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坐禅箴 Ⅳ

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坐禅しんⅣ正_01
坐禅しんⅣ正_02
坐禅しんⅣ正_03


でも人間の生活の中には、似た様な物を沢山成造している訳ですね。機械でも何でも。お皿でも。だから同じものが一杯あるってよく言うじゃない。あれはもうちょっとよく見て下さい。よく見るとですね、同じ物は何処にも無いのです。こうやって皿が二枚あってね。同じじゃん、てよく言うじゃないですか。ここに今あるってことは別だって言う事ですからね。そうでしょう。もう最初から。別の物だって言う事でしょ。こっちの皿こっちの皿。それだのに人間は、こうやって見た時に同じ物があるって。こんなになってる。これは単伝じゃない。こうやって伝えてるのは複伝ですね、ねぇ。

正しく伝えてない。正伝て言うのは、こうやってこう言う風に伝わるじゃん。必ず単伝で伝わってくるじゃん。それがそれ。それがそれに違いない。これとこれ、似てるって言う事はあるよね。似てるって言う事は別のものだって言う事を表現してるって言う事でしょう。ちゃんとだから言葉は正確に伝わってる筈なのに、人間が理解をする時、間違える。

でもあの皿を持って来てくれって言って、一枚だけって言わないからね。五人いるから五枚欲しいって言うと、ちゃんと五枚持って来る。同じものをお願いしますって、一応そうやって言葉は使うじゃん。同じものは無いんだけども。同じ様なものを五枚持って来るって言うことですね。ちょっと屁理屈みたいだけども、よく見てみると、違うね。まあ。そう言う事がありますね。

「すでに釈迦牟尼仏より直下」直下、じきげって言う。直下って言ってます。「直下に三十六代なり」これは薬山と言う方はお釈迦様から三十六代目の祖師であると言う事です。正しく仏法の内容、あるいは仏法の内容と言うよりは、自分自身の真相をはっきり明らめた人だと言う事ですね。

「薬山より向上をたずぬるに三十六代に釈迦牟尼仏あり」遡っていけば三十六代前にお釈迦様が居られるとこう言う事でしょう。下ってくれば三十六代目で自分が居るという事。上っても下ってもですね、代が変わる、その三十六代がですね、こっちから数えたら、三十七代になって、向こうから数えたら三十五代になるって言う様な事は無いと言う事ですね。

道を歩いてもそうでしょう。こっちから行くと坂が七つあるんだけどって言った時には、必ず下り坂って言うのも七つある。上り坂だと思ったやつは、こっちから行った時に見たもの。同じ道だから、それが其の儘下り坂になる。ね。そう言う様な事を、一杯こう実物の中でも行われてる。

「かくのごとく正伝せるに、思量箇不思量あり。」そう言う中に、この坐禅と言われるものが正しくその様に伝わって来てると、こう言う事です。だから人間の思量があるから、不思量とかって言う事だとか非思量がどう言う内容だとかって言う事も、思量があるから一応分かる。だけど一応思量で分かるんだけど、それは自分がこれ思量してる範囲で分かってるって言う事も分かってる。で思量を外れて、思量から、全くそう言うものが付かない状況がどう言う事であるかって言う事を今は学ばなければならないと、こう言う事です。

其処までやらないと、言葉はあっても、実物が無い。非思量の実物が無い。そうすると、自分の中でどうなるかって言うと、理解が出来ない。味わえない。それやるためには、必ず自分で、自分のこの身体を借りてやる以外に方法は無い。何億に人が居ようがしょうが無い。自分でやる以外に方法がない。それで修行と言うものは、人から勧められてやるものじゃないと言う事になるじゃない。宗教の根本はですね、だからコントロールされる様なもんじゃないですね。

瞑想や何かで陥りやすいのは、あの、ああ言うものの考え方に、終いにはコントロールされて、洗脳されて行くって言うのが、殆どの修行の欠点じゃない。最大の弱点じゃない。危ない。だから宗教は麻薬だとか言う様な事を言われるのは、そう言う事じゃない。
仏法においては、そう言う事一切起きない。強制されて、その様に見ろって、やって、その様に見える訳じゃないから。誰にも強制されない。その様に聞きなさいって言うけど、誰かの力を借りて、その様に聞くなんて事は無い。必ずその様にパン!聞ける様になってる。注意深くしてないと、そう言う事忘れちゃって分からなくなるという事は無いの、これ本質的に。すごいね。

他の勉強はそうじゃない。ちゃんと頭にそう言う事、置いといてやらないと、すぐに役に立たない。ねぇ。こんなのが「すでに思量箇不思量底あり。」で。

ここはね、次の所の一画はですね、さほどの事は書いてない。ざっと読んでいきますね。だけどもと言う事、「しかあるに」今話した様な事が本当にある。だけども最近はですね「近年」最近の人たちは、本当にものの分かりの悪い人が多くてねって、「杜撰おろかなる杜撰いはく」ですね。

どんな事を、じゃ最近の人達は言ってる、これ道元禅師が中国に渡ってる頃だから、1230年にならない位の頃です。その辺の時に、こんな事が大体言われている。「功夫坐禅、得胸襟無事終、便是平隠地也(功夫坐禅は、胸襟無事なることを得終りぬれば、便ち是れ平隠地なり。)」これで修行が終わったって。こう言う風になれば修行が終わったんだって言う風に伝えてる。

胸襟無事って、胸襟は分かりますよね。自分の心の中と言って良いでしょう。ね。その中に何事も無い様になれば、そうすれば、毎日生活してて、穏やかだからそれで良いって、その位の事しか言ってないって言うんです。

この「見解」自分の見方、理解の仕方ですね、「なほ小乗の学者におよばず、」仏教に大乗と小乗ありますが、小乗って言うのは自分だけ救われれば良いって思ってる様な、小さなものの考え方をするものを、小乗仏教と言います。大乗仏教って言うのは、自分が救われたら、その素晴らしさが自分で分かったら、全ての人に縁があれば、それを伝えて行こうと言う大きな願いを持った人達が、大乗仏教と言われてるね。

で、だからそう言う時に、「なほ小乗の学者におよばず、」自分の事だけよかれと思ってやってる人よりも、まだそれはつまらないものの見方や考え方・理解の仕方だと道元禅師が言っておられます。

「人天乗よりも劣なり。」一般のなんだろう、道徳律とか言う様なものも入るのでしょうね、人天乗。こうすればああなる、ああすればこうなるいって言う様な事があるから、それを守っていく様な事がありますが、そう言うものよりも詰まらないと言ってる。「劣なり。」「いかでか学仏法の漢といはん。」本当に仏法を学んでる人とはとうてい言い難い。

「現在大宋国に」そう言う「恁麼」です、その様な功夫している人が多い。「祖道の荒無かなしむべし。」折角素晴らしい正しい教えが今も伝わっているのに、何たる事だと言っておりますね。これが一段ですね。また似た様な人がいると言うので、挙げてあります。

「また一類の漢あり、」それどう言うことか、『坐禅弁道はこれ初心晩学の要機なり』坐禅は、今自分達が悩んだり苦しんだりしてるから、それがどうしたら良いかって言う時に使ってですね、それがはっきりすれば、後は要らないって言うんでしょうね。『かならずしも仏祖の行履にあらず。』それは悟りを開かれた仏様や祖師方の在り様とは違う。

『行亦禅、坐亦禅、語黙動静体安穏(行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静に体安穏なり。)』行くもまた禅、坐もまた禅、と読んでおりますが、何をしていてもって言う事でいいですかね。何をしていても禅の在り様だって言う風に捉えてる。そう言う風な考え方でものを見ているって言う事です、これね。

考え方でものを見ているのと、実際に本当にその時、その事しかない確かさと言うのは、全然違うって言う事でしょうね。研究するとか、ものを学ぶ人は、殆ど実物じゃなくて、そう言う学問的にものを見て、勉強している。それで結論も頭の中で出した結論で、そうなってるって、そうなりますって言や、それでなった様な気になってるじゃない。こう言う様な事を道元禅師は厳しくやっぱり見て、それは違うって言う事ですね。

「ただいまの功夫のみにかかわることなかれ。」ってこう言う人達はだから言うって言うんでしょう。もっと一杯やることがあるって言うんでしょうね。だけど修行って、やる事一杯無いですよ。今自分達がこうやってる時に、本当にどうなってるかって言う事だけがはっきりすれば、済む事じゃない。この一点だけ。カッチ(□の中にカ)一解とか一大事とか、色々な言い方しますけど、これが一番大きな問題じゃない。

もっと普通の話をすれば、今皆さん方がそれぞれ問題になってる事だけが解消、本当の意味で解消されれば、すっきりする訳でしょう。他の事はそのまま普段の通り生活してて良い訳でしょう。

「おほくこの見解なり。臨済の余流と称するともがら、」これは余所でこれを裏付ける様なものが残されておりますが、どうして「臨済の余流と称すともがら、おほくこの見解なり。」って言う事になるかって言うと、元を尋ねて行くとですね、圜悟克勤と言う人の後に大慧の宗杲と言う人が流れの中に出てきますが、その時に、きちっとした処までこの大慧の宗杲さんって方が修行が終わらない内に、圜悟禅師が亡くなってしまって、その後もですね、修行して本人がはっきりしたって、きちっと自分ではっきりしたっと言う処まで行かないまま、色んな事を後世に、文言と文章も作ったりして伝えたって事があるので、こう言う事になります。皆見解、仏法が皆見解になっちゃった。

それが今でも使い方が悪いと公案を、臨済の方達は公案と言うものをやりますが、あれを見てると、答えを如何いう風にして出して来るかって言うと皆考えでしょう。坐って、そこに何が書いてある、どう言う事を言おうとしてるかって、すーっと坐りながら、その文言を頭の中に浮かべて、遣り取りを頭に浮かべて、それ如何いう事だってずーっと坐禅中にそういう事、ずーっとやってる。或いはその他の時でも、その公案をずーっと頭に置いてないと、お師匠様の処であれはどうなった、あれは如何いう事か分かるかって言われた時に、答えられないので、一生懸命考える。全部見解なの。

(臨済の坐禅て言うのは、非思量では無いと?)恐らく。恐らく。(僕はそう思ってますけれど、違うと言う人もおりますので、尚確認です。)、ああ余り余分な事を言うとね、差し障ると言う事でしょう。要らん事でしょう、自分の修行するのに。まあそう言う事にしておおきましょう。

これは気をつけなきゃならないのは、自分がはっきりしてない時に、人がはっきりしてるとか、してないとかって言う様な事は、真に失礼な事でしょう。(はい。)これ立派人が、こうやって言う分には問題ない、ねぇ。分かってない人が分かった様な事を言うのは、それは絶対注意しなくちゃいけない。人の褌で相撲を取るって言う事があるから、こう言うのを書いてあるのを見ると、わが事に様にこれ使ってしまうとえらい事になる。(各宗派としては慎重にそのあたりやってますね。それ分かります。)ね。それで良いでしょう。

「なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。」ここまでで終わっておきたいと思う。

初心晩学の要機って言う様な事が最初にあげてあるので、この事を示している当時の人達が、どう言う風に初心て言うものを見てるんだろう、晩学って言う言葉を使ったり、段々年数が重なって行くと言うことでしょう。お前今日はじめて来たじゃないか、あなたは何年もやってる、そう言う風なものの見方があるから、そう言う時にですね、じゃ初心て、そんなにつまらないものかって、一つは言ってる訳。

でこっち、何十年もやってるって言うけども、本当に今こうやってる事は、何十年もやってる事かって言ってる訳です。どちらも、今、生まれて初めて触れてる様子じゃないかと言うのが、ここで言いたい事ですね。だからあの、私の方が古いですとか、私の方が初めてですとかって、遠慮する必要が無い様になってる。威張る必要の無い様になってる。皆触れる処は初心です、生きてるって事、しょうがないじゃん。そう言う風になってる。今迄にやった事が無い事やるだけだもん、生きてるって事、全部。

(新しい日々、じゃなくて瞬時?)そう。新しいって事、言う事を仏教では大清浄って言う。大きい清浄。きれい。底抜けきれい、ね。古い物が何処にもない。それが大解脱って。全てのものから放ち解かれてる。(それを解脱って言うんですか)そうですよ。だってそうでしょう。内容としては言葉はだから難しいんだけども、事実を見てみると、何だ、って思う位簡単な事なのですよ。

そんな風に出来てるんだけど、ここの頭は、相変わらず古いもの一杯相手にして、有る様に思って生活してるから、この坐禅を本当にしてみないと、この事がはっきりしない。(先ほどの大解脱の他、もう一つは?)大清浄。清浄セイジョウって普通読む。仏教用語では清浄ショウジョウ。これが皆さん方の毎日過ごしてる様子なんです。

だから他の事持って来て見ないでしょう、これ見る時に。イキナリこれで済むじゃない。音を聞くんだって、何か持って来て聞かないんだもん。パン!いきなりパン!この音だけで、済、ちゃんと出来てる。皆、初めてでしょ。初心でしょ。そうやって過ごすと修行になる。この内容が非思量だから、初心て言うのは。手のつけ様がないじゃない。

未だかって自分の上で起こった事が無い事だから。自分の中にあるものを出して来るんじゃないからね。非思量って。古漬けみたいに。無いんだよ。この中に非思量って言うものが。あったものを出して来て触れる様な事じゃない。初心て言うものが非思量の正体。

音だって、パン!(打掌)何処からこう出してくるかって、どっかに有ったもの此処に引き出して来る訳じゃない。こうやってパン!音が出る様になってるだけだからね。これ位人間の考え方を離れてるものを、実際に体験して生きてる訳じゃん、本当は。だけども、何回も何回も言うけど、本当に人間て、こっから上で(頭)生きてるんだよ。考え方で生きてるだけって言っていい位つまらなくなってる。それを坐禅は、本当の自分の在り様そのものにこうやって居る。

自分自身のこの生き様ってものは、絶対に忘れようたって忘れられない、離れようたって離れられない様にできてるから、これだけで何時も初心で生活してるそれで十分。ということで。
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坐禅箴 Ⅲ

2018.12.2 (六月の分と一部重複します)

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坐禅しんⅢ正_01
坐禅しんⅢ正_02
坐禅しんⅢ正_03
坐禅しんⅢ正_04



この資料、「坐禅箴」の資料の一枚目の終わりの五行目位からですかね。その繋ぎまで読んで話をします。

「大師云、『非思量』。」これは何だろう、思量、不思量、非思量って、こう三つ位単語が並ぶんだけど、思量は勿論、実物では無いのですね。例えば、こうやってパン!(打掌される)あ、音がしたって言う風に扱ってるのが思量ですね。で、不思量って言うのは少なくとも、パン!あ、成る程、音と考えてる事が違う、って言って、この音の方にこうやって居る位が、不思量ですね。で、この本当に音だけをどういう風にして頂くことが出来るかったら、それはもう最終的に、これパン!に拠るしかない。

この音を聞くにしても、この音を知るにしても。思量に一切用がない。実物そのものですから。不思量にして現れる。人がどうこうする前にパン!だから、聞くとか聞いたとか聞こえたとかではない。パン!こう言うものがここで非思量と言われるね。

生活の中で基本に成っているのは、必ず事実ですよ。実物でしょう。実物は人間の思量の及ぶ範囲じゃない。それだのに人間は思慮分別を持ってそれを知りたがる。それで実物に触れている様でも、何だろう、コーティングがしてあると言ったら分かるかね。あの透明、無色のコーティングがしてあるので、実物の様に見えるし実物を間違いなく扱ってると思ってます。(質問:思ってる?)思ってる、殆ど。

ところが実物には、そう言う人間の思慮分別が加わってない時が、その実物の本当の在り様なんですね。だから、この非思量って言う事が役に立つ。修行するのに、必ずこの事で時を過ごして行く訳。

もうちょっと具体的にものをこう見てみると、簡潔に言ったらですね、時節因縁と言う様な事を使いますが、時節って言うのは時です。時って言うのは皆さんが一番よく使ってるのは、今と言う表現です。今って言うものはですね、掴まえ処が無い様なんだけども、今から離れて生きてる人は一人もいない。何時でも。だけども、その何時でも今の様子に居る今の内容はどう言う風になってるかって言うと、先ほどのものは一切ない。

滝の水が流れてる様子を見てもですね、滝がずーっと流れて、水が流れてるって言う風に見てるけども、その水の流れてる内容はって言うと、何処にも先ほどの水が流れてるって言う事は。永遠に無い。必ず今の流れてる水の様子だけなんですね。それ先から、上から落ちて来るって言うんだけど、必ず本当に今の流れてる水の様子だけなんです。それでも人間は物の見方があるから、ずーっと何時も同じ様に滝が流れてるって言って、そう言う風に固定概念で物を見てる。実物の内容は何処にも固定されるものは、一切無い。掴まえるものさえない。

そう言う風にして、今って言うものは展開されてる。その時節って言うものは、そう言うものを時節と言います。時と言います。これが人間の本質です。(路面電車の音)ゴトゴトゴトゴト、ゴトゴトゴトゴトって、これ時です。音がしている時です。何処に触れるかって言うと、ゴトゴトゴトって、必ず今の音に触れるしかないんです。否応なしに。そうやって皆さん毎日生活してるんですよ。

それだのに色んな事が気になるのじゃないですか、ねぇ。それは思量の世界の方で扱ってる話でしょ、考え方の。事実の方に学ぶと、見事にそう言う事が解決されて生きてるじゃない。あれがこれが気になってるって言うけど。本当の生き方をするんだったら、この事実に根ざしていなければ、生きてる意味が無いじゃないですか。

机上の空論て言うけども、頭の中で、ああだとかこうだ、ああだったとかこうだったとかって言う事で人生が済むなら、寝床の中へ入って一日寝て考えてりゃ良い事じゃん。ご飯も、ああお昼時だなあ、食べたらあんなに成るこんなに成るって言って、作らなくても済むじゃん。ねぇ。食べた様な事思ってりゃいいじゃんねぇ。味がした様な事、思ってればいいじゃんねぇ。ご飯が終わった様な事、考えてればいいじゃんね。そんなの人生じゃないもんね。

皆、実物を本当にそこで実践してやってるじゃん。それは因縁と言われる様に、一応このもの(自分を指す)一応ね、一人一人これだけのものがあるから、このもの(自己=身心)とこれ以外のものが、必ず一緒になって動くのを因縁と言います。時節因縁。それは各自、此処で、今、触れる以外に無い。この身心と言われる各自の持ってる身心と、そこで、この身心のある所で、今こうやって、これが触れてる証拠でしょう。こうやって。

そうすると、因縁だから、こう言う物(物を見せる)に触れると、触れた様になるし、こう言う物に(別の物を見せる)触れると、触れた様になるし、こうやって触れた物の様に、これが因縁によってきちっと、もうずれずに行くって言う事が、仏法と言われる法則です。人間がどんな事をしても犯す事の出来ないほど、はっきりしてる。ねぇ、簡単でしょう。

こういう物(紙を示す)を見せたら、こういう風に見えるし、こういうもの見せたらこう言う風に見える様になってるじゃん。絶対ずれないじゃん。気をつけてなければって要らん事じゃん。気を付けてなくてもこうやってりゃ必ずそうなる。それ位我儘な事が一つも無しにスムーズに生活してるって事が仏法の様子です。法です。ルール。

パン!ここで音がしたのと、パン!(別の場所を打つ)ここで音がしたの聞き分けなくても、皆さんが聞き分けなくても間違える事はない。ここで音がしたのと、ここで音がしたのが、ちゃんと違う様に聞こえるのが良いじゃない。パン!パン!そう言うものが皆、事実はそうやって人間の思慮分別の外です。

思慮分別に非ずって言うんだけど、思慮分別を超えている。超越してるって言う事です。それが非思量と言われる実物です。修行するのには、だから必ず実物でやる。じゃ自分の実物って何かったら、今、ここでこうやってる事以外にない。

何処行ったって、これ何時も話するんだけど、人間て何処に行ったって、このもの(自己の身心)抜きに生活しないんだよ。相手にしてるの、これだけ。(自分を示す)これが色んな所へ行くと、必ずその行った場所と一緒に成りながら、これが活動する。

その活動の中に、眼があるから、そこへ行くとそこの景色が、その通り見える様になってる。耳があるからそこで音がしてるのがその通り聞こえる様になってる。で香りがすると、そこで香りが嗅げる様になってる。それ全てこの身体でやってるものばかりです。生涯。生涯、一人一人この自分自身のこの身心の活動してる様子だけです。

それも丁寧に見ると、今、今そこで、この身心のある所で、今活動してる以外の事は一切無い。昨日の事を思い出すんだって、ここで今やる。明日の事を考えるんだって、今此処でやる。それ位何処にも行かない。

さっきもちょっと面白い話があったから取り上げてみるんだけども、人間の中でですね、あれもこれもって色んな事が浮かばって、もう大変て、言う人が例え居たらね、よく見てみると、自分の中でどう言う事が行われてるかって言うと、あれもこれも一杯って言う、そう言う思いがただ出ただけなんです。あれもこれもって一杯あるんじゃないんですよ。

あれもこれもって、言葉だってそうでしょ。あれもこれも一杯ある訳じゃない。あれもって言うと、あれもって言う事が其処に言葉として出てくるだけであって、これを人間はすぐ、瞬時のうちに、こんな風に(一杯の仕草)思うんだよ。そうやって使って来た。
昨日あそこであの人にって思い出すと、昨日あそこであの人にって言う様な事を、本当はただ言葉の上でも、昨日って言う言葉が

ふっと浮かんで、あそこでって言う言葉がふっと浮かんで、あの人がってここで(頭)で浮かんでるだけですよ。何も無いんだよ。思いって、それだけ。実物、非思量って。思いの内容はそう言う風に出来てる。

だからどんな事が出て来ても、そのままほっといて大丈夫なの。扱う用がない。それを処理する用がない。しかもですね、思った時だけしかその思いは無いから、思ってない時は何処探したって無いんだよ。で、もっと丁寧に見てみると、出てきた思いがずーっと止まずに、ずーっとあるって言う人なんか聞いた言がない。無理なんだよ。次の思いが出る時には、間違いなく前の事が消えちゃってる。

もの見るんだってそうでしょう。さっき見てたものが、次見る時にくっついて来ない様になってる。音を聞くんだって、さっき聞いた音が次ぎ聞く時について来ない様になってる。皆そう言う風に活動してる実物は。だけど人間は何処で思い間違いをするかって言うと、そんな事言ったってって、思うからね。思うと思った時に、さっきああ言う音したじゃない、さっきああ言う事があったじゃないって。

それはその時に、そう言う思いが自分の中でふっと浮かぶんだから、そうすると、その思いに騙されて、残ってるって言う風に思うんだよ。その時に。やってる事はその時そう言う思いが出ただけ。だから知らないと、この思いを、どうしたら静かになるとか、出ない様になるとか、邪魔にならない様に早く片付けるにどうしたら良いとか、そう言う事を又人間は思うんだよ。で何処まで行っても、思量の中から出ない。これでは修行にならないでしょう。本物がどうなってるかって事に触れないんだもん、これでは。本物に触れる為には、考え方でない、実物にこう触れると、いきなり成る程ってなるじゃん。

ゴトゴトゴトゴト(電車の音)ゴトゴトゴトゴト考える用がないじゃん。あれとこれが違うって、パン!あっち、今音がしたのと、パン!こっちの音がしてるの違うって、考えてやっと分かるのかしら。そんな頓馬な人は居ないんだよ。皆もっと素晴らしい出来栄えなの。自分の事だから、そう言う事がはっきりすると、楽になるでしょう。力も付くでしょう。安心もするでしょう。そう言う事が仏道の在り様です。だから皆さんと一緒に勉強する訳じゃん、自分の事を、本当に。

そこでですね、続き、「いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、」そりゃ修行するのに、今申し上げた様に、実物そのものに拠らなければ、実物そのものがどうなってるかって言う事、はっきりする訳がないから、ねえ。間違いなくその事を知りたかったら、その事に用があるのでしょう。そう言う事ですね。必ず、「不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。」そこまでがそう言う事じゃない。

ところが人間は何か事があるとですね、その事が気になり始めるとですね、その気になった思いを相手にして真実を探す癖があるじゃない。それじゃ駄目なんだよ。もう一度色んな事思う事じゃなくて、真実がどうなってるかって言う時、真実に目を向けないと駄目なんです。そうすると、ものがはっきりする。

料理作って味わった時に、どうも味がとかって色々問題になった時に、もうその作った料理はほっといてですね、その思ってる事だけを相手にしてですね、どうするんですか。そんな事はないのでしょ。そのちゃんともう一回こうやって味見してみるんでしょう。そうすると、どうなってるかがはっきりするのでしょう、これが事実だから。で、自分の考え方や思いが付いている色んな見方してたもの止めて、ただ素直にその頂いたものの味がしてるだけで、こうやってやる様にすると、ものがどんな味がしてるかがはっきりするじゃん。

それ人間の言葉だってそうでしょう。今聞いたけども、何だかよく分からないって言うんだけども、よく分からないって言う時には、必ず自分の中で聞いたものに対して、ふっと思いが起きるんですねぇ。その思いを相手にすると、分からないって言う風になってる。だけど、もう一回テープなんかとってあれば、聞き直してみると、あれそんな風に喋ってたんだって思う位、自分がちゃんと聞いたと思う事と、本当に喋ってる内容が違うじゃん。

だから皆さんが普段人と話をする時に、自分の思いを入れずに、ひたすら相手の喋っている通りに、こうやって居てみるって言う事が修行になる。そうすると、それを段々やると、そうやって生活してると腹を立てる対象がないんだよ、聞いてる時に。頭にくるって言う事がない。頭にくるって言う時は、必ず聞いたものを自分で分別、判断したものが付いた時にやられるだけ。振り返って、皆さん自分の事だから、振り返って見て下さい。どう言う事が行われたか。

言葉に問題があったって言う事はないでしょう。頭に来たって言う位、頭に来るんでしょう。言葉に来るんじゃないんです。言った言葉に問題がある訳ないじゃん。ねえ。あいつあんな事したって。やった事に用があるんじゃなくて、それを認めた自分の捉え方が気になってしょうがないのでしょう、ね。そう言うものです。

だから必ず、この修行をする時には、「不思量底を思量するには、」考えてないって言うと、考え方を離れるってどう言う事だって言う風に勉強する時には、この非思量を用いる。考え方の付いてない、考え方の一つも付いてない事実に学ぶと言う事じゃん。事実には、何回も申し上げるけど、人間の考え方は一つも付いたものが無い。だからどんなものが其処にあっても、邪魔にはならないじゃん。邪魔にするのは人間の見方だから。

見解は誰か他人が起こした事が問題になるのではない。必ず自分の中に起こしたものが自分で気になるだけです。それに対して。そうすると、蹴飛ばしたりなんかする様になる。

「非思量にたれあり、たれ我を保任す。」この事実って言うものはどう言う風になってるかって言う事でしょう。「非思量にたれあり、」これ自分の様子に間違いないんでしょう、非思量って。他の人の様子じゃないでしょう。こうやって生活して、考え方をつけていない在り様って。皆誰しもが、自分自身のの在り様として、根底にそう言うもので生活してるんでしょう。

先ほど来申し上げた様に、生涯、生涯ですよ、人間はこの自分だと思ってるこの身心の、これ一つで、このものの活動だけなんですよ、最初から。だからこう言う風なもの読んだ時に、「非思量にたれあり、たれ我を保任す。」って言う風になってるのは、それ位何処にも行かないほどちゃんとしてるって言う事じゃないですか。この非思量が、自分の上に。どっかへ尋ねて行かなきゃならない、探して来なきゃ得られない様なものじゃない、最初から。

そりゃ生れ落ちた頃から、ずーっとそう言う生活をして来て、そう言う生活の時には、自分で認識をして知るって言う事がまだ育ってないから、この通り非思量のまま、ずーっと生活して来た。で、生活の方はそのままずーっと生活してるんだけど、その上に認識作用が起きて来たもんだから、その内容をちらっと見て、ああ、ああなってるって見る様になった。そこから事実から離れる様になっただけです。

事実と言うものは、ああ成ってるって言う風に眺める必要の無いものです。自分の事実だから。そうやって坐る時も自分の真相そのものに、こうやって、自分の真実の様子そのものに、こうやって親しく居るって言う事が、坐禅をしてる時の様子です。坐禅するってそう言う事を坐ってしてます。不知最も親切とも示されています。親しいと言う事は、自他の区別が無いのです。

「兀々地たとひ我なりとも、」って、これいいでしょう。間違いなく坐ってる事は自分の様子に違いないって言う事で良いでしょう。「思量のみにあらず、」だから皆さんが考える事が中心だと思ってるけど、「思量のみにあらず、兀々地を挙頭するなり。」本当に坐る時、ただ坐ってる様子がそのままあるだけだって言ってます。それが坐ってると言う事です。本当に。坐ってる時に坐ってる様子が本当にあるって言う事が、坐るって言う事でしょう。それ以外の事やってたら、それは坐ってる事じゃない事やってる訳でしょう。

あの電車もああやって、音でも、電車の音を本当に聞くんだったら、あの電車の音がしてるだけの音がしてるのが、正しく聞いてる時の事でしょう。それ以外の事を交えて聞くって言う事は、電車の音をそのものを聞くと言う事にならないでしょう。ね。じゃどうしたらそのものだけが聞こえるかって言って、こうやってると、何もしないと、そのものだけがちゃんとその通り聞こえる様になってる。他の音でもそうでしょう。一々皆、その音に他の音を交えない。音も他の音と混同しない様に出来てます。そう言う事です。

「兀々地たとひ兀々地なりとも、兀々地いかでか兀々地を思量せん。」言われてみれば、そう言う風に、その時にまじりっけもなく、何も無くその音がその通り聞こえてるって事は一応理解できるんだけども、理解は出来るんだけど、本当に音を聞いてる時に、音を対象物として捉えると言う事はないのでしょう、と言うのですよね。「兀々地たとひ兀々地なりとも、いかでか兀々地を思量せん。」そのものがそのものを見るって言う事は無い。そのものがそのものを聞くと言う事も出来ない。ね。

いいですか。音を出しますが、パン!(扇子で畳を打つ)この音が、この音がですね、パン!この音がこの音を聞くと言う事は無いでしょう。(音がですか。)音自体が、このしてる音自体が、自分でって言っていいかな。音が音を聞くって言う事は無いでしょう。そう言う事。

坐ってる時、だから自分の坐ってる事があるには違いないんだけども、本当に坐るって言う事は、今こうやって坐ってる、ああ、ちゃんとそうなってるって、それは坐ってるんじゃない。考えてる。自分が坐ってる様子を此処に置いといて、外に自分を置いて、自分を自分で観察してる様な坐り方をしてるって言う事じゃん。本当は変じゃないですか。変ですよ。

お茶一杯飲んでても、其処には人は顔を出さないよ。(おいしいなって言うのは何ですか。)それは飲んだ物に対する自分の見解。そんなもの付いて、入ってこないもん。美味しいなんて、そんな風にはならない。自分の目は自分に付いてるんだけども、目が自分の目を見るって言う事は無いとかって言う、そう言う表現でやれば分かりやすいかもしれない。

一番親しく居るって言う時には、そのものと一緒になってるから、一緒になっている時には、眺める物がおのずから無くなる。眺める物が無いんだけども、疑うって事は無い。これ本当に自分が見てるだろうかって、疑う必要無いでしょう。

写真撮る人がいるんだけどね、写真撮る人が、大概こうやってカメラを向けて撮ってる場合はですね、どの写真を焼増してみてもですね、自分が写ってない。ね。でもこうやって並べたら、あ、僕が取った写真だってすぐわかる。居ないんだよ。私は。居ないんだけど、写真見たら、間違いなく私が撮った写真だってわかる。他の人の撮ったのじゃないって事が分かる。不思議だね。自分が見えなくても。
だってこうやって物見てて、これ私が間違いなく見てるって言わなくたって良い様になってる訳でしょ。信じなければって用ないでしょ。そう言う事です、ね。「兀々地いかでか兀々地を思量せん。」本当に坐ってる時には、内容はそう言う風になってる。信じる必要がない。それを眺めて、点検してどうなってるって言う様な事じゃなくて、今、活動してるそのままでいる。それが全部自分の内容だから、最初から。

「兀々地仏量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、会量にあらざるなり。」これ位人間の考えで取り扱ってる範囲と桁違いだって言う事だね。仏量だから、お悟りを開くと、そう言う事が分かるんじゃないかとか思ってる人がいるけど、お悟りを開いて分かる程度の量じゃない。法量と言う、仏法の真実の様子はそうなってるって言う様な事が、一応理解出来るんだけども、遥かにそう言う人間が、真実はこうなってる、ああなってる言う様な思い慮ってる内容を超えています。

こういう事がずーっと書いてある。会量、会量は、一応理解が出きた、はっきりしたと言う様な事があるけども、そのはっきりした事だって、もうこれで終わりって言う様な内容で生きてる訳じゃない。一日中、眼だってそうでしょう。どの位物をこう見てるか分からん位、生活してますよ。こんな事が書かれてる。

「薬山かくのごとく単伝すること」って言うのは、この主人公の薬山弘道大師と言う方がですね、坐禅についてお話、示されている内容です。坐禅て言うものはこう言う事だって、示されてる。『兀々地思量什麼』『思量箇不思量底(箇の不思量底を思量す)』またそれに対して、『不思量底如何思量』と問われたから、『非思量』と答えられた。こう言う風な内容の事をここで「薬山かくのごとく単伝すること」と言う事ですね。それを詳しくさっき、昨日触れてみた内容。

エー単伝て言うのはですね。こう言う風な事を言います。パン!そのものがそのものを伝える。パン!そのものがそのものを伝える。皆そう言う風になってます。他所のものが、このものの様子を伝えるって言う事はない。どんなものでも。必ず、そのものがそのものを伝える様になってる。それ単伝と言います。だから間違いが起きない。絶対に間違いが起きない。そのものがそのものを伝える。他のものを持ってきてそのものを伝えるって言う事はない。

自証三昧 Ⅺ

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自証三昧 11-01
自証三昧 11-02
自証三昧 11-03
自証三昧 11-04


「おほよそ大宋国に仏祖の児孫と称するおほかれども、まことを学せるすくなきゆゑに、まことをおしふるすくなし。」これ大宋国、中国の当時の話だけども、何時の時代もそうでしょう。どの職業においてもそうでしょう。だからものを学ぶ私達の方からすれば、出来るだけ、出来るだけその道に精通した人に、その事はついて学ぶのがお勧めですよね。

一回ものを学んでしまうとですね、次に中途半端な人について学んだ時に、又一からやり直さなきゃならんし、前に学んだものが中々厄介なんだよね、何処かに出てきて。あっちの人はこう言う風に教えたとか、何でああなのとか、そんな時間がかかる。ストレートに、今教えられている通りに行かないよね。不思議なもんだね。

この頭でも、バリカンで昔刈ってたけども、下手な人が刈ると虎刈りになる。筋が出来る。その後のそれをきちっとこう刈るのは非常に難しいじゃん。最初にズーっと同じ様に毛の長さを同じ様に刈ってくと綺麗に刈りあがるんだけど。そう言うのと似てる。
「そのむね、この因縁にてもはかりしりぬべし。」今取り上げた様な事を見てみると、ものがどう言う風になって、結末がどう言う風になっているか、この先どういう風になっていくかって事が、皆それによってはっきりする。

「紹興のころ、」これ年代ですね。「なほかくのごとし。」1131年から1162年を紹興の頃と言う風になってますが。道元禅師がお生まれになるよりもどうですか。四、五十年前か五、六十年前。「なほかくのごとし。いまはそのころよりもおとれり。たとふるにもおよばず。」わずかですね、わずか道元禅師が中国にお渡りになったのは、紹興の頃から百年位ですよ、後。百年位経つと、こんなになっちゃうって言ってるんですね。「いまはそのころよりもおとれり。たとふるにもおよばず。」一度火が消えると、火を起こすのに大変だと言う事かしら。

「今は仏祖の大道なにとあるべしとだにもしらざるともがら、雲水の主人となれり。」これ言う必要ないね。「しるべし、仏々祖々、西天東土、嗣書正伝は、青原山下これ正伝なり。」達磨大師から順次伝わってきて、六祖大鑑慧能、そしてその後で、青原行思禅師の流れと南嶽懐譲禅師の流れに二人の弟子が出来ますので、なっていきます。そう言う中で、嗣書正伝は、道元禅師は青原禅師の方を優位にこうやって見ておられますね。

その背景になる流れは、ご自分が南嶽懐譲禅師の系列の臨済宗の明全と言う、栄西禅師のお弟子の明全さんについて学んでるんだけども、この明全さんが、この仏法の真意についてはご自身もはっきりしなかったので、一緒に道元禅師と中国に渡って、勉強をし修行をして、早くそう言う事に気づいたら、どちらか早く気づいた方がそれを助けようという様な約束をして、中国に渡って行くって言う様なストーリーがある。史実があります。

そう言うものを見てもですね、この南嶽懐譲禅師の系列に嗣書と言う受け継いで行く正しいものが正伝して来なかったと言う事が言えるかもしれない。青原の方はどう言う人がいたかって言うと、天童如浄と言う人が中国におられて、その人に道元禅師はついて、仏法の正しいものを受け継いで来た訳ですね。そう言う史実の上でのも、そう言う事が厳然としてある、言う事でしょうかね。

「青原山下よりのち洞山」洞山良价、宝鏡三昧を著した方ですかね。「おのづから正伝せり。自餘の十方しらざるところなり。しるものはみなこれ洞山の児孫なり。雲水に声明をほどこす。」道元禅師はこの洞山良价禅師を高く、何時も評価しておられますが、洞山高祖と言っている位。徹底の仕方がですね、底抜け本当に素晴らしいなって言っているのでしょうね。でやっぱりその流れの中から大勢の立派な人が育ってる。

「宗杲禅師、生前に自証自悟の言句をしらず、いはんや自餘の公案を参徹せんや。」これ自証三昧の巻ですが、自証自悟の言句を知らず、言っております。これは決して一人よがり、自分勝手に人に頼らずにって言う様な、自証自悟って言うのはそう言う意味じゃないですね。間違えると困ります。

そう言うのがちょっと最後の方に書いてあるんで。「いはんや宗杲禅老よりも晩進、だれか自証の言をしらん。しかあればすなはち、仏祖道の道自道他、かならず仏祖の身心あり、仏祖の眼睛あり。仏祖の骨髄なるがゆえに、庸者の得皮にあらず。」
仏祖道の道自道他、仏祖の身心。仏祖の眼睛、仏祖の骨髄、ここに皆仏祖と言うものをつけておられますが、言葉をもう少し選んですればですね、真実ですよね。真実。真実を本当に自分ではっきりさせた人を、今しばらく仏祖と言うでしょう。私達も真実の中にすっと生き続けているんだけども、その真実がどの様になってるかって言う事が、はっきりしないまま過ごしてる事が多いでしょう。

簡単なものを取り上げてみますとね、先ず一人一人の生活してる時に、人間には六官と言われる様な道具があるから、それらがどう言う風に活動してるかって言うと、こうやって、首をこうやって(首を右から左へ回す)ずーっとこうやってやるとですね、先ず眼を開けてこうやってやると、こう言う風になるって言う事がわかるでしょう。毎日使ってるんだもんね。何時も眼を開けて、こうやって、何処へ行ったってこうやって使ってるから。

それどうなってるか、皆さん分かりますよね。どうなってますか。え?不思議ですよね。皆やってるんだけど、それがどうなってるか、良く分からない。目はですね、色んなものこうやって見えてですね、どんな物が見えても、眼って苦しんだ事が無い、知ってますか。悩んだ事が無いですよ。必ずその通り、こうやってその通りあるだけ。一切悩まない、苦しまない。今見てる時、他のものを探さない。それがこうやって今見てる時の様子ですからね。見ていて他のものを探す様な愚かな事はしない。

で見たのに、何処にも残らないって言うのも不思議でしょう、こうやって。何時こう言う風になるか知らないでしょう。こうやって。その様にしたって事は、自分に一つも無いんでしょう。ただ目を開けて、こうやってやるとそうなるんだもんね。もしこの事が本当に自分で納得が行ったら、普段何を問題にしてこんなに悩んでるんだろう。こんなに素晴らしい働きをして生活してるのに。

まだ何かしなきゃ本当の生き方が出来ない、と思ってるのは変じゃないですか。これがもう皆さんの求めている最高の在り様そのまま示してるじゃないですか、今、何時でも。見て好き嫌いは出て来ませんよ。言っときますけど。好き嫌いは見てる事じゃないから。見たものに対しての各自の判断、分別、評価です。それを見てると思ったら、大間違い。聞いてもそう。

どんなものが聞こえて来ても、それで煮えくり返る様にはならない。腹が立つとか。その通りその音がしてる時に、その通り在るだけで、音が止むと何もしないのに何処にも探しても無い。底抜けそう言う風になってる。それで十分でしょう。それ仏祖の身心でしょう、仏祖の眼睛でしょう、仏祖の骨髄でしょう、仏祖の道でしょう。自分もそうだけども、他の人もそうなってるでしょう。

普通の人の様に自分達も思ってるかもしれないけど、この内容はそんな凡人の考えてる様なつまらないものじゃないって言う事でしょう。自分で思い間違えたんでしょう、本物を見ないで。自分の本物見ない。他人を見て羨ましく思うって。そういうんだって、皆、自分で間違えたんでしょう。自分の素晴らしさを何で見ないんだろうね。生涯他人の眼で物を見ないで済む様に出来てるじゃないですか。自分の持ってる眼だけで、間違いなくちゃんと物が見える様に出来てるじゃないですか。

他人の耳を一切借りなくて自分の耳だけで、どんな音がしてもその通りちゃんと聞くことが出来る様になってるじゃないですか。それだのに他人の様子を見て羨ましく思うって、何だろう。まあ色んな事が上げられるんだけど、自証と言うのはそう言う事ですね。自らの本当の在り様があるから、それに触れてみると、自分の素晴らしさが分かる、そう言う事に気づいた代表者として仏陀と言われる、自覚せるもの、自分の本当に在り様に目覚めた人がおられる。

それは坐禅してもそうだけど、坐りながら、自分の坐ってるものを眺めてる坐禅は、坐禅にならない。二人ずれだからですよ。本当に坐るって言う時は、眺めるって言う様な事は、絶対無いものでしょう。ね。眺める様な坐禅をするから、行き着いたとか行かないとか、未だだとか、あれがこれがって、次から次へ色んな事が、思いが浮かんで、思いが浮かぶと、またその思いに騙されて、知らない内にすぐ思いを相手にして時を過す様になってる。

あれだけ是非善悪を思わずとかって、ね。どんな事が坐ってる時出て来ても、一切それに対して自分の考え方で取り扱う事をするなって、もう口が酸っぱく成る程に書いてある。にも拘らず、知らない内にすぐ考え方の方に行ってしまう。それは坐ってる時に、坐ってる自分を眺める様な気配の坐り方をしてるからでしょう。一緒になってる時には、そう言う事は絶対起きないものじゃないですか。坐っていて坐ったてる事忘れてしまうって言う位なんでしょう。坐って、本当は。

そうすると、又そう言う言葉を聞くと、忘れてしまわなくちゃとか思われると困るので、話って言うのは難しいな、と思うんだよね。真意を捉えて貰わないと、何時まで経っても考え方で堂々巡りをしていて、その言いたい処伝えたい処まで入って来ない。ねぇ、それだけはちょっと要注意でしょう。私達もだから晩進のうちでしょうけど、「宗杲禅師よりも晩進、だれか自証の言をしらん。」自ら証する、自らはっきりさせると言う時に、今申し上げてる様な在り方が問われる。

一生生きていて、何回も何回も話しますが、一生人が生きていたって、本当に見てみると、今こうやって、此処でこうやってる事だけですからね、この身体で。この事を知るのに、余所の時間帯、余所の場所に行って知るって言う事は、絶対にありっこない。この真相を本当に知るのに。今此処でやってる以外に無い。で、既に今だから、向かう用がない。探す用がない。それが基本です。

生涯、それで、人は終わるんですよ。他人の事は一切やらない。だから他人の事を学ぶんじゃない。他人の事だと思ってる事が、全部自分の様子だから。ね。こうやって。他人の事だと思ってる事、全部自分の様子なんですよ。自証って言うんだけども。こんな小さなものだけを相手にしてるんじゃないですよ、自証って。

まあそう言う事で、一応ここは読み終わりと言う事で。ちょっとだけ休憩をして次へ行きますか。

自証三昧 Ⅹ

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2018.11.27
正法眼蔵の自証三昧、もう少し残っていると思いますが。402頁3行目から。一下り読んで始めたいと思います。

「圜悟禅師は古仏なり。十方中の至尊なり。黄檗よりのちは、圜悟のごとくなる尊宿いまだあらざるなり。他界にもまれなるべき古仏なり。しかあれども、これをしれる人天まれなり、あわれむべき娑婆国土なり。いま圜悟古仏の説法を挙して、宗杲上座を撿点するに、師におよべる智いまだあらず、師にひとしき智いまだあらす、いかにいはんや師よりも優れたる智、ゆめにもいまだみざるがごとし。」

まあそう言う処ですね。エーまあ難しい事は書いてある訳じゃないので、理解はいくと思いますが。じゃあその、どう言う処が、圜悟禅師あるいは黄檗禅師とですね、この宗杲、大慧のシュウコウと読むか、ソウコウとかなが振ってあるので、一応しますが、その方々と何処が違うのかと言う事だけが、多分問題になるでしょう。読んでね。皆さんも知りたい処でしょう。

先程、到着した時に、方丈さんと少し話しをさせて頂いたんですが、その感じる事はですね、一般にものを学ぶ時におそらくそうじゃないかと思うんですが、何故か自分を此処に置いて、そしてこうやって眺めるから、最初からもう向こうのものをこちらに受け入れると言う様なものの知り方しかない、じゃないかと思うんです。それが幾ら勉強して幾ら修行しても、其処から勉強してる人とですね、はじめっから自他の隔ての無い処から触れてる人の違いでしょう。

今日も天気が良いもんだから、私も寺でも近くに居られる方が弁当を持って来た。坐禅堂で坐るのも良いんでしょうけども、ちょっと話をって言うもんだから、階段の所に腰を下ろして話をして。景色が其処にずーっと在るから、そう言う所でこう言うに過ごしたんだけども。向こうにある景色を見るって言うんじゃなくて、イキナリその中に居るのですね。どうしたら一緒になれるかって言う様な事じゃないですね。そう言う事が皆さんにもなんとなく分って頂けるんじゃないですか。

カラスがカアーって鳴いたりしてるんですけど、カアーって言うと、要するに向こうでカラスが鳴いてこっちで聞いたって言う様な風に、普通は大概の人はその位の捉え方をしてる。それ常識でしょう。だけども、自分でカラスが鳴いてる時に、どうなってるかって事を、自分の事だからこうやってよく見てみると、カアーって言うだけなんですね。ここでやっても同じなの、カアーって。こっちで私がカアって言ったから、皆さんの方で聞こえたって言う様な気配は何処にも起きない。

そう言うのはこれだけ話してるから、何となく分るんじゃないかしら。実際にはそれ位自分らしいものって何処にも無い内に活動してるんですね。自分らしいもの立てずに。見ずに。だから聞いてるとも何とも無いでしょ、カアーって言った時に。いきなりカアーって言う風になる。それで後で、ああ今カラスが鳴いたの聞いたって、そう言う風に位置づけてるんだけど、その位置づけをする前に、そう言う風に皆さんは生活をしてる。こう言うのが祖師方でしょう。仏祖方。こう言う事がここら辺でも問われるのでしょう。

「宗杲上座を撿点するに、師におよべる智いまだあらず、師にひとしき智いまだあらす、いかにいはんや師よりも優れたる智、ゆめにもいまだみざるがごとし。」尋ねて行って其処に到達しないと、その事が分らないって言う様な勉強の仕方を多くしてるけど、こうやってパン!(打掌される)やると分かるけど、尋ねて行く時間が無い。距離が無い。いきなりパンて言うでしょう。それでそれを聞こうと思う頃には、もう音はしてない位、終わっちゃってる。全部味わい尽してる。こう言う事が誰でもが本当は生活の中で行われてる。

これを知らないと修行する時に必ず何処かに向かって行くのでしょう。尋ねて行くのでしょう。物を見てる時だって、その物を見てる時に尋ねて行く距離は無い。もういきなりその物ですからね、こうやって。二十四時間おそらくそう言う風に人は生活してる。それを平易な言葉で言えば今の在り様。今の様子があるばかり。

今の様子ってのは、もう少し説明しておくと、前から在るって言う事はない、今の様子ってのは。前からあるんだったら、今の様子とは言わない。じゃ今の様子が何処から出てくるかって、出て来る場所も無い。不思議なものですね、今の様子って。

でこうやってあるんだけど、今の様子があるんだけど、その様子が何処にも留まった事がない。消える場所も無い。隠れる場所も無い。去る場所も無いまま展開してる、今の様子が。何処にも残らない。だから底抜けそう言う自分の様子にこうやって触れてみると、垢の付き様がない。問題の起こし様が無い。それが天下泰平と言う事でしょう。救われていると言う事でしょう。

仏様って言うのは、そう言う自分の真相に本当に触れてはっきりした人達でしょうね。で自分を立てて物を見てる限りはそう言う事がはっきりしないじゃん。今と言う様子の中には、向こうの時間帯とこっちの時間帯って言うものは無いのが今の様子でしょう、説明をすると。ここら辺だけが今の様子って言う事はない。全部ですね。全部が今の様子だから。いきなり、もう手をつける必要がない。手をつけて今の様子に変えると言う事はない。で今の在り様って言うものが、片時も自分の上で無くなった事はない。もっと言えば、今の様子から離れて生きてるなんて人は誰も居ない。

だけども、頭の中に何処かに未だ他の世界がちらつくんだよね。それは事実にこうやって学ばないからだと思う。考え方で学ぶと、考え方で学ぶと言う事は事実から離れますから、距離が出来る。距離が出来ると対比する事が起こる。対比する様になるとものが分からなくなる。良いとか悪いとか必ず分別する様になる。そしてその分別をする中心は自分ですから、自分で好き嫌いの上で分別を使って、好きなものを取り嫌いなものを退ける様な生活をするから、何処まで行ってもけりがつかない。それがものを知らない時の勉強の仕方でしょう。ねぇ。

今ずーっと話をした様に、今の様子って本当に何処から出てくるかって場所が無い。何処に行ったって言う場所も無い。そう言う風にして活動してる。それで何処も欠けた事が無い。不足した事が無い。余分なものが一つも無い。余るって言う事が無い。そんなものがこう言う様な処に問われるのでしょう。

まあ、そこら辺がね、色々話したけども、智と言われるものの圜悟禅師あるいは黄檗禅師と、今大慧の宗杲と言われる人の違いでしょう。皆さん方も自分で比べてみると、そう言う事聞いてみて、自分の様子と祖師方のもの在り様と言うものに関して、自ずから違いを感じるでしょう。

「しかあればしるべし、宗杲禅師は減師半得の才におよばざるなり。」師の半徳を減ずるって言う。師匠についてものを知ってですね、人にその内容を伝える時に、正しく伝えなかったらですね、折角ちゃんとした人についてもですね、人にその人を紹介する時にこう言う事が起こるのじゃないですか。何もしなきゃそのまま伝わるんだけど、自分が入って紹介すると、とんでもない事になるんでしょう。ね。

「たヾわずかに華厳・楞厳経の文句を」華厳経とか楞厳経とかいったお経がありますが、そう言う文言ですね、文句を「暗誦して伝説するのみなり。」のみなりって言うんだけども、「暗誦して伝説するのみなり」って言うんだけど、暗誦出来るって言う事は、一般的に言えば聡明な人です。聞けばすぐ、あすこにこう言う事が書いてある、何行目、何ページの何処何処にこう言う事がある。すぐ出てくる。試験やると百点満天取れる人です。ねぇ。

だけどもそれを自分の血肉の様に本当に受け取れない間はですね、やっぱりつまらないんじゃないですか。「いまだ仏祖の骨髄あらず。」自覚が自分で本当にない、その内容が。やっぱり本に書いてある、経本に残してある事の様に受け取っている。本来はそうじゃないでしょう。そう言う示してあるものが、自分自身の真相ですよ。内容ですよ。

「宗杲おもはくは、大小の陰倫、」下にもあるけど、世を逃れて、陰士とかって言うんでしょう。「わづかに依草附木の精霊にひかれて保任せるところの見解、これを仏法をおもへり。」やっぱり自分自身の真相と比べてみると、他所に何かそう言うものがある様に受け取ってる。

改めて皆さんにこうやって話しをしますけども、他所に何かあるって言う事はないでしょう。こうやって、あの人がこの人がって言ってる事を触れて御覧なさい。他所に何かがある訳じゃない。それ全部自分の今の様子ですからね。あの人もこの人も、あんな事言ってるこんな事やってるって。それ自分の様子ですからね。その位の事は、もうこれ以上言わなくても大丈夫でしょう。そこら辺で躓く人いるかしら?躓いちゃって、ついて来れない人、そんな事ないでしょう。それで随分変わるじゃないですか。

今まではそうやって、あの人がこの人がって、他所の人の事の様に、思ったり、見たり、考えたり受け取ってきた。そうじゃないですよ。あの人がって思いを起こすのは、正しく自分の中で自分が起こすんですよ。聞いて、あの人があんな事言ってるって受け取るのは、必ず自分の聞いた上で自分がやってる事ですよ。向こうの人の事では絶対ない。色んな現象がそこに、目の前でこうやって起きてる。そうすると、そう言うものを触れて、あの人があんな事やってるって、愚かだなと言ったり、素晴らしいなって言ったりしてる、全部このもの(自己の身心)の様子ですよ。

そう言う事が少なからず分かってくるとですね、今までの勉強の方法とは違うじゃないですか。人を問題にしなくなる。他所の事を問題にしなくなる。自分自身の今の在り様に、本当にこう親しく何時でも居る様になる。

そうでないと、自分の中で起こした思いがですね、あらぬ事をさせるじゃないですか、自分で。こんなに一生懸命修行してるのにどうして私ははっきりしないんだろう。そう言う思いを自分の中で起こすとですね、又考え方を中心にして修行を始めるじゃない。だって自分は行き着いていないと思う訳だから。そしたら探し始めるじゃない。他所に尋ね始めるじゃない。そうすると自分の今の真相から、絶対離れて行きますね。自分の真相って言うのは、二十四時間自分の様子から離れた事がない。尋ねて行く用がない。そう言う風にして行くのが、修行の正当な在り方じゃない。

鳥が飛んできて、シュー、シュシュシュシュ、そう言う風なのをこうやって触れてる時に、その通りこうやっていないと、鳥の活動してる通りにこうやっていないと、どうなってるかがはっきりしない。先ほどの事なんかに絶対触れてられない、それにこうやって触れるって言う事は。必ず今の様子だけがこう在ると言うことです。そうするとはっきりする。そう言う事が分からないと、こう言う風にして、「依草附木の精霊にひかれて保任せるところの見解、」見解を起こして、で、ものが分った様な気になるから、一応暗記ができ諳んじる位の力が有る訳だから、理解は出来るでしょう。ねぇ。

蔵の中に、昨日も話した、蔵の中に金塊が有る。自分の家の蔵の中に。で此処に蔵を空ける鍵があるって言う様な事がある。それ蔵を空けなくたって、その位の事は理解がいくじゃない。中に金塊があるから、その金塊を使ったら、こんなになる、あんなになる、こんな事も出来る、あんな事も出来るって、もう一杯色んな事が思える。だけども、ねぇ、それは思えるだけであって役に立たないでしょう。

だから自分で自分の本当の在り様の処にこうやって届く様に、ちゃんと鍵を開けて入って、他所に目を向けずに、自分自身の今の在り様にこうやって触れると、自分自身の中にある金塊に手が届く。で、それを自分で使いこなす力が有るんでしょう。そう言うものが、皆さんが今修行すると言う事でしょう。

この「依草附木の精霊にひかれて保任せるところの見解、」を、「これを仏法と計せるをもて、はかりしりぬ、仏祖の大道いまだ参究せずといふことを。」日常の生活の中で、修行している時の殆どの場合が、考え方を中心にして、考え方を使わなかったらどうなるかって言う風にして生活してたら、やっぱり考え方を離れた訳じゃないもんね。それ注意すべきでしょう。

ああ、こうやって色んな事を思うから、こう言う事を思うのを止めたら良いんだって言って、そう言う風に思う事じゃないもんね。それはあくまでやっぱり考え方の中でやってるだけであって、本当に伝えたいのはそう言う事じゃない。考え方を本当に止めてごらん、離れてごらん、起こさずにその活動してる様子だけでいてごらんて言う事は。「分りました。そう言う風にすれば良いんですね。」って言って帰って行く。分ったかなと思うと、ああ、ちゃんと考え方で掴まえて帰るだけですね。そう言う処をちょっと見ておいてほしい。

「圜悟よりのち、さらに他遊せず、知識をとぶらはず。」圜悟禅師に大慧の宗杲さんは最終的に参禅をされて、その後圜悟禅師が亡くなった後は他所にも行かなかったと言う事です。「みだりに大刹の主として雲水の参頭なり。」じゃ、この宗杲さんと言う方は、どう言う風になったかと言うと、圜悟禅師が亡くなった時に、圜悟禅師のお葬儀を主葬として、まあ分り易く言えば、導師を勤めて、圜悟禅師のお葬儀の導師を勤めてお送りした人です。圜悟禅師の葬儀の導師を努めると言う事は、言ってみれば後を継いだと言う事ですね。圜悟禅師の後を任された。

圜悟禅師は亡くなる前にですね、まだ許す事は出来ないんだけど、他に人がいないって、この人を置いて、言うのでしぶしぶこの人に任したんでしょうね。だからみだりに大きなお寺の住職として、大勢のそこに来る修行者の指導する「参頭なり」引っ張って行く人ですね。難しいもんですねぇ。

「残れる語句大法のほとりにおよばず、」書き物やなんかが多少残っている。人天の眼目なんて言う様なタイトルのものがある。道元禅師は酷評をやっぱりするのですけれども。ひどい評をして、何処に人天の眼目となる様な内容があるかって言ってこき下ろすんですけど。一応タイトルは人天の眼目と言って、これを見れば修行がちゃんと出来るって言う様な位の事は書いたものが残ってるんですよね。

そう言うものですね、「残れる語句」だけども道元禅師がお読みになってみると、「いまだ大法のほとりにおよばす。」「しかあるをしらざるともがらおもわくは」これ何時頃の時代の事さすのでしょうね。私達もこうやって此処で勉強してるけども、もし宗杲禅師の物を読んで、皆さんが如何いう風にそれをうけとるかって言う事に関わってきますね。「しらざるともがらおもはくは、宗杲禅師、むかしにもはぢざるとおもふ。」先輩の圜悟禅師や黄檗禅師、まあ色んな方が居られるんでしょうけど、そう言う錚錚たる人と比べても、恥ずかしくない立派な人だって思う。

「みしれるものは、あきらめざると決定せり。」一緒に生活をなさった方々、大慧の宗杲さんと一緒に圜悟さんの所で修行してる人達は、その毎日の成り行きを目の当たりに見聞してますから、見聞きしてますから、はっきりするって言うことですよね。本当に圜悟禅師が、大慧の宗杲さんを、それで良いって許したら、必ずそう言う事がその当時伝わってる。

「ついに大法をあきらめず、いたづらに口吧々地のみなり。」原稿があってそれを読めば、自分に内容が無くたって、同じ内容の事を外に向けて喋る事は出来る、言う事ですかね。で、聞いたら素晴らしい事言ってるって言って、おおすごいなこの人は、って思ったら、他人の原稿だったって言う様な事でしょうか。エー、だから聞いてる間はいいけども、質問するとすぐ分かるね。書いてない事を質問されると、力が無いとそれ以上出てこんもんね。

だからこうやってトークする必要がある訳じゃない。色んな仏法だけでなく、色んな勉強する時に、必ずその人と直に会って話しをしてみると、その人の様子が必ずさらけ出される。そうやって皆さん方も人を知るのでしょう。その人がどう言う人か、

「しかあればしりぬ、洞山の微和尚、後鑑あきらかにあやまらざりけりといふことを。」前回、前々回あたりに読んだ所に、この圜悟さんの前の方に参禅した洞山の微和尚という人に参禅をした処がありますが、その方は折りある毎に宗杲さんがですね、気が付いたとか、何か修行の上ではっきりしたとか言って、色んなものをもって来るんだけど、それを点検して、まだ到ってないと言う事で、本当にそれは、その一線はですね、はっきりするまで決して人情にほだされたり、その誠意に騙されてですね、許す様な事はしなかった。

人間て中にはそう言う事もあるじゃないですか。これだけ一生懸命やってる、可哀相だからまあ良いにするかとか、ほだされるって言う事がある。だけど、その一線を崩すとですね、大変な事になると言う事を、この洞山の微和尚さんて言うのは良く知っておって、その絶対に踏み越える事はしなかったんですよね。

「宗杲禅師に参学せるともがらは、それすゑまで微和尚をそねみねたむこと、いまにたえざるなり。」そのそねみねたむって言うんだけども、その、なんだろうね、道元禅師のこの「そねみねたむこと、いまにたえざるなり。」って言う言い方をする中には、もうちょっと温かみがあるのかね。法を重くするゆえにって言う、後を哀れむゆえに、今を大事にする。百年千年後の事を本当に大事に思うんだったら、今絶対いい加減な事はしないって言う事でしょうかね。それが本当のものを伝えて行く時に大事な事なんでしょう。

先輩達の所に参禅をしておった時に、たまたまそこを通りかかった時、中でお話をしてるのが耳に入ってるのを聞くとですね、ああもうちょっと許すのを待って、はっきりしてから許せば良かったって言う様な事を、師資でそう言ってる方が居られた様な話も聞いてます。後になって、失敗したなと思うんですよね。

まあこの位出来たからこの辺で良いにしてやろうかなんて言って許した事がですね、後でやっぱりとんでもない事になってる、言う様な話し伺った事もある。あるんでしょうね、そう言う事。あら、自分を可愛がるとね、これだけ一層懸命やってるのに、あの人あんなにやってるのに、何であの人許さないんだろうって言う様な事が聞こえたり、そう言う目で見られると、こっちが弱いとなびくじゃない、ね、そう言う様な事が、こう言う処の文言の中に隠れてるんじゃないですか。

「微和尚はたゞゆるさざるのみなり。準和尚のゆるさざることは、微和尚よりもはなはだし。」その後に、もう一人の人に参禅してる、なんだっけ、この準、まあ後で見て下さい。「まみゆるごとには勘過するのみなり。」点検をして、本当に徹しているか、本当にそこに行き着いているかって言う事をこうやった時、及ばないって言うものが見えると、本当にこうやって何回でもさ許さなかった。

でもこれ人柄でしょうかね。同じ許さないにしても、この準和尚の方は、面白いね、「ねたまず、」あの人にそうやって言われるんなら仕方がないかなぁって言うだけの力があるのかね。徳だけじゃなくて力があるんだろうと思う。「而今」今ですね。「およびこしかたのねたむともがら、いくばくの懡なりとかせん。」それを本当に許さなかった人を立派な人だと思うのと、なんで許さなかったんだろうって思う人が居る訳だけども、何で許さなかったって方の人柄を見ると懡欏と言うんでしょうね。

自分ではっきりしていないのに、はっきりしたって言って、持って行って許して欲しいって言う事を考えた時に、恥ずかしい限りだと言う事でしょう。

で、こう言うものが人に備わってるから、自分で本当に徹したか徹しないかって事を、人に尋ねなくても分かる様になってるからいいじゃんねぇ。修行するのに。自分の中で本当に疑いが全部取れると言う事があるから、取れない限りは、どうしてもどんな風に自分をなだめてみても、納得の行かないものが僅かでもこう残るじゃない。それが本当の決着をつけさせる道にですね、誤りを犯さない、そう言うもの誰にでもある。

だけども疎かに生きると、自分でそれをないがしろに、この位でいいやって言う風にしてしまう。それは後々何かあった時に、自分でも寂しいし、辛いし、恥ずかしいし、情けない事が必ず起きる。まあ、それは本当に忘れないで欲しいのね。そう言う純真にものを追求する、人の為ににやるって言う事も勿論あるんだけども、自分がはっきりしなければ、人の為にそのはっきりした事を伝えたくたって無理だから。そう言う恥かきにならない様にしようと言う事ですね。

自証三昧 Ⅸ

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「後稍経載、湛堂示疾(後稍載を経て、湛堂疾を示す)。」一緒に修行生活をしておられたけれども、湛堂禅師がその後に身体の不調をとなえられた。そこで学んでる宗杲さんとしてはですね、こんな事を聞いています。「『和尚百年後、宗杲依附阿誰、可以了此大事(和尚百年の後、宗杲阿誰に依附してか、以て此の大事を了ずべき)』」。まあ百年て言うことはあなたが死んじゃった後はって言う事でいいでしょうか。あなたがなくなった後は、私の今この問題になる事をだれに勉強したら解決がつくのか。本当は自分が解決するまで生きてて欲しいって言う事でしょうけど、ねぇ。中々それを許さない。そう言う事があるでしょう。

そこで湛堂さんがその人に、「嘱曰」って事は授けたのでしょうね。こう言う事を言って。「湛堂嘱曰『有箇勤巴子、我亦不識他。然雖、你若見他、必能成就此事。你若見他了不可更他遊。後世出来参禅也。(湛堂嘱して曰く、『箇の勤巴子といふもの有り、我もまた他を識らず。然りと雖も、你若し他を見ば、必ず能く此事を成就せん。你若し他を見んよりは、了に更に他遊すべからず。後世参禅を出来せん)』」

エー園悟克勤という人、勤と書いてありますがゴンと読んでる、今は。園悟禅師と言う方がおられる。勤巴子と言うのは園悟克勤という方です。少し禅書に堪能な方は碧巌録と言うものをご存知かも知れません。碧巌録はこの園悟禅師の手によって出来ています。禅宗の三大著書として、無門関、碧巌録、従容録と言う大体この三つが禅宗では珍重されています。

まあそう言う経緯もありますが、兎に角湛堂さんはこの園悟禅師に会った事はない。面識もないんだけども、何かを見て何かに触れてこの人はすごいと言う事知ってるというんですね、やっぱり。この人以外にあなたが私が亡くなった後、ついて学ぶ人は居ない。他所に行ったら駄目だとまで言っておられる訳です。有難いですよね。探さずに済む。あっちゃこっちゃ色んな所探さずに。この眼のちゃんとした湛堂さんがお墨付きの人だ。この人ならば間違いない。あなたの今問題になってる事を解決する指導を必ずしてくれるから其処に行きなさいと言っておられる。

今私達はものを学ぶ時、じゃ何処へ誰についたら良いかって尋ねる時に、誰が何処へ行ったら良いって示してくれる様な人、どれだけいますか。これだけネットや色んな物がこう盛んで、世界中が開けっぴろげられて、情報が行き来してる中でですよ。それだのに何処へ行ったら、私ら弟子が出きたりなんかした時に、修行何処へ行ったらいいですかって。

修行寺は幾つかありますよ、曹洞宗でも30近く。だけど何処の寺に修行に行ったら良いかって言われた時に、即答できる所がない。道場はある、人も居る。だけどもって言う様な事は。それは別に仏道だけじゃないじゃないですか。色んなものを本当に学ぼうとする時に。そう言う事がどこにでも見受けられるんじゃないですか。まあそう言う時にこう言う事があると有難いね。

「この一段の因縁を検点するに、湛堂なほ宗杲をゆるさず、たびたび開発を擬すといへども、ついに欠一件事なり。補一件事あらず、脱落一件事せず。微和尚そのかみ嗣書をゆるさず。」だから幾ら頼まれても嗣書を授ける事が無かった。湛堂と言う人は立派な人だと言うんですね。あの手この手を使って嗣書をくれって言って誘惑するんだけども、一切そう言う誘惑に組せずにですね、清廉潔白。仏道の本来の在り様をですね、貫き通した。

これだけやられるとですね、可哀相だからまあやるかって言う様な事になるのよ。段位が上がって来るのでも見てごらん、何段とかって。十段位あると六段以上だと大概もう名誉職ですからね。ドンドン上がって来ますね、積むの。ねぇ。実力は五、六段が一番有るのでしょう。教授よりも準教授の方が実力があるでしょう、大学でも。悪いけど。

「『なんぢいまだしきことあり』と勧励する」まだ駄目だって言って励ました。勧める。「微和尚の観機あきらかなること、信仰すべし。」これは最初の微和尚の話ですね。「『正是宗杲疑処』を究参せず。」ああやって途中で自分の欠点、一番大事な処に欠落してる処をこう気づかされたにも拘らず、また何時の間にかその事は放っといて、所謂博学の人の様なものの学び方に流れてしまう。「脱落せず、打破せず、大疑せず、被疑礙なし。」それ位人間て、この本物を自分で触れて自覚するって言う事はないがしろにされやすいんだね。

さっきの話を持ち出せばですね、録音して来た鳥の声を聞いて、本物だと思ってられる位の事ではにですか。録音したの聞かしといて、山行って鳥の声聞くと、あ、録音と同じだって言う人が居る。エー。どっちが本物だ。あ、録音と同じ様に鳴いてるって。全く捉え方が違うよね。それ位基準になるものがですね、そのバーチャルの方が本物だと思ってるのよ。だからこうやって宗杲禅師もですね、自分の欠点があるにも拘らず、いつの間にかそれを問題にしなくなっちゃうんですねぇ。

大勢の人にちやほやされてですね、自分のそこの至らない処なんかやらなくたって一生済んじゃうもう。肩書きがあって、良い地位にいて、皆から大切にされてちやほやされれば、百年位すぐすぎちゃうよ。そう言うもんでしょう。

「そのかみみだりに嗣書を請ずる、参学の倉卒なり、無道心のいたりなり、無稽古のはなはだしきなり。」まあ滅茶苦茶ひどいねぇ、道元禅師。人をこき下ろす段になると、この位もうコケにする。立ち上がれない位言われちゃった。この位言われると、もうすごいね。こうやって奮起させるんですよね。本物を求めなさい。これ昔の様に書いてあるけど、今此処で、私達は自分の事としてこれを学んで行かなければ意味がない。はっきりしないにも拘わらず、ただその証となる嗣書って言うものを欲しがるって、これは、って言ってるのですね。

「無遠慮なりといふべし、」まだ続くね。エー「道機ならずといふべし、疎学のいたりなり。貪名愛利によりて、仏祖の堂奥ををかさんとす。」こうこんなに、まあ滅茶苦茶ひどいねぇ。どれを取り上げても。エー、道元禅師がいかに清廉潔白な人だったかって言う人柄が、こう言う文章を読むとわかる。

かって自分の弟子が鎌倉の北条の所に行って話をした時にうまい話があって、お寺になんか寄進をすると言う様な話を頂いて帰って来たのでしょう。だけどその方は得々として帰って来て、道元禅師に報告をしたら、その人の修行してる、自分の坐ってる単と言われる、この白雲閣でも高い所へ坐ってますね、あの坐ってる一画を切り取って、そして下の何尺か土を掘って全部捨てたって。それ位道元禅師って言う方は、そう言う事に関しては清廉潔白に人だったって言う。これは逸話じゃなくて実話として残ってる。

普通の人だったら、よくやった、永平寺もこれで助かるって言って、喜んでそれを受け入れるんだろうけど、そう言う仏道に関しては、道元禅師って言う方は微塵も世俗のそう言う温情を入れない人だった。ねぇ。そう言うのがこう言う先輩から学んでるのでしょうね。

「貪名愛利によりて、仏祖の堂奥ををかさんとす。あはれむべし、仏祖の語句をしらざることを。」自証三昧、自証自悟と言う句があるけども、真意はそんな自分勝手な物を知るって言う内容を言ってるんじゃないって言う事ですね。

「稽古はこれ自証と会せず、万代を渉猟するは自悟ときかず、学せざるによりて、かくのごとくの不是あり、かくのごとくの自錯あり。」さっき来ずーっと話してきてますけども、何回も繰り返しますけども、本当に自分自身の様子にこうやって触れてみると、朝から晩まで、ただ、この自分の頂いている自分自身の身心の活動以外にない。それはもう決定的なんでしょう。誰でも。

色んな物見るんだって、この自分の身心を借りて見た物だけですよ。色んなものを聞くって言ったってこの身心を借りて聞くだけですよ。全てこの身心を借りて、今、そのものに触れて事が成り立ってるだけですよ、一日中。一切他の人の活動は無い。何回も申し上げますけど。分かった様な、分からない様な話でしょう。

だって私は是だけだと思うから、どうしても是だけが私だと思う。こっちに居る人は私じゃない、外に居る、向こうの人だって。じゃそう言う思う事は誰がやるのですか。そう言う風に位置づけてるのは、誰がそう言う風に位置づけるんですか。誰か他の人が、是が私で、これは余所の人だって、そんな事誰も他の人がやってませんよ。みんなこのものの中でやってる事ですよ。あの人は良い人だ、この人も良い人だ、あいつはって、そうやってるのも、みんなこのものの中でやってる事ですよ。

それ位丁寧に触れてみると、本当にこう言う事が、稽古はこれ自証なりと言う事じゃないですか。古をうやまう、稽古。お稽古をするって言うのは、自分の生まれてから後につけた癖を、一切無くなるまで物事に親しむって言う事が稽古でしょう。茶道にしても華道にしても弓道、剣道、あらゆるものがそう。万代、よろずですよ。エー渉る、それから猟をするんですけどね。それを何だろう、眼を通して獲得するって言う事ですかね。

だってこんな難しい文章だけども、平たくこうやって言えばですよ、皆さんが知ってる物って、全部自分で見たものだけですよ。エーそうでしょう。自分で見たものだけでしょう。ああ言う物がある、こう言う物があるって知ってるのは。自分の目で見ない物は、ああ言う物がある、こう言うものがあるって無理でしょう。そう言う事ですよ。万代、よろず。

自悟ですから、自分ではっきりしてるでしょう。人に聞く用がないでしょ。こうやって物に触れた時に、どうなってるって。見りゃちゃんとその通りになってるんだもん。その通りになってるから、人に聞いてどうかしなければはっきりしないなんて事、一切無いでしょう。の、筈なんですよ。筈なんだけども何故か人に尋ねて聞くと、やっと分かった様な気になる。

停電で真っ暗になると、面白いなって思う。あの真っ暗の中でもですね、食べ物を鼻に持って行く人は居ない。ちゃんと口に持って行って食べてる。何も見えないって言うんだけど、面白いね。自分の様子って言うのは、あんなに真っ暗になると本当によく分かる、一切他の人の様子が無いって言う事が。明るいと何か他の人の様子がある様に見えるんですよ。真っ暗になると本当に自分の様子ばかりですよ。で自分の様子って言うのは、真っ暗な中で、ものすごいはっきりする。見えないんじゃないんのね。真っ暗で見えないんじゃない。真っ暗だともの凄くはっきりする。不思議だね。

「学せざるによりて、かくのごとくの不是あり、」本当に学ばないから、そう言う風にはっきりしないだけじゃないって、言ってるんでしょう。かくのごとく誤り、自ら取り違える事がある。かくのごとくなるによりて、そう言う事だから、エー宗杲禅師の門下には「一個半個の真巴鼻あらず、」ひどい事になってきた。この大慧宗杲さんも流れを汲む者の中には、本物は育たなかったと言う事になると、こう言う風に位置づけておられる。

最初が駄目なら次も駄目って言う事に何故なるのかって言ったら、駄目な人が許すって言う事は駄目でしょう。はっきりしない人が、人をはっきりしたって許すって言う事は変でしょうって言う事でしょう。許された人も何で許されたか分らないまま、許されたって言って受け継いで、次の人に受け継がなきゃいけないからって、なんだかよく分らないけど良しって言って次の人に渡して行く様な事になったら、本当に何がなんだか分らなくなるって言う様な事が、道元禅師の時代に既にこうやって道元禅師が実感しておられるのね。

「おほくこれ仮底なり。」ケチって面白いね。こう言うカナがふってある。「仮底なり。」真実でない事ってなってますから、ケチってそう言う違った字を使うといいかも知れない。あの人ケチだねって、真実でないっていいかも知れない。

「仏法を会せず、仏法を不会せざるはかくのごとくなり。只今の雲水」今の修行してる人達、「かならず審細の参学すべし。」自分自身の事だから、宗杲さんの様な過ごし方をして良しとしてはならない、と言うんですね。自分自身の事だから、はっきりしてるかしてないか位はよく分るでしょう。何がはっきりしてるのか、何がはっきりしてないのかも、自分でよく分る訳でしょう。「疎慢なることなかれ。」愚かに、そして高慢て言うか、自分勝手であってはならない。

まだ続くね。「宗杲因湛堂之嘱、而湛堂順寂後、」先ほど話しが有った様に、自分が亡くなった後はどうしたら良いかって言う事に関して、湛堂さんが示した通りにですね、って言う事ですね。「参圜悟禅師於京師之天寧。」エー其処に圜悟禅師がおられるので、圜悟禅師に参禅をされた。「圜悟一日陞堂、宗杲有神悟、以悟告呈圜悟。」これは宗杲禅師が自分で気づいた処が有って、自信をもって圜悟禅師の処に行って、こんな様子です、こんな事がありました、こんな風になりましたって言う様な事を申し上げたんでしょうね。

それを聞いて、圜悟禅師が「『未也、』」届かない。未だそれでは駄目だ。「『子雖如是、而大法故未明。』」色々あったり、そうやって言うけれども、未だはっきりしてないねって言われちゃった。

ここで一つ皆さん方と問題提起ですが、人に駄目だと言われて退くのか、人に良しと言われて納得するのか。或いは人に良しと言われ様が駄目だと言われ様が、狂わない程確かなものが自分にあるのか、言う事が問われるんじゃないですかね、一つは。そう言う力があるから、本当は圜悟禅師の処に赴いて、自分の内面を露呈して、そしてお互いに腹を割って話し合う。そうすると、成る程という様な事が伝わるのでしょう。そこまで腹を割って全部さらけ出してやらない事にか隠し事が少しでもあったら駄目でしょう。

「又一日圜悟上堂、挙五祖法演和尚有句無句語。宗杲聞而言下得大安楽法。又呈解圜悟。」自分の心境を歌に綴って示された。「圜悟笑曰、『我不欺汝耶』」欺かざらんやって言う事は、本当にやれたかどうかって言う事をはっきりしているって言う事でしょう。はっきりしていれば私は許すけれども、はっきりしてなかったら許せないと言う事でしょうね。

こう言う出会いがあって、湛堂和尚さんに紹介をされた圜悟禅師にお会いになって、やっぱりこの圜悟禅師って、湛堂師匠が後あそこに行きなさいって示されただけの人物だって事を実感したのでしょうね。騙せなかった、圜悟禅師を。宗杲さんの色々な技能を以ってしても。それでここにある様に、「これ宗杲禅師、のちに圜悟禅師に参ずる因縁なり。」離れられなくなった。

「圜悟の会にして書記に充す。」共産国に行けば書記長ってすごい位置ですが、私達の書記って言うのは記録係と言っていいのでしょうかね。記録は大事ですから、後代の人の為に記録をちゃんと残さないといけない、重要な仕事なんですね。間違った記録をすると次の時にえらい事になるから、間違わずに正確に記録を残して行く。

「しかあれども、前後いまだあらたなる得処みえず。」道元禅師がこの宗杲さんの事をこうやってつついみると、圜悟禅師に出合った後もですね、あれ以後それらしくはっきりしたって言う様な事が何処にもこの見あたらないとおっしゃってる。
「みづから普説陞堂のときも得処を挙せず。」今度は圜悟禅師の所を去って、自分で一軒を構えて人のために法を説く様になった時もですね、自分の今迄の中でこう言う事があってはっきりしましたって言う様な事に一つも触れた事がないと言っているのですね。

「しるべし、記録者は」圜悟禅師の歴史的な文章を残した、記録をした人達は「『神悟』せるといひ、『得大安楽法』と記せりといへども、」そう言う風な事が書いてあるけども、「させることなきなり。おもくおもふことなかれ。」書いてあるけども、実際にはそこまで行ってないって、道元禅師は大慧宗杲さんを評価しております。評価じゃない批評しております。批判しております。

何故こう言う事が、こんなに正法眼蔵の中で残されたかって言う事を考える時にですね、自分の後を本当に学んでちゃんとして頂く為には、ここがはっきりした人に継いで貰わないと駄目だと言う事が、道元禅師にあるからでしょう。程々の人って言うのは一杯いるんじゃない、学問をして。

ちょっと余談をしますが、私の幣師は小学校出たか出ないか位の学問しか無い様な人で、私が小さい頃、親ですから父親ですから、膝の中でよく人の話をしてるのを聞いてたんだけど、うちの父ちゃんは何でこんな父ちゃんの所へ人が来るのかなって思う。それ位学問の非常に優れた人達が多かった。僕はあんまりそう好きでもなかったけど、そのうちに段々東大、京大、九州大、北大、国立の大学出てる様な双そうたる人達が私の師匠の所へ参禅に来る。何を学ぶんだ。エー。小さいながらもおもいますよ。

で私の師匠の寺は檀家が二十軒かそれ位しかない様な、破れた様な小さな寺で、当時はこの位の建物しかない、寺が。こんな中に五人の子供が居て、一般のお寺さんから修行に来てる人が十人位はいたと思う。そう言う人達がこんな狭い所で暮らしてるんですよ。もう立派なお寺を捨てて修行に来る。吃驚。

中には臨済の方なんかは余所の師匠さんの所で、要するに印可といわれて、免許証がきちっと出されてる。そう言う人が参禅に来る。もう終わったんじゃないの、修行がって、ね。完全に終わってる筈。そのために出してる訳だから。そう言う人が修行に来るって何だろうって。そう言う中で小さい頃育った。それは不思議な縁ですね。そう言う所に産み落として貰って、知らない内にそう言う中で育った。今思うと、それは有難い事ですね。

「おもくおもふことなかれ。たヾ参学の生なり。」こんなに言われちゃうとかわいそうだね。これは道元禅師のお言葉だから、皆さんが自分が道元禅師になった様に、こんな風に使わないで下さいよ。ねぇ。道元禅師はこれだけの事が言えるだけの力がある。人の褌で相撲を取っては駄目、ね。

道元禅師がそう言ってるから、臨済はつまらないって、曹洞宗だから臨済はつまらないって言ったら、笑われる。そうじゃない。本当に言いたい事は、ちゃんとした眼を開きなさいって言って勧めてくれてるって言う事だけが、私達に必要な事でしょう。このとおり行ったら、今の臨済宗は全部、そう言う感じじゃないですか。あんな所に行って学ぶなって言う風に受け取れちゃうじゃないですか。そんな事になったら、本当に何だろう、大変なご迷惑をかけるから、それは今の人がどれだけ臨済の真意を復興してる人が居るかって言う事にかかるじゃないね。曹洞宗も同じでしょう。エー思うことなかれと言われる言葉の中には、そう言う受け取り方をして頂く必要があろうかと思います。

エーまあその辺で。時間ですから。