずその目が触れてる事だけが、こうやって見えてくる様になってる。これ一日中皆さんそうやって生活してるでしょ。

自分の眼の働きを見て御覧なさい。だからその通りの事があるだけですよ、何時も。心、心如とあるけど。

こうやってここにある時計を見たって、これに向かうとこの様になるしかないでしょう。

私がこうやってやると、こう言う風になるしかないでしょう。別に何も不思議な事じゃないんだけど、必ずそうなってるだけじゃない。


丁寧に話をすれば、同時にもうひとつの事が出て来ないですね、見て。今見てる様子だけが、こうあるだけです。

これどう言う事ですか。こう言う事が大涅槃なんでしょう。そう思いませんか。一つもずれないでちゃーんとした事が生活できてる

じゃないですか。疑いも起きないし、迷いも生じないし、苦しみも出て来ないし、どうもしないのに、その通りの事がきちっと

生活できるほど。修行しなきゃとか、さぼってると駄目だとか、そんな事一切、そう言う事なしにちゃんとそう言う風な生活が、

今、出来てる。何で私達は、そう言う事に気づかないでしょうか。

自分の事なのに、自分が生活してる実態なのに、本質なのに、ねぇ。


「いわゆる心は心如なり。尽大地の心なり。」悉くそうなってるのですね。眼だけじゃありませんよ。

一人一人のこの身心の在り様って言うものは、身心て、身と心と書きますが、身心の在り様、この全体の様子ですね、

この活動してる様子は、何時でもそう言う活動してる。


「このゆえに自他の心なり。」向こうもこっちも全部、分けて皆さん考えてるかもしれませんけれども、

こっちが自分で向こうが他所だって思って、分けてるかもしれないけど、全部そう言う隔たりを超えて、今こう言う在り方だけ

じゃないですか、何時でも。何でこうやって向こうの事と一緒になるんでしょう。

こっちの事と向こうの事が出て来るのかしら、こうやって一緒になってる時。ねぇ。心ってそう言う働きをするんでしょう。

そう言う働きをしてるものを心と言うのでしょう。


「尽大地尽および尽十方界の仏祖および天・龍等の」云々て色んなものが出て来る。

等ですから、一切のものをここで挙げているのですね。


「それらの心々はこれ木石なり」こんな事言われると、心が木や石だって言われると、

分からなくなるかも知れない。だけども、現に今皆さん方が、自分の様子ってどう言う事かったら、こうやってここに掛けてある軸に

向かうと、その様にこうなってるでしょう。向こうにあるものを見てるって言うんじゃなくて、これが自分の今生活してる様子でしょう。

ああやって額が掛けてある、向かうとああ言う風に、あれが見えてる様な生活をするのでしょう。向こうの事じゃないですよね。

自分がこれを見てる生活をしてるのでしょう。いきなり自分の血肉になるのでしょう。それ以外の事やらないんだもの、

こうやった時に。それが今自分が生きてる様子でもある、生活してる様子であり。そう言うのは理解出来るかしら。


人間て自分を立てといて他所の物見てますから、殆どこの自他って言う分け隔てをするものが、中々超えられない。

頭の中でどんなに上手く整理して、自他は無いとか、そんな自分と他人を分ける様な線は実際にないんじゃないって話をして、

理屈の上ではなるほどそうかなと思うんだけども、具体的に実際の生活をすると、何でお前そんな事をするって言う風になる。

お前がそう言う風に言うから頭にくるとかいう風に見てる訳ですね。

どこで誤魔化されてしまうのか。こうやってお前がそんな事するからって言うんだけど、よく見てみると私が見てるだけの話ですよ、

これを見て。そして私がそんな事何故するんだって、私の中でそう言う思い方をして過ごしてる事が問題なだけであって、

向こうの人はそんな事してませんよ。こう言う事、皆さん方自分の生活してる中で見て下さい。


人の話を聞いてもですよ、他人の話だと思って聞いてるからあれだけども、自分の耳の今活動ですよ。それが音をあらしめる、

声をあらしめる、話をそこに現成せしめる。聞く事が出来るのは、この身体によって初めて、喋べってるものが聞こえるのです。

これがないと聞こえないのですね。これがないと物がそこに有っても、有るって事がわからないです。見る事が出来ないです。

不思議ですね。一切のものが、この自分と言われるこの身心の上に現れるのです。

現れるって言うとちょっと表現があれなんだけど、一緒になって活動すると言うことですね。


一応常識としては、自他って分けてるけど、それが否応なし一緒になって、こうやって活動する。早い話が、こっから外へ行くと、

いきなり外の様子と一緒になって活動するでしょう。不思議に。

そう言う様な在り方をここで、「木石なり」とかって言う風に言うんですね。

だから「このほかさらに心あらざるなり。」心ってそう言うものですよ。

天井にこう向いた時、天井の様子が、こうその通りの事がある。それが心の様子なんです。その他にはないんですねぇ。

皆さんは心て言うと、何かこの辺で(胸を指す)ものを思う様なものが、別にこう有る様に思ってる。そうじゃないですね。


「この木石おのれずから」おのずからって、いまでは読むんでしょう。木や石に皆さんがこう出った時の様子を、

こう見て御覧なさい。有るとか無いとか言う話じゃないでしょう、こうやって、ここの柱でも。これいいですか。

これに触れた時、皆さんこうやって目を向けた時に、柱が有るとか無いとかって話じゃないでしょう、もう既に。

有無、それが物であるとか、心であるとか、空色等の境涯、色んな表現を人間はするけど、一切そう言うものに邪魔をされずに、

誰でもいきなりこれに向かったら、誰にも邪魔をされずに、この通りの事がすぐ出来るのでしょう、やれているのでしょう。

どうしたんでもないですよ。目を向けただけでこの通りになるでしょ。柱に目を向けたら柱の通りになるんでしょう。

普通はそれを見てるって言ってますけども。見てるって言う様な事じゃないでしょう、親しくやってみると。

自分の今、生きてる様子そのものなんです、これがね。「おのれずから」他にはないじゃないですか。


「この木石心をもて発心修行するなり」それは、今話ししてる様に、なるほどって言う事が、

皆さんにこう伝わったら、発心するでしょう。発心はいいですね、訳さなくても。発心するって、皆さん使ってるでしょう。

何かやろうって思うって事でしょう。ねぇ。使うでしょう、発心するって。

そして修証ですから、修行をしてその内容が自分ではっきりする。


「心木心石なるがゆゑなり」それがそれに違いないから、そうなるんだって言ってるんです。

もしですよ、木に向かった時に、木に向かった様にならない、石に向かった時に、石に向かった様にならないんだったら、

どんな事になるんだろう、世の中。身近な話です。皆さん仕事をする時だってそうでしょう。

自分の仕事する物にこうやって目を向けたら、その通りの事、そこにちゃんとするから、仕事が出来るのでしょう。ねぇ。

仕事場に行って、自分の仕事場に行って、仕事の材料があったり、色んなもの有る所にこうやって向かった時に、

その通りにならなかったら、どうするんだろう。手のつけようがないじゃないですか。


簿記をやる人だって、そこに計算が記してあるものがあるよ、数字が記してあるものがあるよって。

でもその通りに見えなかったら、何を計算するんでしょう。基本的に、皆そうじゃないですか。その事がその通りに必ずあるから、

それで役に立つのでしょう。話だってそうでしょう。好きな話であろうが、嫌いな話であろうが、間違っていようが、正しかろうが

ですよ、語られたらその通りに、間違いなくそこに出て来るのでしょう。それだからいいのでしょう。

それが自分の気に入る様に成っちゃったら、困るんじゃないですか。一人一人が聞いた時に、自分の気に入る様に

聞こえちゃったら、困るんじゃないですか。何が信用できる様になるんですかね。

そう言う様な事が、色々言われてるって言うんですね。



「この心木心石の力をもて、而今の思量箇不思量底は現成せり。」どうもしないのにですよ、

どうも思わないのにって言う事ですよ。箇の不思量底を思量せよとあるけども。人間の考え方を用いない前の事が現成する

でしょう。現れるでしょう。柱に向かったら、柱に向かった様にならなきゃって、そんな事思わなくたって、これだけで柱に向かうと、

成ってるでしょう。人間の思量分別じゃないでしょう。超えてるでしょう、皆。だから誤りが無いのでしょう。

もしこれが自分の行為に拠って、自分の力によって、努力によって、そう言う風になるんだったら、支離滅裂ですよ。疲れますよ。


音ひとつだって、パン!(両手で打つ)こうやって鳴った時に、思量を超えてる。考え事でそうなるんじゃない。

パン!考えたらそう言う風になるんじゃないから。考えなくても、こうやってパン!音がする

と、その通りになる。こうやってそう言う事がちゃーんと音の通りにこうやってなるように出来てるじゃないですか。


「心木心石の風声を見聞するより」この法と言うんですかね。ずーっとそう言う風にあるから、

初めて一般の方々の教えている内容を遥かに超えると言うのでしょう。

外道って言う表現は、正しいものの見方をしている教えでない、って言う事でいいですかね。正しいものから外れているものを、

外道と言います。じゃどう言うものが、正しいものから外れているかって言うと、そこに人間の考え方を用いてどうかしてるって

言う事です。それが外道と言われるでしょう。音を聞いて貰うと分かる。パン!(両手で打つ)こうやって、

人間の考え方なんかひとつも付かない。だから誰が聞いたって、修行をしてる人もしてない人も、一応に全部この通りきちっと、

ずれが無いじゃないですか。こう言う事があるから修行ができるのでしょう。


だから考え方で修行しなくても良いって事になるのでしょう。こうやって、パン!(両手を打つ)別に考えなくたって

パン!その通り分かるんだもん。実物って皆そうじゃないですか。考えなくたって、そのものにこうやって触れる

と皆わかる。考えないと分からないと思ってるだけじゃない、人が。考えるともっと色んな事が出て来ると思ってる、はっきりしたもの

が。そうじゃなくて、考え方を止めるとはっきりするんじゃない。ものを本当に学ぶ時に、自分の考え方を止めて、

ものに親しくしてみると、ものの様子がよく分かるんじゃないですか。


そう言うものが仏道と言われるものなんでしょう。だから、「それより先は仏道にあらざるなり。」こう言うものが

はっきりしない前は仏道じゃないと言ってる。普通に頭で考えている世界。誰も基本的に、こう言う仏道と言われる様子は

誰も最初から持ってますよ。これから修行してその様になるって事は無いですよ。


一例をこうやって挙げれば良く分かる。パン!これから修行して、ウンと修行して一生懸命やらないと、

音がしてもその通り聞こえないなんて言う事はない。今既にこうやってやったら、パン!必ずその通り、

誰でも何もしないのにその通り聞こえる様になってる。だけども聞いた後に、私は未だ修行が進んでないから、はっきりしない

分からない。そうやって自分で勝手に、はっきりしてる事をほっといてですね、自分の頭中ですり替えちゃうんじゃないですか。

私の様なものは、初めて来たものですからって。


パン!こうやって聞くのに、初めての人と何回も聞いた事のある人と違いが何処にあるんですか。

だって音を聞くのは今ですからね、この音を聞くのは。百回聞いてきた人が居ても、この音を聞くのは今ですからね。

百回聞いて来た事は、何も役に立たないですよ。要らないんですよ。パン!今この音を聞くのに。

でも人間の考え方って、百回聞いて来た人の方が、こうやってパン!音を聞いた時に、上手に聞けるとか

上達してるって思ってるかもしれない。反応が早い、思い出せると言うけれど、これは音自体を聞くという事とは異なります。

問題集を何回も解くと早く答えが出せる様なものです。


ものを習う時に、見てると面白いんだけど、一番最初に素直に教えられた通りにやると、その通りすぐ誰も出来てる。

だけども少したつとですね、上手くいかなくなる。間違いなくそうですよ、色んな事見てると。

教えられた通りにやらなくなるんですね。自分流にやるんですね、必ず。知らない内に自分流にやるんですね、気が付かない。

教えられた通りにやってるつもりでいいるんだけど。


我見を起こさない様に修行して行ったらいいんですね、って、そう言って理解している方が、じゃ今からすぐそう言う我見を捨てる

って事を止めて過ごしてみませんか、って言うとですね、自分の頭の中で混乱するんですね。我見を捨てるのが修行だと思ってる

から、我見を捨てないでそのまま行きませんかって言うと守るんですね。我見を捨てる事が出来なくなる。知ってるはずなのに。

不思議な事が起こるもんだねぇ。


道元禅師がここで抑えとして言いたい事は、仏道って如何いう事だって言う事をこう一応示してるのでしょう、此処まで。

時間的にも場所的にもずれの無い生活を皆してるじゃないですか。その証拠にもうひとつの在り方をしてる人は一人も居ないって

事で、結論じゃないですか。もうひとつの様子が生活してる時に無かったら、こんなに皆さん悩まないじゃないですか。

だから本当に仕事してる時には問題ないでしょ、皆さん。ちょっと時間があって、考え始めると厄介になるだけでしょう。

上手く出来てると思いませんか。仏道ってそう言うものなんでしょう。


何を皆さんに知らせたかって、自分自身の本質的なあり方が誰にでもある、それがどういう風になってるか、自分で触れてごらん

て、その事実に。どうなってるかって言うことを。それをほっといてですよ、他所に色んな事、言われてる事を学ぶって言う事が

仏道じゃないんですよね。それ一般の教えなんです。一般の教えは余所にある色んなものを身に付けるんです。

仏道は最初から自分自身に備わってる内容を、本当に自分ではっきりする、そう言う道だから自覚って言われてます。

自覚せよ、自ら覚れ、自らの内容についてはっきりさせろってこう言ってる。


これ頁を一頁めくると、どうなるか分かりますか。めくると、さっきみてたものが見えなくなる。やってみて下さい、こうやって。

今見てる頁をちょっとこう一頁めくるとですね、次の様子が出て来るでしょ。これでいいんじゃないですか。

こうやって、皆こうやって生活してるでしょう。それだのに敢えて言えばですよ、つぎの頁こうやってめくっているにも拘らず、

さっきの頁の事が気にかかってしょうがないでしょう。何でですか。難しい事するじゃないか、随分。

見えなくなってから、さっきの頁の事を頭の中で思い起こしてですね、やろうって、それよりも今見えてる事、何でやらないんです

か。こうやって、こうやってつぎの頁めくったら、ちゃんと次の頁の事がはっきり見えてるにも拘らず。それで勉強できるのでしょう。


まあ酷い事をいえば、皆さん方の生活って、そう言う風な事に近い様な生活してる人多いんじゃないですか。

こう言う事で勉強すりゃいいんじゃないですか。たったこれだけの事でも、ちゃーんとそう言う事が教えて貰える様になってる

じゃん。否応なしにさっきの事から離れていくんでしょう。こうやってめくっただけで、全部。日々の生活だってそう言う風になってる

じゃないですか。さっきの事と今の事が並立してあるなんて言う生活は出来ないよ。した試しがない。


だけどものが分からないと、そうやって頭の中で、有りもしない事を、体験した事を思い出して、いかにも今やってる様に思って、

並べてこうやって生きてる。それで整理しなきゃならないとかって言う事になるのでしょう。どっちに行ったら良いかとか。

物凄い無駄な時間を使ってるでしょ。実際にはそんな事せずに、ちゃーんと生きてるじゃないですか、皆。

そう言うものが仏道自覚の世界でしょう。それ全部自分自身の今の生活してる事で気づく事ですよ。どんな事でも良いですよ。

この身体ひとつだから、坐ってるものが立ったら、坐ってる事が必ず無くなる様になってる。

そんなに自由になってるじゃないですか。


  1. 2017/07/24(月) 19:38:26|
  2. 発菩提心 
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井上貫道老師ご提唱  「正法眼蔵・三十七品菩提分法」(仮題)予約出版のお知らせ

謹啓

いつもブログをお読み頂きありがとうございます。

このブログに掲載してあります、三十七品菩提分法を、

井上貫道老師のご許可を頂き、予約出版する事にいたしました。

詳細は以下の通りです。

 1 本の仮称 「 正法眼蔵 三十七品菩提分法 井上貫道老師提唱 」
 
 1 B5版 350頁 程度 (7.6 ご老師に校正のため検討して頂いて、250頁前後になるようです。「げんにーび」より少し厚めの イメージです。ご了承ください。

 1 井上貫道老師にご校正していただきます。
 
 1 代金前払い制 1500円 + 郵送料 180円(一冊)

 1 予約期間 2017年7月1日~ 7月22日

 1 発送9月予定


ぜひ、ご予約お願い申し上げます。
                  

                                             書き起こし・企画   龍田しづか拝 


2017.7.23 

沢山の方にご予約頂きました。有難うございました。

本は現在、貫道老師にご校正の労をとって頂いています。

一旦予約は終了いたします。 発送をまで暫くお待ちください。


ブログの方は続けて、書き起こしをお届けしたいと思いますので、これからも宜しくお願いいたします。

今回、読んで下さってる方からメッセージも頂きました。 有難うごさいました。

なお、ご不明な点があれば、何時でもお問い合わせください。

暑い折、皆様 お大事になさって下さい

                                                         
                                      龍田しづか拝 


  1. 2017/07/01(土) 13:27:19|
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梅花  Ⅴ-4

音声はこちら ↓

梅花 Ⅴ_04 _01
梅花 Ⅴ_04 _02
梅花 Ⅴ_04 _03
梅花 Ⅴ_04 _04


えーそれからもうひとつ、太原の孚上座のお話が、悟道の時に作った詩が出てきます。

昔は、悟る前は「憶昔当初未悟時(憶昔当初未悟の時)」角笛ですね、胡笳って言う。

胡笳の一曲「六律にかなわず」って言う事があります。人が亡くなった時、喪狩り笛を吹くと言う様な事かね。

ああ言う時の喪狩り笛(蘆の草笛)はですね。音階に例えば、ドレミファソラシドの音階とか色んなものがある。

琴なんか六律ですね。六段階の音。いずれにしても、そう言う音階に載せる事の出来ない様な悲しい響きを為すと言う意味

ですね。これも多分そうですよね。


「一声画角一声悲(一声の画角一声悲なり。)」どういう事を言いたいかって言うと、響いている音だけでなくて、

その響いてる音を耳にして、自分で色んな事をそこに思い起こして、悲しさを募らせていくって言う事がある。


芭蕉葉上愁雨なし、ってありますが、芭蕉の葉っぱの上に雨が降った時に、憂いを含むと言う事は無いって言う句ですね。

芭蕉葉上愁雨なし。だけども、時の人聞いてあたかも、ハラワタを立つ、断腸、その芭蕉の葉っぱの上に雨が、こう降ってる音を

聞いて、人の別れを思った時に、いたたまれないほどになるって言う句なんですね。それ皆人間の感情の話でしょ、情感。

ここも、未悟の時って言うのは、本当にその笛の音をそのまま聞くって言う力が無かったと言う事です。

笛の音にはですね、悲しいとか楽しいとかって言う風になってないですよ。それがわかりますかね。

聞いた人が自分の聞き取り方の上で、悲しい声に変えた、変えるんですよ。


食べ物でもよく話すように、食べ物にうまいまずいは無いんです。その味がするばかり。だけど、その味がするばかりだけど、

その味がするばかりじゃなくて、自分で美味しいとか不味いとかって言う風につける。

花を見てもそうです。花が美しいとか汚いって言う風に花は咲いていません。その通りに咲いているだけです。

だけど、それ見た人が、美しいとか汚いとかって言う風につけてる。そこら辺の事、私達は結構曖昧なんですね。

ちゃんと見てるつもりなんだけど、ちゃんと触れてるつもりなんだけども、そうじゃない。自分というものが知らないうちに

そこに入ってる。


仏道をならうというは自己をならうなし、自己をならうというは自己をわするるなりとあります。

さっきも話したけど、自分の本当に無いもの、それ自体に触れている、付け足しもしないし、取り除きもしない、一切手をつけず、

その事実だけで本当にその事実がどうなってるかって言う処に、こうやって触れるって言う事を、私達は結構してません。

だから花を眺めると、美しいとか汚いとかすぐ談ずる。食べると美味いとか不味いとかって言う事の方が先なんです。

その前に、そう言う事の入らない味わいって言うのがあるでしょう。事実があるでしょう。

何人も犯す事の出来ない、峻厳、微動だにもしないほど確かな事実がそこに展開されているでしょう。


だから法が大事にされるんです。法をみるものは、仏を見るんです。初めっから人の上の教えじゃない、仏法って言うのは。

仏様の教えです。人間の教えじゃない。同じですよ、人がやってるには違いないんだけども、人間の上に、自分らしいものを通して

触れていく事と、そう言う事一切なしに直に触れている在り様との違いがある。そこには迷いも苦しみも無い程確かな事が展開

されている。それを自分で見届けると豊かになるでしょう。ああ本当に大丈夫だと、このままで。


ここは転句のとこで、「如今枕上無閑夢(如今枕上閑なる夢なし)」今はそんなもてあそぶ様な事はしてない。

本当に。ここでは「一任梅花大少吹(一任す梅花大少に吹くことを)」って。ここで吹くっていうのは、

笛にかけてるんでしょうね。笛も吹くと言いますから。本当は咲くと言う意味でしょ。縁という意味と殆ど同じです、吹くと言うのは。

本当にその梅の花の咲いている様子に無条件で触れている。確かさと言っていいでしょう。今までの疑義が全部っ飛んでしまう

位、凄い確かさがそこに展開されているって言う事を、自分の悟った時の様子として詠ったんでしょう。


それで、475頁にその孚上座の事が、所謂夾山の典座に開発せられて大悟したという因縁のものが、補注に出てます。

475頁の補注です。孚上座はもと、とあります。


ざっと見てみると、「大原孚上座、揚州光孝寺にありて涅槃経を講ず。」「孚上座はもと講者なり」とありますように、

涅槃経の講釈を、内容を講義をしてる人だったと言う事ですね。「游方の僧あり即ち夾山の」ですね。旅をしているお坊さんが

おられて、たまたま、涅槃経を話している時に、そこに足を止められた。それは雪が深くてですね、雪にはばまるとあります。

寺にありて、だから雪が深くなったもんだからしょうがない、そこに泊まる事になった。そして泊まった時に丁度、この孚上座が

ですね、涅槃経の話をされていたので、ご自分もそこに連なって、お話を聞いたと言う事です。


それで、話がどんどん進んで行く。「講すること三因仏性、三徳法身」そう言う所に、涅槃経のそう言う所になって、

その講釈をしておられるでしょうね。「広く法身の妙理を談ず」。「典座忽然として失笑せり」孚上座が話をしているのを聞いて、

思わずこの夾山の典座という方がですね、失笑だから、笑ってしまった。人が真面目に話してる時に、クスって笑うって言うのは、

凄いまあ失礼な事かも知れない。或いは喋ってる方としては気になるね。もの凄い気になる。「孚、乃ち目顧して」目で顧みて、

その笑った方ちょっと見た。お話が終わって、その夾山をお呼びになった。「講罷りて禅者を請ぜしむ」


まあ、何処からお見えになったとかって言う様な事で、お話になるのですよ、向き合って。

その中で問うて「某素智狭劣、文に依りて義を解す。適来講次、上人失笑せらる。某必ず短乏せらるる処あるべし。請ふ、

上人説かんことを。」私は話はしてるけども、本当は大した者じゃない。かろうじて、そこに言葉があるから、その言葉を解釈をして

話している。そうしている中で、あなたが笑われたから、私の話を聞いて笑われたから、きっと何か私の話している中に、

問題点があるんだろうと思うんで、どうぞ、そう言う間違った処があったら教えて貰いたい、指摘をして貰いたいって言って話して

ます。偉い人ですね。普通話をした人は、人がそんな事言ったら、黙って聞けって言う位、怒りとばすかも知れないけど、

自分の事よく知っておられる。


それで典座曰く、「座主問わずんば敢えて説かじ。座主既に問ふ、即ち言わずんばあるべからず。某実に是れ座主の法身を

識らざるを笑ひしなり。」私は別に失礼な事をした訳じゃない。あなたが話した、法身の話を色々解釈されているのを聞いていて、

全くこの方は法身という事を知らないなあって言う事があって、それでつい笑ってしまったって、こう言ってます。

あなたがその様に私を、私が笑ったのを見て、こうやってお招きして、それが私のどっか非があるかって聞かれるから、

そこまで言われるんだったら言いますけど、って遠慮しながら言ってますね、夾山。


それに対して、「此の如く解説するに、何れの処か不是なる」私はあの様に話を、法身の内容を説いたんだけど、

何処があなたが指摘するよう駄目な処、過ちがあるんでしょうかって、あくまで法に対して親切な勉強ぶりですね、大原の孚上座。

それに対して夾山と言われる典座、職をしていた方、「請ふ、座主更に説くこと一遍せよ」もう一回話してください。

孚曰く「法身の理は、猶ほ太虚のごとし。竪に三際を窮め、横に十方に亘る。八極に弥綸し、二儀を包括す。縁に従ひ感に赴く。

周遍せずといふこと靡し。」って再び説いたんですね。

典座曰、「座主の説不是なりとは道はず、只だ法身量辺の事を識得して、実にまだ法身を識らざること在り」言う事はですね、

それらしい事はちゃんと言っておりますけども、まあ、もっと酷い表現をすればですね、本当にあなたはその事を見て来ないのに、

見て来た様な嘘を言ってるじゃないかと、こう言う事です。本当に見なくたって、書いてあるものを勉強すれば、私達だって

そうでしょ。大体の事は今だって言えるでしょ、勉強して。そう言う指摘です。頭からバチャッとこう否定したい処がこの夾山と言う

人の、何だろうね、懐の深さですかね。

さすがあなたはよく勉強しておられて、法身の事をこうやって説いて、上手にお説きになる。それは間違いだとは言わないけれど、

あなた本当に法身の真相そのものを、自分で見届けた事があるのでしょうか。誰か人の言ってる話を鵜呑みにして話してるだけ

じゃないのかって、こう言ってる訳ですね。きついとこですね。それでも通るんですよ。通りますよ、それで一般には。

だけど仏道の修行するって言う事では、そんな事では許されない。自分の中にも疑義が残るでしょう、人から突かれなくても。


えー、それを聞いてですね、孚上座が言われるのに、「既に然も是の如くならば、禅者当に我が為に説くべし。」

だったら、本当の様子をぜひ伺いたい。この時、それだけ指摘した方の夾山が自分にその体験が無かったら、こりゃわやですね。

話にもならないんだけど、ちゃんとしてるから、それに対して対応するんでしょう。


典座曰「若し是の如くならば、座主暫く講を輟むること旬日、静室中に於て端然として静慮すべし。心を収め、念を摂し、善悪の

諸縁一時に放却し、自ら窮究看すべし」要するに本当に坐禅をしておらん、とおっしゃっております。考え方じゃない。

事実を、本当に坐禅をして事実がどうなってるか、事実に学んで見なさい、とこう言っておりますね。

ここにも出て来る、「善悪の諸縁一時に放却し」とある。要するに自分の考え方で評価しない、ものに対して良いとか悪いとか。

花で言えば、美しいとか汚いとかって評価をせずに、本当にそこに花があるんだから、その花の在り様そのものに、

自分の評価を一切入れずにふれてごらん、と言う。そうすると、花の様子がよくわかる、とこう言う事でしょう。


坐禅の時もそうです。色んな事が坐禅している時に、自分の活動があるけど、それに対して人間と言うのはすぐ自分で評価を

する。例えば、何か思いが出てくると、思いに手をつけるなって言われてるから、手をつけない様にしなきゃいけないって、

そう言う風な事やったりするのでしょう。ほっとけって、ほっとけば出て来ても、そのままほっとけ、あるいはそのまま流しとけば、

って言うと、そのままほって置く様な、流して置く様な、そう言うに扱うんでしょ。

人間がやってる善悪諸法を一時に放却してる状況ではありません。皆手をつけてる様子ですよね。

知らずに手をつけちゃうんですよね、そうやって。教えられてる事を基準にして。何もしない様にって言えば、何もしない様に守る。

そう言う事じゃない。何もしないって言う事は、そう言う事さえもしないのでしょう。

手をつけないって事は、手をつけない様にする事じゃないのでしょう。


ここら辺が本当によく話してみないと違うんですよ。真面目に一生懸命そうやってやってるから、ずれてくるんです。自分では

言われた通りの事でキチッとやってると思ってるんです。それは諸縁を放捨してない。自分の考え方が、あくまで聞いたものに

対して、自分の考えで受け取った受け取り方で、修行してるって言う事が、この辺のとっても大事な事でしょう。

「極めつくしみるべし」本当に事実がどうなってるか、徹底自分の見解を入れずに触れてごらん、とこう言うのでしょうね。


そして言われる通り「孚、一に所言に依り」夾山がおっしゃった事に拠って、「初夜より五更に至り」

「鼓角の鳴るを聞きて忽然契悟せり。」一晩朝になるまで坐ったのでしょうね。そして明け方に太鼓がドーン!と鳴った。

それによってアッって気がついたんですね。 

「便ち去って禅者の門を叩く」だから昨日教えてくれた夾山の所に行って、自分の心境を告げたんでしょう。

叩くだから、先ず行ったんですね。行ったら、典座「誰だ」って言う事です。戸を叩くやつは誰だって言う事です。孚云「私です」。

で典座咄して曰く「汝をして大教を伝持し、仏に代わって説法せしむ。夜半什麼としてか酒に酔うて街に臥する」この夜中にまだ

夜が明けない頃に、丁度お酒によって町の中で寝てしまう様な、いう様な事挙げてますね。ちょっとたしなめたんですね。

普通だったら、夜が明けて、ちゃんと衣服を整えて、そして香をたいてお拝をして、そして参禅をする。これがまあ当時の在り方

です。それだのに、まだ夜中寝ている頃に叩き起こしてって言う事ですね。非礼なんでしょう。

そう言うの丁度酔っ払った奴が所かまわず喚いてる、夜中に入ってきたって言う様な表現をしております。だけどそれには

それなりの意味がある。そんなに急を要するって言う事は意味があるのですね。そこら辺が次の様子なんでしょう。


孚云、「自来の講経は生身の父母の鼻孔を将って扭捏せり。今日より已後は、更に敢て是の如くならじ。」

今迄は本当にいい加減な事を自分でさも本当らしく話して来たけど、もう二度とそう言う間違った事は、これから先しません、

とこう言ってる。まあそう言うのが、一段の、碧巌の方にも出て来るのでしょうかね。それがここの「孚上座はもと講者なり。

夾山の典座に開発せられて大悟せり。」今そう言う風な因縁話があって、その話がそこに展開した事ですが。


「これ梅花の春風を大少吹せしむるなり。」まあここでは、夾山の典座和尚さんに教えを乞うて、一晩坐って、

朝の太鼓がドーン!と響いた。その事に拠って本当の在り様が手に入ったって言う事ですね。これが梅花の春風、春風が吹いて

きて、梅の花が咲いたと言う事でしょう。そう言う風に普通は読むのでしょう。春風が吹いてきて、梅の花が自ずからそこで、

何輪か知りません、大少ですから、花がさいた。太鼓の音に触れただけでそう言う事が、どうして悟ったか、理由は無い。

ダーン!(大きな声で)それだけですよね。


それまでは、太鼓の音をまさしく聞いてた人なんですね。ああ、太鼓が鳴ったって、その位にしかやってない。そう言うのを、

お父さんお母さんの身体を借りて、この世に出て来た生身の体と言うのでしょう。そう言うでっちあげた教えられた話。

人から聞いて教えられた話であって、自分で本当に触れた自分の内容ではない。皆さんがドーン!とやった時に、どうですか。

誰の力も借りなくても、その太鼓が一声鳴った時に、どうあるか。そう言う体験をしているに違いない。だけども従来の自分を見る

癖がありますから、何だ、今、太鼓が鳴ってる、あれは何の合図の太鼓だとか、そう言うな事だけで生活してる。


まあ修行で寺に行くと、鳴り物が基本ですから、まずそうやって教えられるから、幾つ鳴ったらどうだとか、何時鳴ったらどうだとか

言う事を覚えて、そう言うものの上から太鼓の音を聞く癖がついてる。それはここで言う様に、人に教えられた聞き方でしょう。

そうじゃなくて自分でなければ絶対聞く事の出来ない真相があるでしょう、一人一人。

だって生涯人の耳を借りて聞かないのですよ。言っときますが、音を聞くのに、片時も人の耳を借りて聞いた音はないのですよ、

生涯。だったら、騙される事ないでしょ、聞いて。何で聞いたものが、腹が立ったり騙されたりするんですか、自分自身がやってる

事で、自分自身が騙される様な愚かな事がありますか。

眼だってそうでしょ。自分自身の持ってる眼以外のもので、見た物は私達は無いでしょう、生涯。一切他の人の眼を借りて、

物は見ない。借りなくてもちゃんと見えるのだからいいじゃないですか。他人の見てるものと、自分の見てるものとで、

何で争わなきゃならない。まあそう言うな事も出てきますね。

時間もうちょっとあるんですが、どうしましょうか、一応梅花の巻き、終わってる。


  1. 2017/06/22(木) 17:02:56|
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